Episode22
 京都映画での監督稼業

    ──まだまだ続く二足の草鞋

その1

 

前号まで

 「監督とはどういう職業なのが?」をテーマに書き始めた。それを分かりやすく説明するために、「どうやって監督になるのか?」を書き、引き続き「監督になったらどうやって作品を作り上げていくのか?」を書いている。前号では、私なりの台本(ホン)直しのやり方や、準備稿台本ができ上がった後の準備作業のうち、最初の打ち合わせとロケハンまでを書いた。前号と同じく、分かりやすいので2時間ドラマを例に取りながら話を進めて行く。

 

美術準備はロケハンと並行して

 ロケハンと並行して美術的な準備も進めていく。最初の打ち合わせで大体のことは伝えるが、ロケハンやコンテ作りが進んで来ると、新たな小道具や衣装が必要になったり、初めに決めていたものを変更したり、より詳細なものを要求したりすることになる。それをその都度、助監督に伝えて各パートに準備してもらうのだ。また重要な小道具や作り物(書類や写真、凶器、証拠品、地図、パソコン画面、テレビ画面などなど)は、日々にそれぞれ担当の助監督や担当者が確認を求めてくる。時代劇の場合は決まりものが多いのであまり数多くはないが、現代劇特に事件物はこういった作り物が多く、そのでき栄えの善し悪しは作品のクオリティを左右するので、手を抜けない。

 

決定稿を作る

 諸準備が進んでくると、そろそろ決定稿を出す時期が迫ってくる。決定稿には、準備稿の段階では決まっていなかった配役や、スタッフの名前を入れる。また、ロケハンによって変更が必要になった、場所設定やそれに伴う芝居内容も加味される。さらに場合によると、監督としてはあまり嬉しくはないが、テレビ局の各部やPの上司などの意見、それに主演俳優の意向なども配慮して、決定稿に反映する場合がある。そこらの塩梅は制作会社Pとテレビ局の担当Pの腕の見せどころだ。

 

衣装合わせとは

 クランクインの1~2週間前になると、2~4日ほど掛けて、「衣装合わせ」を行う。名称は「衣装合わせ」だが、衣装だけではなく髪型やメイク、靴や帽子、腕時計にイヤリングなどの装飾品、さらにカバンやバッグなどの持ち道具までを決める作業だ。出演者全員に東京衣装などの衣装会社に来てもらい、出演シーンの衣装を実際に着て髪型やメイクを施し、装身具を着けてもらうのだ。

ちょいと横道に逸れる。京都映画は松竹の子会社だったので、すべての作品で系列の松竹衣装が入っていた。京都映画を出ると東京衣装と組むことが多くなった。元々は撮影所もテレビ局も自前の衣装部を持っていたのだが、経営合理化のために次第に子会社化したり、東京衣裳のような衣装会社に任せるようになった。

さらに横道に逸れる。撮影所やテレビ局が自前の衣装部を持っていたころの衣装部さんには怖い人が多かった。衣装を扱うのでなんとなく優しい人が多いと思ってしまうのだが、そんなことはない。私がアルバイトをしていたころの東映の衣装部には、鬼のようなM課長がいた。私のような下っ端の助監督が声を掛けても、「何や!」と目を三角にして睨むのだ。その迫力にこちらもしどろもどろになる。「いや、あの、〇〇さんの衣装をもっと明るいものに替えて欲しいと監督が……」「誰や監督は!?」「はい、△△監督です」「あのアホ、衣装替えて欲しかったら、自分で言いに来い!」。監督にそんなこと、ぺーぺーの私が言えるわけもない。若手の監督など「屁でもない」と思っている衣装課長だった。このM課長に限らず衣装部は新人の俳優にも厳しく、後で有名になった女優さんなどが「京都の撮影所ではイジメられた」とテレビで回想したりしていた。

