【Episode22】
京都映画での監督稼業
──まだまだ続く二足の草鞋
その18
前号まで
「監督とはどういった仕事をする職業なのか」について書いている。前号では、撮影現場でのカットの「撮り順」について書いた。今回は「撮り順」にも関係するが、「抜き撮り」について書いてみたい。
「抜き撮り」とは?
「抜き撮り」とはこうだ。例えばセット撮影でのリビングのシーン。登場人物は太郎と次郎・花子の3人。ソファがコの字型に設えてある。正面に花子。花子の手前左に太郎、右に次郎が腰を下ろしている設定だ。コンテは以下のようだ。カット1(C-1)は3人が対面しているリビングの引き画(ルーズショット=LS)。C-2とC-3が太郎・花子2人のお互いのナメショット。C―4が太郎、C-5が花子の単独バストショット(BS)。C―2~5はサイズを詰めた寄り画なので、LSに対してタイトショット(TS)と呼ばれる。C-6がC―1のLSと同じ方向からの3人入れ込みのグループショット(GS)。
C-1からコンテ通りにC-2、C-3と順番に撮っていくのが「順撮り」だ。それとは対照的に「抜き撮り」はこうなる。C-1のLSを撮った後、C-2~C-5のTSを撮らないで(抜いて)、C-6のGSを先に撮るのだ。そしてその後に、C-2、C-4、C-3、C-5と撮って行くわけだ。何故そんな撮り方をするのか?
膨大な時間と手間が掛かる順撮り
このコンテの場合、「順撮り」をすると非常に手間と時間が掛かってしまうからだ。まずC―1のLSのセッティングやライティンに、かなりの手間と時間が掛かる。LSはこの場面の雰囲気やトーンを決定するカットなので、美術的にも照明的にも撮影のアングル的にも手間を掛けて作り上げる。また写る範囲が広いので、ライティングにも時間が掛かるわけだ。だがC-1のLSに関しては、「順撮り」でも「抜き撮り」でも掛かる手間と時間は同じだ。問題はその後、C-2以降だ。
もし、C-1LSの後にC-2の花子ナメ太郎を撮ると、アングルが130度ぐらい変わるので、LSのライティングや背景のセッティングを大幅に変えなければならない。また、照明的にはLSとTSでは人物の照明の方法が変わってしまう。もしその人物が、ある程度お年を召した主演女優の場合、もっと大変なことになる。直接照明を避けて、反射照明となり、ライトの前に光を柔らかくするビニールを掛けたり、反射板を並べたりする。その為に美術の家具を取っ払って、照明器具を置く場所を作ったりするのだ。C-3はC-2の反対側から撮るので、またキャメラや照明器具の大移動となる。C-4、C-5はそれぞれC―2、C-4の位置に戻らなければならない。カットが変わるごとに大移動することになるのだ。
そうやって手間と時間を掛けて撮ったC-2~C-5の後に、C-1とサイズは違うもののアングルは同じようなC-6GSのやや広い画を撮ることになると、一度ばらした美術や照明を復元することになるので、また膨大な時間と手間が掛かることになる。
「抜き撮り」は監督の必要条件
これに対して「抜き撮り」は、正面向きのLSとGS(Cー1、Cー6)、花子向きのTS(Cー3、Cー5)、太郎向きのTS(Cー2、Cー4)の順番で撮って行く。すなわち、キャメラの向きが同じカットを纏めて録ってしまうのだ。こういう撮り方をすれば、「順撮り」よりも遥かに少ない手間と時間で撮影することができてしまう。「抜き撮り」とは、手間と時間を省略する撮影方法なのだ。従って「抜き撮り」は、こういった単純なコンテの場合、プロの監督の撮影方法としては正統派というか当たり前の撮り方なのだ。抜いて撮っても作品のできに影響しない演出力が、監督と言う商売の必要条件ということになる。もしこのような単純なコンテで順撮りをすると、「お前は素人か」と言われるのは間違いない。
工藤栄一監督は「順撮り」に拘ったと前回に書いた。だが、通常の工藤監督の演出方法は、「抜き撮り」をするのに適さない特殊な(超個性的な)撮り方だったので、「順撮り」の影響はほとんど無かった。だが、横溝正史シリーズの「犬神家の一族」では違った。先ほど書いたようなコンテでも、何故か「順撮り」を崩さなかったのだ。そのために撮影現場は、技術者特に照明部の不満が渦巻いた。それでも工藤監督は、順撮りを崩さなかった。興味がある方は、このブログ第9~10回【Episode4映像の魔術師・工藤栄一監督】に書いたので参照して頂きたい。同じことを前回にも書いた気がするが……。
抜き撮りが得意な監督たち
