Episode22
 京都映画での監督稼業

    ──まだまだ続く二足の草鞋

その19

 

前号まで

 「監督とはどんな仕事をする職業なのか?」ということについて書いている。前号では、撮影現場での「抜き撮り」や、私が助監督時代に経験した長回しカットについて書いた。その長回しカットはNGが続出して、何度もフィルムチェンジする羽目になったことも書いた。

 

「切っ掛け」を多用する

フィルムに関連して思い出したことがある。京都映画を離れて東通企画に移ってからのことだ。私の撮影の仕方が少し変わってきた。どう変わったのか?会話のシーンで「切っ掛け」を多用するようになったのだ。「切っ掛け」とは何か?こういうことだ。

 

「切っ掛け」とは

複数の人物による会話の場面。例えば、以下のコンテだ。カット1(C-1)が3人のグループショット(GS)で、太郎→次郎→花子の順番で喋る。その後に、C-2次郎、C-3太郎、C-4花子の順番に単独のバストショット(BS)が入る。

C-1のGSを撮影した後、C-2の次郎の単独BSを撮る時に、監督は花子役の女優にこう告げる。「先ほどのGSの最後のセリフの語尾を『切っ掛け』で喋ってください」。そしてC-2のテスト。助監督が花子と太郎の目線をキャメラ横に作る。「ヨーイ、ハイ」。カチンコ。花子「(画面の外から)そうだよね、次郎さん」次郎「ああ、それに間違いない。太郎も知っていることだ」カット。次のC-3の太郎のBSでも、前のカットで喋った次郎に「太郎も知っていることだ」の部分を「切っ掛け」として喋って貰うのだ。これが「切っ掛け」だ。「切っ掛け」とフィルムに何の関係があるのか?もう少し我慢して読んで頂きたい。

 

「切っ掛け」の利点

 なぜ「切っ掛け」を喋ってもらうのか?利点はこうだ。先ほどのC-2を例に取る。花子に直前のセリフの語尾を喋って貰うことで、これから撮影する俳優次郎に直前のカットの演技の雰囲気、特にカット尻の花子の演技が「誰に向けた演技・セリフなのか」や、その「語調」、「ニュアンス」などをキッチリ受け取って貰うことができるのだ。そうすることによって次郎は、前のカット尻の「演技」や「セリフ」に対しての、正確なリアクションや演技ができやすいということなのだ。従って「切っ掛け」は、ただ語尾の文言を喋るだけではない。本番と同じ芝居と音量でやるのだ。こうすれば余程のヘボ役者でない限り、直前のカットの雰囲気を受け取って演技してくれるのだ。また、「切っ掛け」の利点はそれだけではない。編集で「次郎のBSに花子のセリフの語尾を摺りこぼしたいな」と思った時に、「切っ掛け」によってそのスペースがあるので、それが簡単に可能になるのだ。

 

撮影所とテレビ局系制作会社との違い

 実は撮影所時代は、この「カチンコが鳴った後に、語尾を『切っ掛け』で喋る」ということはあまりしなかった。何故か?撮影所時代と東通企画に移ってからのドラマ撮影では、決定的な違いがあったのだ。それは何か?

まだそのころ、撮影所ではフィルム撮影が主流だった。だが、東通企画などのテレビ局系制作会社は、フィルムは使わずに完全にビデオ収録に切り替わっていたのだ。やっと「フィルム」が出て来た。話を続けよう。

フィルム撮影とビデオ収録で、何が違うのか?いろいろあるが、「語尾を切っ掛けで喋る」ということに関して言えば、フィルム撮影とビデオ収録での経費の金額だった。何の経費か?フィルムとビデオテープに関わる経費だ。

 

フィルム撮影は金が掛かる

フィルムは使えば使うほど費用が膨らんでくるのだ。当時、1時間ドラマで使っていた16mmキャメラの未撮影の生フィルム代が400フィート(F)巻で約2万円だった。1時間ドラマの完成尺数(長さ)は正味43分。京都映画の使用可能フィルムはその3倍半。従って、1時間ドラマ撮影に150.5分のフィルムを使っていたことになる。400Fで撮影できるのは約10分だから、1時間ドラマを作るのに約15本のフィルム、金額に直せば約30万円掛かるわけだ。

フィルムに関して掛かる費用はそれだけではない。撮影後、ネガフィルムやポジフィルムに焼く現像代。さらには完成品にするプリント代が加算される。そればかりではない、オーバーラップや合成などの現像処理をしようとすれば、それも相当な費用が加算されるのだ。フィルム関係費だけで100万円近くの費用が掛かる計算だ。これは当時の1時間ドラマ1本の製作費が2千万足らずであることを考えればバカにならない金額だ。