さらにさらに横道に入る。後年私が東通企画に移ってから、毎日放送(MBS)の帯ドラマを演出することになった。MBSの帯ドラマには東京衣裳が入っていた。衣装部の若い男の子が「Mです」と自己紹介した。その名前にふと思い付いて「東映京撮の衣装部に、Mさんという衣装の怖―い課長がいたな」と振ってみた。M君が急にモジモジして言った。「それ、私のオヤジです」。私はニンマリして言った。「そうか、君はMさんの息子か。君のオヤジさんにはイジメられたから、覚悟しとけよ」。

東映京都には美術各部にM課長のような怖い人がいた。白鳥さんという結髪責任者のおばさんもみんなに怖がられていた。私が初めて助監督に付いた作品で、その怖―い白鳥さんにとんでもない用事で頼み事をする破目になった。そのことは「第27回【Episode12】助監督になるその3」で書いたので読んで頂きたい。そのころの白鳥さんも東映社員の結髪さんだったと思う。

撮影所もテレビ局も社員の美術部(衣装、メイク、結髪、床山、大道具、装飾、小道具)がいなくなったので、前述のようなサムライたちがいなくなった。そのため、撮影所やテレビ局の美術廻りは、俳優やタレントの天国になってしまったようだ。

 

「衣裳合わせ」は「キャラクター合わせ」

長~い横道から戻る。実は「衣装合わせ」は、単に衣装などコスチュームを決めるだけではない、非常に重要な場なのだ。言うまでもなく衣装などを決めるためには、その役のキャラクターを決めなければならない。主役のキャラクターについては、ある程度丁寧に台本に書き込んであるが、それ以外の役柄についてはそれほどキッチリ書いてはいないものだ。その不足分──演出プランに沿った生い立ちであったり、背景であったり、価値観や癖など──を、監督は俳優に説明しなければならない。また、主役やそれ以外の役でも、「台本にはこう書いてあるが、こうした方が面白いのではないか」という監督自身のアイデアもあったりすると、その話もしなければならない。そういう役柄についてのアイデアは俳優の側からもあったりする。「衣装合わせ」では、そんな話を実際に衣装を合わせる前にするわけだ。従って「衣装合わせ」とは、内容的には「キャラクター合わせ」という役割が強いのだ。「衣装合わせ」で出て来たアイデアが、その作品の幅や奥行きを広げてくれるということが、結構あるものだ。監督はそういう場をうまく利用して、作品をブラッシュアップして行かなければならないのだ。

また監督に、台本に書かれた設定以外のアイデアや腹案がある場合は、衣装部やその他の美術パートに前もって伝えて、そのアイデア方向の衣装も準備して貰わなければならない。監督のその場の思い付きや個人的なアイデアだけでは、「衣装合わせ」の効果は半減する。撮影は全てが共同作業だ。監督といえども、他のスタッフの助けなしには、1シーン1カットも撮ることができないのだ。

 

専属スタイリスト

またまた余談だが、中には専属のスタイリストを持っていたりする大物俳優もいる。私の経験ではテレビ東京・東通企画制作「駐在刑事Ⅴ」や「連ドラ・駐在刑事」に出演した黒木瞳もそうだった。彼女の場合は、まず本人と大体のイメージを打ち合わせた。キャリアの警察官という役柄だったので、仕事着は基本的にはパンツかスカートのスーツということになる。従って、ここはスカートで行きたいという私の希望や、シーンごとにスーツか私服かということを決めて、その他の衣装や靴・バッグ・装飾品はスタイリストと黒木瞳に任せた。

もちろん衣装合わせでは、実際にその衣装を本人に着て貰って確認した。ロケ場所によっては背景との兼ね合わせで、また芝居の都合によって衣装を変えて貰うこともあった。男優の場合はあまり気にすることはないのだが、女性の場合は上着やパンツにポケットが付いていない場合があり、思わぬドツボにはまったりすることがあるのだ。

土曜ワイド劇場「ミステリー作家六波羅一樹の推理Ⅰ」のゲスト山本陽子の場合は、全編着物だったので彼女がいつも使っている鈴乃屋とタイアップした。ちなみに2時間ドラマのタイアップは衣装に留まらない。ロケの宿泊ホテルや航空機・レンタカーなどなど、一時はタイアップなしでは番組制作が覚束ないような状態だった。