撮影効率を重視する監督、或いは撮影前に完成した作品が頭の中でほぼできている監督は、先ほどの例のような単純なコンテではなくても、監督が率先してどんどん抜いて撮った。
効率を重視すると言うと、作品の内容や質を軽視すると思われがちだが、決してそうではない。その監督の作劇法や演出法が、抜いて撮るコンテのリズムや撮影のリズムを重視しているということなのだ。
また後者の監督たちは、カットごとに俳優にどういう演技をさせるかや、どういう表情をさせるかを決めているので、極端に言うとどう抜いて撮っても影響が無いと言える。だから両者とも、どんどん監督が主導して撮り順を決めて撮影するわけだ。
効率重視のハズなのに
効率重視派の監督は、あまり無理をせずに自然体で撮影を進めていたような気がする。あまりにもスイスイ行くので、助監督のころの未熟な私は、そういう監督が物足らなかった。どちらかと言えば、個性的な撮り方をする監督に魅力を感じていた。
効率重視派の監督にも個性的な監督はいた。ちょっと個性的過ぎたが、長谷和夫監督だ。長谷監督はどんどん抜いて撮った。「抜いて撮ることに生きがいを感じているのか?」と私たちが噂するほどだった。
同じセット、例えば現代劇の居間のセットだと、シーン(S#)を跨って抜いて撮った。助監督セカンドの私にセットの図面を書かせて、そこに撮る方向ごとに「S#5─C-8」などと全部メモさせた。その方向のカットはシーンが変わっても全部撮ってしまうというわけだ。酷い時は俳優の衣装まで着替えさせて抜いて撮った。
効率的と思うかもしれないが、俳優にもスタッフにも不評だった。そもそも長谷監督のコンテは、単独ショットがほとんどなく、俳優が動き回る入れ込みのショットが多いので複雑だった。従って、シーンを跨いで抜いて撮ると、前後のカットがどうなっていたのか記憶が追い付かず、俳優やスタッフは何を撮っているのか混乱して監督に付いて行けなかった。「頼むから1シーンごとに撮ってくれ!」。スタジオに俳優とスタッフの無言の叫びが渦巻いていた。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。
巨匠たちの抜き撮り
さて、先ほどの「抜き撮り」得意監督の内で後者の代表格は、小津安二郎とか木下恵介監督だろう。こういった巨匠は、脚本を作り終えた段階で、作品の完成形が細かいところまで頭の中でできていたらしい。そんな巨匠たちの作品は、主要キャストがほとんど固定されていた。だから巨匠たちの頭の中には、脚本を作る段階でそれぞれの役の俳優の表情や動きができ上っていたのだ。
松竹の監督で直木賞作家でもある高橋治は、著書「絢爛たる影絵」でこう書いていた。小津安二郎監督は、どうしても思うように芝居のできない俳優に、こんな演技指導をしたそうだ。「はい、僕の指を見て」そう言って俳優の前に指を出す。「ヨーイ、ハイ」を掛けた後に、その指を横にスーと動かす。俳優の顔と目がその指を追う。続いて指を下に下ろす。最後は斜め下に動かして止める。「カット。OK!」。こういう芸当のできる監督だから、抜いて撮るのも朝飯前だったのだろう。
私が就いた監督では三隅研次監督がそれに近かったと思う。演技が思うようにできない俳優には自分でやってみせた。腰元の所作などは、惚れ惚れするようなしなやかな動きだったし、遊び人の仕草は粋な若い衆の雰囲気がとても良く出ていた。私などはそれを見ながら、「こういう演技指導のできる監督になりたい」と憧れたものだ。従って、三隅監督は抜き撮りをしても一向に構わないというわけだ。
レンズの前に手を出す監督
やや脱線するが、抜き撮りで思い出したことがある。ある監督について聞いた話だ。AB向い合わせ2人の会話の場面。10カット分をカットバック(CB)で撮るコンテだった。AのBSを撮る時にBをキャメラの横に座らせて芝居の相手をさせた。そして、一連のCBのA側5カットを一気に撮るのだ。ま、ここまではよくやる撮り方で、それほど珍しいことではない。
だがその監督の凄いのは、2人に一連の芝居をさせながら、カットの終りごとにレンズの前に手をシャッターしたのだ。片方5カットだから最後を除いて4回レンズの前に手を出したというのだ。なんという自信だ。私などはそういう撮り方をしても、ひょっとしたら「Bが喋っている時にAが良い表情をしたら使えるかも」と思って、手を出すなどということは絶対にしない。
しかしその話を聞いた時に、その監督は何のためにそんなことをするのか疑問を感じた。記録係が付いているのだから、編集部への指示ということではない。「自分は決めたコンテを絶対に変えない」という、スタッフに対するアピールなのか?
