【Episode22】
京都映画での監督稼業
──まだまだ続く二足の草鞋
その16
前号まで
「映画・ドラマの監督というのはどういうことをする職業なのか?」について書いている。前号までは、準備から撮影に入って行うドライリハーサル(京都映画では段取りと言った)について書いた。ドライリハーサルは、その場で俳優の動きや演技がほぼ決まり、撮り方につてもほぼ決まる。あとはテストを重ねて本番・撮影になる。従って、監督という仕事にとって極めて重要な要素なので、今号も引き続きドライリハーサルについて書いてみたい。
時間・空間を盗む
ここで、やや専門的なことを書く。読者からは時々「専門的な話だったので、面白くなかった」とお叱りを受けることがある。映画・ドラマ業界内部だけに通じる内輪話と受け取られたのかもしれない。できるだけ分かり易く書いてみたい。
撮影所で育った監督とテレビ局系の演出家の大きな違いは、ドラマにおける時間と空間の考え方や扱い方だった。「だった」と書いたのは、私の助監督時代から21世紀に入ったぐらいまでのことだ。現在は撮影所出身の監督たちはほとんど亡くなるか引退しているし、テレビ局系で育った監督はキャメラ1台で撮ることにも慣れているので、この問題設定に当てはまらなくなっている。昔話と思って読んで頂きたい。
撮影所で育った監督は、ずっと1台のキャメラで撮ってきたので(黒澤明は「七人の侍」以降複数のキャメラで撮っているが)、時間と空間を盗むことに抵抗はない。というか、時間・空間をできるだけ盗もうとする。「盗む」というのはこういうことだ。
時間を盗むとは?
時間を盗むとは、実際は一定の時間が掛かる出来事を、それより短い時間で表現することだ。逆に実際は短い時間で起きたことを、長い時間を使って描く場合もある。
前者はこうだ。例えば茶室で抹茶を点てる場面。点て始めてから点て終わるまで実際は3分間掛かるとする。それを点前の進行の途中で、その点前を見ている人の顔や点前以外のもの(掛け軸や花など)のカットを繋ぐ。あるいは、茶を点てている手元以外の物から手元にパンをしたり、手をフレームインさせるなどの時間を飛ばしても(盗んでも)違和感のない撮り方のカットを繋ぐことで、1分とか1分半とかで点前が終わったように見せることだ。そこに登場している人物の会話を組み合わせれば、さらに点前の省略が自然に見える。使用時間を節約する、あるいはテンポを出す技法として使われる。
後者の場合だと、スローモーション(撮影所ではハイスピードキャメラを使ったので「ハイスピード」という)が典型的だろう。実際は3秒間しか掛からないアクションを、3倍だと9秒、10倍だと30秒も掛けて表現するわけだ。
ちなみにハイスピード撮影を駆使した監督は、私の好きなサム・ペキンパーだ。特に「ワイルドバンチ」の冒頭の鉄道事務所襲撃のシーン、「ジュニアボナー」のロデオシーンは秀逸だ。彼はスローモーションを短く使うのが特長だ。機会があれば見てほしい。
「レッドクリフ」などのジョン・ウーもハイスピードを得意としているが、長い1カットのスローモーションの中で、複数のことが行われるので、「おい、おい」と思ってしまう。ハイスピードは感覚的に「時間を止める」効果があるのだが、1カットで複数の出来事を描くと、その効果が薄れるような気がするのだが、読者の皆さんはどうお考えか?
短いカットを繋いで時間を盗む手法もある。倉田準二監督がよく使った手だ。例えば刺客一味が行列を襲う場面。カット10(C-10)は画面一杯に壮絶な斬り合い。C-11で殿様が駕篭から出てくる。C-12刺客の1人が火縄銃を撃つ。
C-13小姓がハッと銃声の方向を見て殿様の方向を見る。C-14供頭も驚いて殿様の方を見る。C-15殿様に弾が当たってのけぞる。この場合火縄銃が火を噴いて殿様に当たるまで、距離は30~40mだから1秒以下しか掛からない。C-13は1.3秒。C-14は0.8秒。2カット足すと2.1秒だ。1秒足らずの出来事を倍以上の2.1秒掛けて表現しているわけだ。だが、この一連のカットを編集で繋いでみても、不自然に感じる人はいない。倉田監督は発射してから当たるまで3カット撮って繋いだこともある。カットの目まぐるしさに視聴者が時間の感覚を忘れてしまうのだ。
空間を盗むとは