 

型破り衣装部

衣装部の担当者も色々で、衣装合わせなのに自分の意見を言わずに、監督や俳優の言い出すのをひたすら待っているという衣装部もいた。こういう衣装さんだと時間が掛かってしょうがなかった。それとは反対に東京衣装の山崎武 (武さん)は、全てを自分のペースに巻き込んで仕切っていた。土曜ワイド劇場「花吹雪女スリ三姉妹 伊万里・嬉野編」の衣装合わせは、武さんのホームグランド東映京都撮影所で行った。主役の叶和貴子が衣装合わせに現れるや、スッと衣装を出した。「あんたが似合うのはこれや」そう言うやいなや、パッと衣装を広げて羽織らせる。「どや、よう似合うやろ。これは誰にも着せてへん衣装やぞ」。その気合と自信に、誰も口を挟む余地がない。すべてがこの調子で瞬く間に衣装合わせが終わった。彼は彼なりの衣装プランをしっかり作って来ていたのだ。確かに衣装も良かった。「誰も着せていいない衣装」と言うのは眉唾だったけど。

実は「武さん」は、あの深作欣二組の常連だった。所属は東京衣装だが、東映京都の衣装部に派遣されていたのだ。東映前の「夢屋」で毎晩のように深作欣二やそのメインスタッフ、それに俳優たちと賑やかに飲んでいた。普通は衣装部さんはそのメンバーに入って飲んだりすることはないものだ。それだけでも、彼が只者ではないことがわかる。私も「夢屋」のママの御主人が松竹芸能時代の先輩ということで、「夢屋」を時々使っていた。従って、「女スリ三姉妹」の遥か以前から「武さん」とは知り合いで、その作品が久しぶりの再会だったのだ。

 

いよいよコンテ作り

また、余談が長くなった。ロケハン、美術パートとの打ち合わせ、衣装合わせなどと並行して、あるいはその結果を受けて、監督はコンテを作っていく。コンテとは具体的な撮影プランだ。例えば、「駐在刑事」ではこのような出だしのコンテになる。

シーン(S#)1

カット(C)1(ドローン)奥多摩湖南側から水根方面俯瞰ロング

Ⓣ東京・奥多摩

     C-2(月夜見山峠―望遠FF)峠道の向こうから陽炎で揺らめきなが

ら姿を現す自転車に乗った江波。(効果―陽炎)

     C-3(月夜見山峠)もがいて登る汗だくの江波BS(車移動)。ここか

らナレーション入る。

コンテの作り方は監督によって様々だ。台本に書き込んでいく監督が多いが、まったく台本に何も書き込まない監督もいた。私が助監督で就いた経験では、三隅研次監督や倉田準二監督の台本には全く何も書いていなかった。だからといってコンテを作っていなかったわけではない。基本的な流れは頭に入っていたのだと思う。

倉田準二監督はシーンの撮影開始前に、カット1からラストカットまでを台本を一切見ないで説明した。立ち廻りのシーンなどでは100カット以上を一気に説明した。

三隅研次監督はそのシーンのコンテを一切説明しないで、1カットずつ撮る前に指示した。「次、こっからロング」とか「次は、姉ちゃんねぶり(ナメの関西弁)のオッサン」とかだ。

この2人について、京都映画の口の悪いスタッフは「家にキッチリとコンテの書いてある台本が置いてあるんやで」と噂していたが、それだと毎日撮る予定のコンテを覚えて来なければならない。そんな面倒なことをするとは思えないが、真相はどうだろう。

工藤栄一監督の場合も、台本には殆どコンテらしきものは書いていなかったと思う。撮影直前に閃きに近いアイデアを捻り出して、それをドンドン膨らませていくという撮り方だったと思う。台本の撮り終わったところまで、B4の鉛筆で「ここまで終わった」と線を引いていたのは覚えている。どうも、机に向かって台本にコンテを書いている姿は、工藤監督には似合わない、スタッフや俳優さんと喋ったり、賑やかに酒を飲んだりすることで、アイデアを醸成していたという方が工藤さんらしい。