ここまで考えてフト気が付いた。キャメラマンへの合図なのではないか?CBを積み重ねる場合、一対のCBごとにサイズを徐々に上げて行く(詰めて行く)ことはよくある。緊迫感のある重要な場面では特にそうなる。それをキャメラマンに知らせる合図ではなかったのだろうか?キャメラマンは、キャメラが廻っている途中で台本を見ることができない。従って5つもあるCBの場合、監督が自ら画面に手を入れることで、間違えようのない合図を送っていたのかもしれない。私の場合そんな時は、画面に手を入れるような大胆なことはできなかったので、キャメラマンの背中や足に手で触って合図していたのだが、果たして真相はどうだったのだろう。
撮影の進み方
ドライリハーサルも済んだ。撮り順も決めた。その後の撮影の1カット1カットは、どうやって進んで行くのか?撮影はカットごとに、通常はテスト、本番テスト、そして本番と進んでいく。簡単なカットはテストが1回で済む場合もある。だが、演技や撮り方が難しいカット、それに長~いカットなどは、監督が本番を撮れると思うまでテストを繰り返す。1カットを撮るのに1時間を超える場合もあった。今でも私の記憶に残っている長回しのカットがある。
半日以上掛かった長~いカット
私が助監督に就いた蔵原惟繕監督(「憎いあンちくしょう」「栄光への5000キロ」「南極物語」など)は、時々とんでもなく長~いカットを撮っていた。確か必殺シリーズだったと思うが、6~7分のカットを撮ったことがあった。町家の奥座敷が廊下で繋がっている大きなセットだった。座敷と座敷の間に中庭が、あってその周囲を廊下がコの字型に囲んでいたと思う。
女2人が男を巡って猛烈なつかみ合いのケンカをするシーンだ。2人は掴み合い怒鳴り合いながら座敷から廊下へ、そしてまた別の座敷へと移動していく。髪もザンバラになり、着物も破けたりして着崩れる。しまいには女の1人が刃物まで持ち出す騒ぎになる。その2人をヤクザ数人が引き離し、刃物を持ち出した女を親分が別の座敷に連れ込む。そして、「男を自分のモノにしたければ」と悪事を吹き込む。これだけの芝居を手持ちキャメラで1カットで撮るのだ。キャメラマンは必殺のエース石原興(いっさん)だった。
NG続出、さらにフィルムチェンジ
入念なテストを繰り返して本番となった。だが、NGが続出した。まずは女優のセリフ間違い。激しいアクションをしながらなので、セリフが飛んだり相手のセリフを喰ってしまったりした。そして、激しいつかみ合いによって、付け毛が取れてしまうNGもあった。それらが上手くいったと思ったら、最後の最後で親分の俳優のセリフが出て来なくなった。これが何度か続いた。実はこれはよくあることなのだ。長~いカットの最後に登場してくる俳優は、待っている間の緊張のせいか、とっさにセリフが出て来なくなるのだ。
また悪いことに、6~7分ぐらい長~いカットなので、途中でNGが出たらフィルムチェンジしなければならない。当時の16mmキャメラのフィルムは400フィ―ト(F)巻だった。16mmフィルムは1分間に36F進むので、前後の巻き込みを除くと10分ちょっとぐらいしか撮影できないのだ。従って1回NGが出る度に、フィルムチェンジが必要になってくる。フィルムチェンジには15~20分ぐらい時間が掛かる。その度に、小休止となってしまうのだ。
10回を超えるNG。そして何度目かのフィルムチェンジ。現場の雰囲気は暗くなった。特に親分のセリフが出て来ないのが痛い。こういう泥沼に入り込むと抜け出すのは至難の業だ。
その時、いっさんがアイデアを出した。こういう時のいっさんは頼もしい。激しいつかみ合いの最後の部分、ヤクザが女2人に割って入ったところまでのOK部分を使い、別カットに繋ごうと言うのだ。5人のもみ合いになった瞬間でカットし、次はもぎ取られる女の刃物からズームバックしてGSにするというわけだ。激しい動きのGSを寄ったサイズで撮っているので、動きのある寄りの画に繋いでも、カットを割った印象がないだろうということだ。こうして1カットに半日以上も掛かった撮影は、いっさんの機転で何とか終わることができた。
こういう、にっちもさっちも行かなくなった現場を助けるのは、大体がキャメラマンだ。フィルムの場合、キャメラを覗いているのはキャメラマンだけだ。撮影現場では、撮った映像を知っているのはキャメラマンだけなのだ。従って、そのキャメラマンが出すアイデアは説得力があるというわけだ。
【Episode22】To Be Continued
※次回は2025年10月22日(水)に投稿予定です。
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
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