一方空間を盗むとは、実際の距離を撮影時には短くしたり長くしたりして撮影し、感覚上は同じ距離に見せるテクニックだ。例えば、時代劇で大きな寺院の境内でAとBの2人の武士が決斗する場面。対峙する2人の距離は10m。これは2人を左右に置いて横位置で撮れば、10mぐらいの距離であることが分かる。次にワイドレンズを使って、Bを手前Aを奥に置いて撮るとする。ワイドレンズを使うのは、Aの背後にある大きな本堂を全部入れたいからだ。だが、ワイドレンズを使ったために、レンズ効果によってAの姿が小さくなり過ぎて、10m以上に離れているように見える。その場合はAの立ち位置を何メートルか前に移動させて、感覚的に10mぐらいと思える距離まで近付けて撮影する。
逆に2人の縦位置を望遠で撮影する場合は、手前の人物のボケ具合を際立たせようと思えば、10mよりも距離を離して撮影するのだ。
時間・空間を盗む場合の注意と演出効果
時間・空間を盗む場合、基本的には盗んだことで観客・視聴者に違和感を抱かせないように撮影し編集する。「あれ」と思われるとドラマに入り込むことを邪魔してしまうからだ。従って監督やキャメラマンは、観客・視聴者に違和感を抱かせない撮り方やカットの繋ぎ方を考えなければならない。
逆に、「盗む」という発想をもう1歩進めると、盗んだことで生じる違和感を演出に利用することができる。例えば、結婚式に出席するために友人Bと待ち合わせしているA。Aは友人代表で祝辞を述べることになっている。Bが離れた場所の信号の向こうに姿を現す。2人は手を上げてお互いの存在を確認するが、赤信号になったためにBは信号を渡れない。感覚的にはBがAの元に合流するには1分以上掛かる感じだ。A単独の寄り目のカットになる。Aが不安そうに祝辞をブツブツ言っている芝居だ。カット終りでフトAが目線を上げる。この間約15秒しかないカットだ。次はBがすぐ目の前にいるカットだ。視聴者は時間の飛び方に少し驚くが、Aはそのことを特に驚くわけではない。時間の経過を忘れるほどに没入していたことを、自分で分かっているからだ。このような演出は、時間空間を大幅に飛ばす(盗む)ことで、待っているAの「祝辞が上手く喋れるか心配で、心ここにあらず」という心理状態を強調する効果があるわけだ。
スタジオドラマの特徴
一方、テレビ局やテレビ局系番組制作会社育ちのドラマの演出家だ。テレビ局の制作部門は舞台の生中継から出発した。最初は生中継だから、舞台で演じられている生の芝居を、複数のキャメラで切り取って放送していたわけだ。従って、舞台の時間・空間と視聴者が見ている時間・空間は同一だ。その後のスタジオドラマも複数のキャメラを使って収録してきた。いわば舞台中継をスタジオに持ってきたような撮り方だ。スタジオという現実の時間・空間を何台かのキャメラで、切れ目なく切り取っていたわけだ。従ってスタジオドラマは、1シーンの中でのドラマ上の時間・空間と現実の時間・空間が同じだった。ということは、テレビ局系のドラマで育った演出家は、1シーンの中で現実の時間や空間を盗むという発想があまり無かったのだ。
もちろんその特徴を生かすために、または制限を補うために数々の工夫を凝らしてきたはずだ。キャメラが4台も5台もあり、それを切り替えながら収録するので、どれだけカット数を増やしても撮影時間が大幅に増えることはない。従って、時間空間を盗む代わりに、その間を出演者の表情のバストショットやアップショットで埋めた。当然、演出家はそのカットでの演技を要求した。いわゆる「リアクション」だ。撮影所ではあまり多用しなかった、主役以外の俳優のリアクション芝居を多用したのだ。
それから演技の緊密化だ。時間・空間を盗めないのだから、芝居をタイトにギュと凝縮して組み立てなければならない。当初のスタジオドラマは生放送だったし、その後、ビデオテープに収録するようになっても、収録後の編集が思うようにできない時代があった。従って、収録日前日に稽古をしっかりやって(セットが建たないという制約のせいもあったが)、収録日もドライ・カメリハ・ランスルーとしっかりリハーサルを積み上げて本番に臨んだのだ。
これによって、緊密な人間ドラマやホームドラマはスタジオドラマで、時間・空間を自由にコントロールするテンポの速い時代劇や刑事ドラマ・アクションドラマは撮影所でという役割分担ができた。
撮影所育ちが何故ドライリハーサルを?