少し横道に外れるが、フィルムを多く使うということは、フィルム代や現像費がかさむばかりではない。多くの場合、撮り終わった後の尺(長さ=時間)がオーバーするのだ。先ほども触れたように、1時間ドラマの仕上げ尺数は約43分だ。普通は2~5分程度のオーバーなら「良し」とされる。それぐらいのオーバーなら編集で無理やり切ることはない。だが、それ以上に尺がオーバーすると、無理をして編集で切らなければならない部分が生まれて来るということだ。当然、ストーリーがよく分からなくなったりして、作品的にも支障が出てくるし、無理に切る分は無駄と言うことになる。その無駄とは何か?フィルムを余分に使うだけではなく、必然的にその分だけ撮影時間が長くなり、電気代も嵩むし時間外手当も増えてくる。夜食や夜間送りのタクシー代も増加して、経費が嵩んでくるわけだ。撮影所にとっては、良いことはひとつも無いのだ。

 

フィルム使用がオーバーすれば始末書

従って撮影所は、フィルムの使用量に制限を設けていた。テレビ映画の場合、京都映画は仕上げ尺数の3.5倍。東映は厳しくて3倍だ。時間に直すと、1時間番組は正味43分ぐらいの仕上げなので、京都映画は2時間30分、東映は2時間09分しかフィルムを使えない。これはNGも含めての尺数だ。

制限をオーバーするとどうなるのか?すべてに緩い京都映画は、別にお咎めはなかった。あまり目に余るようだと、制作部からキャメラマンか撮影助手に「フィフム使い過ぎとちゃうか?」のひと言があるくらいだ。東映は厳しい。フィルム使用がオーバーした作品の監督とキャメラマンは、始末書を書かされたそうだ。そのせいか東映の撮影部の助手は、本番でのキャメラのスィッチを入れるのが遅い。

京都映画では監督の「ヨーイ」の掛け声でキャメラのスィッチを入れる。従って、「ヨーイ」「カチャ(スィッチを入れる微かな音)」「スタート」「ブー(キャメラの回転数と録音機の回転数がシンクロしたという録音部のブザーの音)」「カチン(カチンコの音)」というリズムだ。ところが、東映に助監督セカンドで応援に行って驚いた。最初のセット撮影でカチンコを叩いた直後、セカンド撮影助手が私に言った。「カチンコを叩くのが早い」「え!?ちゃんと録音部のブザーを聞いてから叩きましたけど」「録音部のブザーの後、オレがキャメラのスィッチを入れてから叩け。フィルムがもったいない。それが東映のやり方や」。びっくりした。「ヨーイ」「カチャ」「スタート」「ブー」「カチン」から「ヨーイ、スタート」「ブー」「カチャ」「カチン」に変えたところで、せいぜい2秒の省略だ。それに、いつもキャメラのすぐ傍でカチンコを打つとは限らない。遠く離れればスィッチを入れる音などは聞こえない。「そこまでしてフィルムを節約しなければならないのか」と腹がたった。

しかし考えてみた。1カットで2秒。東映での1時間番組のカット数は500カット以上だ(京都映画では150~300カットぐらいだったが)。NGを含めれば700800カットぐらいになる。2秒×750カット=1500秒。25分だ。フィルム400F巻で言えば約2.5本分。東映のテレビ映画のフィルム使用制限が約13本だから、これは馬鹿にならない数字と言える。オーバーすれば始末書を書かなければならない撮影部としては、切実なことだったのだろう。

 

ハリウッドのカチンコ

 ちなみにハリウッドのカチンコ事情はどうだったのか?これは米日合作映画「トラトラトラ」に撮影助手として参加した、友人の都築一興(イッコウ)に聞いた話だ。そもそもハリウッドでは、カチンコは助監督が叩くのではなく、撮影助手の仕事なのだそうだ。カチンコそのものも、日本のものよりも遥かに大きく、シーンナンバー、カットナンバー、テイクナンバー、トラックナンバー(録音番号)だけではなく、日付や監督名やキャメラマンの名前も書いてあるらしい。

 撮影時はこうなる。まず監督が「ロールサウンド(録音機を廻せ)」と叫ぶ。

続いて録音技師の「テープスピード(録音機が正常に作動した)」の声。次に監督「ロールキャメラ」。チーフ撮影助手「キャメラスピード(キャメラが正常回転になった)」と進み、やっとカチンコの番だ。「マーク」といってセカンド撮影助手がカチンコを掲げる。その後が凄い。「シーン〇〇、テイク△」と叫んでカチンコを叩く。その後だ。急いでフレームアウトしてはいけない。走るなどはもっての他だ、ゆっくりと歩いてフレームアウトしなければならない。カチンコを持った撮影助手がフレームアウトしたのを確認して、監督は「レディ(用意)、アクション(演技開始)」と声を掛ける。それでやっと、俳優が演技をはじめるというのだ。この間、フィルムはカラカラと廻りっぱなしだ。これをテストの時からやっていたそうだ。