友人の津島勝監督は、撮影現場で俳優さんに動いてもらって、その芝居を見てコンテを作っていた。この場合でも津島監督は、事前にある程度の組み立てをしていたのだと思う。

やたらにキッチリしていたのは、実相寺昭雄監督だ。コンテはカットナンバーが鉛筆で書かれている段階では仮のコンテだ。カットナンバーがゴム印の判子になって初めて正式コンテとなった。またその正式コンテのカット数がやたらに多かった。台本には書き切れなくて、別紙にも書かなければならないほどだ。さらに、そのコンテが問題だ。カットナンバーは判子で分かり易いのだが、肝心の内容が分かり難かった。何のためにこんなカットを撮るのか、私にはさっぱり分からないカットが随所にあった。興味のある方は、第43回【E18実相寺監督に就くその1】第44回【同続き】をご参照下さい。

 

私のコンテ作り

私の場合は基本的にはシーン1のカット1から順番に作っていった。撮影場所が決まっていないシーンは飛ばして作ったりもするが、あっちへ飛んだりこっちへ飛んだりという作り方はしない。作品の頭から作って行くことで、その作品の色というか一貫したテイストを貫いて行けるような気がするのだ。

徹夜なんかして一気に作る監督もいるが、私は基本的にノルマ制だ。例えば1日10ページというように決めて、粛々とコンテ作りをした。私の場合、体力的にというか気力的にというか、長い時間コンテを作り続けることができなかった。無理に続けようとすると、得てして狙いやアイデアの乏しい機械的なコンテになってしまうのだ。従って、大まかな目安で言うと、午前中3ページ、午後4ページ、夜3ページというように、まさしく仕事を片付けるという感じでコンテを作っていった。

そして、区切りのいいところまでを作り終えたり、アイデアが生まれずに壁にぶち当ったりすると、その都度場所を変えるのだ。午前中に家でやると、午後は会社の会議室。次は喫茶店という具合に転々と場所を変えていった。その間は電車に乗るというのが、インターバルとしては一番良かった。東京でコンテを作る時は、ウィークリーマンションのある中野坂上から地下鉄丸の内線に乗った。そして東通企画のある赤坂見附では下車せずに、終点の池袋まで行って、また同じ電車で赤坂見附まで戻って来るということもやった。電車のつり革に揺られながら次の展開を考えると、いいアイデアが浮かんで来たりしたものだ。山手線を一周したこともある。監督にはそれぞれ、そういったコンテを考えるときの最良の場所があるのではないだろうか。一度聞いてみたいものだ。

それでも興に乗ると、一気に10ページぐらいのコンテを作ってしまうということもあった。大体そういうのは、私の場合アクション場面だったりした。やはり私はアクションが好きなんだと思う。

 

コンテをオープンに

さて、コンテができ上ると──実は半分ぐらい進むと、助監督が3日置きくらいにコピーさせてくれと言ってくるのだが──コピーしてスタッフに配った。私は京都映画にいる時から、コンテはオープンにしていた。これは大したことではないが、私なりの考えがあったからだ。

キャメラを覗けない!?

映画界は長い間秘密主義が横行していた。例えばキャメラだ。私がいたころの京都映画は、誰でも自由にキャメラを覗けた。キャメラマンの石原興はアングルを決めると、キャメラから離れてタバコを吸ったりコーヒーを飲みに行った。その間、誰でも自由にキャメラを覗けたのだ。私が助監督の一番下っ端のサードの時でも、カチンコを打つ場所を確認するために、キャメラを覗けた。
 だがひと昔前の松竹撮影所や、私が助監督をしていた頃の他の撮影所では、キャメラマンにもよるが撮影部以外にキャメラを覗かせない風習が残っていた。私が時たま行くことがあった東映では、助監督のぺーぺーがキャメラを覗くという雰囲気ではなかったと思う。