ここまで書いてフト気が付いた。撮影所育ちの私のような監督が、1シーンを通してドライリハーサルをやるということは、どういうことなのか?ドライリハーサルをやるのは、一続きの演技を続けてやってみるということなので、芝居の時間・空間を盗まないことを前提にしたやり方のハズだ。
実は、私はリハーサルの最中に「ここは時間を盗んでこの芝居に繋ぎます」などと時々言っている。また、「このカットは背景が悪いので、場所を盗んで少し移動して撮ります」などと言うこともある。ドライリハーサルと言いながら──これも実は私が言っているわけではない。私は「段取り」をやろうと言うのだが、スタジオ育ちの助監督たちが「ドライやりまーす」と叫んでいるのだ──平気で時間や空間を盗む指示をしているのだ。また、スタッフもそういう私のやり方に戸惑う様子はなかったように思う。私の
監督の場合、ドライリハーサルの中に時間や空間を盗む要素を自由に入れているのだ。
特にアクションシーンなんかは、時間・空間を盗むことが多い。盗まないで撮ると、マドコロシクッテ仕方がない。時間も空間も飛ばして、ポンポンとテンポよくいきたいのだ。また、そのように撮影したものを編集しても全く違和感はない。
私が、1シーン通してドライリハーサル(段取り)をやり始めたのは、何時のころからだろうか。京都映画で監督になってすぐの頃は、そうではなかったような気がする。最初のカットの向きで撮れるひと繋がりのブロックの説明をして撮影し、キャメラポジションやライティングが大きく変わるタイミングで、次のブロックの説明をするというやり方をしていたようだ。
撮影所育ちでありながらシーンを通してリハーサルをするやり方を、私は京都映画時代から徐々に取り入れていったようだ。スタジオドラマ出身の俳優が多くなったのも1因だろう。また私の演出法が、「オレの言う通りにやればいい」というスタイルではなく、俳優さんにもスタッフにも納得して貰って、また意見やアイデアもどんどん出して貰って、撮影を進めるというスタンスであったこともあるかもしれない。カッコよく言えば、撮影所映画とスタジオドラマの長所を取り入れた変幻自在なスタイルになったということか。
ドライリハーサルは正念場
私のように、撮影前にそのシーンのドライリハーサルを行う監督にとっては、ドライリハーサルは正念場となる。それまでコンテ作りやロケハン・準備で作り上げて来た自分の演出意図が貫けるかどうかの瀬戸際なのだ。
よく「作品の善し悪しは台本で80%決まる」と言われる。その意見に反論するつもりはない。ある意味正論だ。だが、その発想は作品の完成度をプラスだけの発想で語ったものだ。「台本から後に積み上げる要素は20%しかないので、台本をしっかり作らないと良い作品はできませんよ」と言っているのだ。
だが、実は台本が完成した後には、マイナスの要素がゴロゴロしている。「キャスティングが妥当かどうか」や「監督のコンテの善し悪し」「セットを含めて撮影場所の善し悪し」、さらには「撮影現場での演出力」や「スタッフの能力」、もっといえば「俳優の体調」や「天候の善し悪し」「交通渋滞」「それらをカバーする資金力」まで、すべてが80%にプラスする要素であると同時に、80%からマイナスされる要素にもなるのだ。
その中で、「コンテの善し悪し」と「撮影現場での演出力」「セットを含めて撮影場所の善し悪し」のすべて、「キャスティングが妥当かどうか」「スタッフの能力」の半分ぐらいは、監督の責任だ。
従って、撮影現場で演出プラン(コンテ)通りに撮れるかどうかは、作品のでき栄えにとっては極めて重要な要素になる。それを左右する重要な場がドライリハーサルというわけだ。
勿論、俳優やスタッフの意見やアイデアの方が結果的に良い場合もある。だが、俳優の意見はある程度割り引いて考えなければならない。監督が撮り方や俳優の動きを考える場合、基本的に「どうやったら良いものができるか?」や「どう演じさせたら面白くなるか」という基準で考える。それ以外の要素はほとんどない。それ以外の要素を優先するようでは、「監督生命は長くない」と覚悟した方いい。
だが、俳優の場合は違う。「自分の役がどう見えるか(カッコいいか)」「他の俳優と比べて目立つかどうか」「こういう演技をして得かどうか」という要素が入ってくる。勿論、純粋に「こう演じた方が、作品にとって良いのでは」とか「こういう役作りの方が面白いのでは」とかを考えて、意見やアイデアをぶつけて来る俳優も多々いることも確かだ。だが仕方がないことだが、自分の損得だけを考えて意見を言ってくる俳優も少なくないのだ。
スタッフ特にキャメラマンとの確執もある。キャメラマンは良い画を撮りたいと思っている。それ自体は悪いことではない。だが、その思いが高じると、登場人物のキャラクターや、演出の狙いに反した意見になることがある。良い画を撮るキャメラマンほどその傾向が強くなるので、それに負けない理論武装や気力が必要だ。詳しくは、第14回【E6ある日突然監督に・続編その2】をご覧頂きたい。
俳優やスタッフへの気遣いも必要
ドライリハーサルに臨んで、注意していたことがあった。台本に書いてあることと大幅に違う演技や撮り方をするとき、あるいは台本通りでも動きや仕掛けに特殊なことをやる時は、前もって主だった出演者やスタッフには説明しておくことだ。勿論台本を変えるときは、改定稿を作って俳優さんにもスタッフにも配布しておく。だが、現場をスムーズに運ぶためには、それだけでは不十分だ。そのシーンの撮影当日朝の準備中とか、前日の撮影終了後などに直接説明しておくのだ。それによってこちらの力の入れ方や熱意も伝わるし、ちゃんと配慮をしてくれているという、こちらの気遣いも感じてくれるという寸法だ。
「撮影現場は所詮力関係で決まる」という厳しく野蛮な現実がある。その中で、何とか自分の演出意図を全うさせるためには、あの手この手の準備や気遣いが必要なのだ。普通の人間がたまたま監督になって、「オレは監督だ」とそっくり返ってできる商売ではない。監督にはマネジメント能力も要求されるのだ。
【Episode22】To Be Continued
※次回は2025年9月24日(水)に投稿予定です。
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
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