 

撮影所での「切っ掛け」の工夫

さて、ハリウッドの話の後は、ややミミッチイ日本テレビ映画の「切っ掛け」の話に戻る。日本でのフィルム事情は、先ほど書いたような状態だったので、東映ではカチンコが鳴ってから「切っ掛け」を喋るなど、飛んでもない話だったのだ。それでも「切っ掛け」がどうしても欲しい監督はこうやっていた。先ほどの例で言うと、「よーい」と叫んだ後に花子に「そうだよね、次郎さん」と言ってもらって、その後に「スタート」「ブー」「カチャ」「カチン」という段取りで、何とか「切っ掛け」を使った撮影をしていた。

京都映画でもさすがに、全部のカットでカチンコの後に「切っ掛け」を喋るということは無かったが、俳優が慣れていなくて前のカットの芝居を上手く受けられない場合や、摺りこぼすと最初から決めていた場合は「切っ掛け」を喋って貰っていた。私が監督の時、よくやっていたのはこうだ。助監督が「本番!」と叫んだ後、私が次郎に言う。「前のカットで、花子さんが『そうだよね、次郎さん』と言いましたよ。ヨーイ、スタート!」。てな具合で「ニア切っ掛け」みたいな感じで進めていた。金が無ければ無いで、監督もいろいろ工夫するもんです。

 

VTR収録の「切っ掛け」

さてさて、VTR収録の場合だ。私が東通企画に所属して、2時間ドラマなどを撮るようになってからは、すべてがVTR収録だった。当時はすでにビデオテープはβカムになっていた。βカムは値段もフィルムに比べればはるかに安く、カセット1本で数千円だったと思う。しかも1本で30分も収録できたので、使用タイムを気にせずに撮影できた。おまけにVTR収録は現像費も掛からない。編集スタジオで、収録したビデオテープからコピーしながら編集するので、現像というものがないのだ。オーバーラップや合成などのエフェクトも、編集作業としてできてしまうので、特に費用が掛かるということはない。

従って前のカットのセリフを、切っ掛けとして喋ってもらっても、全く費用の心配をせずにできるようになったのだ。東通企画に移ってからの私は、ドラマの会話のシーンではほとんど全部のカットで、「切っ掛け」を喋ってもらうようになった。お陰で、繋がりのスムーズなキメの細かい的確な演技を撮ることができた。
 もちろん「切っ掛け」がなくても、監督がしっかりしていれば作品のできに支障はない。しかしVTRのお陰で、せっかくお金の心配をせずに「切っ掛け」を使って、スムーズで的確な演技ができるのだから、それを使わない手はない。VTR様々だ。ま、中には「切っ掛けはいらない!」という頑固な俳優もいたが。

 

「切っ掛け」の長さ

テレビ局出身の監督の中には、やたらに長い切っ掛けを喋らせる人がいた。VTRはいくら使っていいという環境で育ったので、それが当たり前になったようだ。だが私の場合は、切っ掛けがあまり長いと、どうにも撮影のリズムが崩れてしまうような気がした。「ここを使う!」という気合が入り難いのだ。だから、切っ掛けは短く一言だけにした。フィルム出身の殆どの監督は、私と同じように短い「切っ掛け」を使っていたようだ。

 

長くダブらして撮影する深作監督

ちなみに、「仁義なき戦い」などで知られる深作欣二監督の場合、「切っ掛け」とは少し違うが、演技を長くダブらして撮影したようだ。コンテ上で使う場所の遥か前から俳優に演技をさせるのだ。後ろもなかなかカットを掛けないで、フィルムを廻し続けたそうだ。

「赤穂城断絶」のメイキングでの様子だ。吉良邸討ち入りのラストの場面。発見された吉良上野介を萬屋錦之介扮する大石内蔵助が刺し殺すという演出だった。その時、錦之介がしつこく深作監督に問い糺していた。「随分前からダブらして撮るけど、刺すところはこの正面の画を使いますね?」「そうです」「間違いありませんね?この正面の画ですね」。普通の撮影では見られないような緊迫した雰囲気だった。錦之介ほどの大スターともなれば、重要な芝居をどのアングルの画を使うのか、それによって演技が違うということなのか。

深作監督の長くダブらして撮るという意図は何だろうか?コンテ以外に使える部分が欲しかったのか?使用する芝居までテンションを高揚させるストロークが必要だったのか?それとも、もともと撮影は編集の材料を集めるものという演出方法だったのか。大監督と大スターのコダワリは凡庸な私には分からなかった。

 

       【Episode22To Be Continued   

 


※次回は2025115日(水)に投稿予定です。



お知らせ

 スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 

照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 

受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 

是故空中 無色 無受想行識 

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界  無無明 

亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶


般若心経