内緒で絞りを変えるキャメラマン

またこんな話も聞いた。あるキャメラマンのセット撮影の時だ。撮影部は助手のチーフが絞りを決める。そのキャメラマンは本番前にチーフに「主役は光量いくら?」「背景のあそこはいくら?」と光量のバランスを訊いた。その後、「搾りは?」と訊いた。「3.2です」と答えてチーフがその通りに絞った。ここまではよくある風景だ。本番となった。監督が「本番!」と叫び、助監督も口々に「ホンバーン!」「ホンバーン!」と叫んだ。全員が本番体制に入った。すると、キャメラマンがスッとレンズの絞りに手を伸ばし、なんと絞りを半絞りだけ絞り込んだのだ。チーフに内緒で絞りを変えたのだ。何故そんなことをするのか?その「半絞り」が、そのキャメラマンの技術の秘密だったのだ。そして、その秘密をオープンにしないことで、そのキャメラマンは自分の権威を維持しようとしたのだ。

未成熟な映画界

私はその話を聞いた時に思った。「日本の映画界は、ビジネスとして成熟していない。もっと情報をオープンにして切磋琢磨しなければ、ビジネスとして成長できないのではないか?」生意気にもそう思ったのだ。

私が助監督で就いた監督にも、撮影が始まるまでコンテを明かさない監督はいた。コンテを秘密にして権威を守るという考えはなかったと思うが、「スタッフに前もってコンテを知らせるメリットは無い」と考える監督はある程度いたと思う。有名監督の中にも多いのだが、「自分のコンテをスタッフで切磋琢磨して磨き上げる」というよりも、「自分の頭の中で作り上げたものを、現場はそのまま画にすれば良い」という考えだ。

 

ストーリーボードを作るハリウッド

一方、映画が重要な産業となっているアメリカのハリウッドはどうか?撮影の前にストーリーボード(絵コンテ)を作って、そのイメージをスタッフと共有して撮影に臨むという。ストーリーボードとは、監督の作品イメージをシーンごとにあるいはカットごとに画にして示したものだ。字だけで書かれたコンテよりも遥かに分かり易い。ハリウッドは時間も金も手間も掛けて儲かる作品を作ろうと努力するのだ。

日本ではコマーシャルでは絵コンテを普通に作るが、映画やドラマで作る監督は少ない。私が知っている限りでは、あの黒澤明と大映出身の安田広義の2人だけだ。

コンテをオープンにする理由

「日本は監督の作家性を重視する」と言えば聞こえがいいが、監督の頭の中だけで勝負をしてしまっている。映画やドラマのスタッフは口うるさいかもしれないが、その道のプロだ。素晴らしい才能が集まっている。監督一人の頭の中で考えるよりも、プロたちの叡智を集めた方が、きっと良いものができるに違いない。

当時私はそう考えたのだ。何度も言うが、生意気にも。それから私は、画が下手なのでどうしても必要な場合以外は画コンテは作らなかったが、文字で書いたコンテは全てオープンにするようにした。また、コンテ作りに詰まるとスタッフにも相談した。私の作ったコンテを見て、スタッフから意見や異論が出ることもあった。議論百出で収拾するのに苦労することもあった。だが、それを纏めあげてこその監督だ。

 打ち合わせやコンテという形で、その作品に就いての方針やアイデアを、最初にぶち上げるのは監督の役目だ。そしてスタッフや俳優からいろいろ意見や異論を訊いて、最終的にジャッジして纏め上げるのも監督だ。そして、最終的に作品のクオリティの責任を負うのも監督だ。ちょっと気恥ずかしいが、「監督とはそういう職業」と思って監督稼業を続けてきた。

 

       【Episode22To Be Continued   

 

※次回は2025813日(水)に投稿予定です。



お知らせ

 スマホではこの後に、私が関知していない目障りな広告が掲載されるようです。皆さんのお目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。


摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 

照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 

受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 

是故空中 無色 無受想行識 

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界  無無明 

亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 

能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰


羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶


般若心経
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