Episode23
 京都映画での監督稼業

    ──眠狂四郎 円月殺法
             その3

 

前号まで

 前号では、私が監督した「眠狂四郎 円月殺法」第2話の粗筋や脚本家・和久田正明のこと、ゲストの范文雀のこと、さらに長回しを多用したことなどを書いた。今号では特に力を入れて撮影したシーンのことなどを書いてみたい。まことに恐縮だが、出来れば前号で書いた粗筋を、もう一度読み直して頂くことをお勧めする。その方が、以下の内容が分かり易いと思うので。

 

お気に入りのシーン

 40年以上経った今でも覚えている。私とキャメラマンの藤井哲也(テッチャン)が、第2話で特に力を入れた場面だ。それは、丈吉(高峰圭二)を殺して陣屋に自首して出るお浜(范文雀)を、狂四郎(片岡孝夫)が送ってやるシーンだった。お浜が自分の境遇を、問わず語りに明かすシーンだ。俳優の表情を撮ることも大切だが、お浜が思わず身の上話をしたくなる雰囲気も重要だ。

 私はこのシーンを、あまりカットを割らずに長回しで撮りたかった。カットを割ってそれぞれの表情を撮っていくと、説明的になりすぎる心配があった。さらに、お浜の話を聞いているだけの狂四郎の表情を撮り始めると、切りがないからだ。

私とテッチャンは美術の太田誠一さんに相談した。太田さんは「オープンセットで撮ろう」と言った。「オープンの町屋は画に入れたくないんやけど」と私。「分かってる。第3ステージ向けの一方引きや。切り返しはなし。それで撮れるか?」。逆向きアングル、切り返しは撮れないということだ。1カット狙いなので、望むところだ。私とテッチャンは肯いた。太田さんのデザインはこうだった。

陣屋に至るまでの、野原に近い夜の田舎道の設定だ。オープンセットの通りの真ん中に木を立てる。ちなみに撮影所では、「木」は「き」とは言わずに「ぼく」と呼ぶ。次に第3ステージの表を黒幕で覆う。キャメラアングルは、オープンセットの通りから木を入れ込んだ第3ステージの黒幕向きだ。ナイトシーンなので、ライトを当てなければ黒幕は写らない。2人を第3ステージ側から手前の木の方向に歩かせる。それを両側の町屋を入れずに、クレーンを使って、一方向で撮るというものだ。「いける。太田さんはきっと良い雰囲気に作ってくれる」私とテッチャンはそう確信した。

暗い過去を敢えて明るく

台本ではそのシーンでのお浜のセリフは、自分の身の上をシンミリと語るという感じになっていた。直前の丈吉を殺害したシーンや、血まみれになった姿を狂四郎に見られた場面を、そのまま引きずっている話し方だ。この設定、私はどこか物足らなかった。流れてしまわないか?もっとお浜の「悲しみ」や「やるせなさ」を強調する方法は無いのか?

考えた。そして、氾文雀に提案した。「このシーンの出始めの芝居を、わざと明るく演じてみてはどうだろう」と。そのために、シーンの冒頭に「満天に星空」のカットを入れ、星空の美しさに言及するお浜のセリフを追加した。途中のセリフも、明るく演じても不自然でないように、言い回しを少し変えた。氾文雀は少し考えて言った。「やってみます」。

 

素晴らしい太田美術

そのシーンの撮影の日を迎えた。太田さんの美術は素晴らしかった。オープンセットの通りの中央に作られた立木は、1本ではなかった。4~5本の木を組み合わせて高さとボリュームを出し、味わい深く作ってあった。枝の張り出しも奥が透けて見えるように、葉っぱの付いている枝と枯れ枝を巧みに組み合わせていた。狂四郎とお浜がフレーインしてくる場所には、鄙びた田舎を感じさせる粗末な柴垣が、「く」の字に置かれていた。そしてそこから立木までは、やや高めの草叢が両側に配置され、田舎道のようなものができていた。キャメラがクレーンダウンすると、そこにもいい感じに草叢をナメた画作りができるようになっていた。満天の星空と鄙びた田舎道。お浜が自然と過去を語りたくなるような、持って来いの舞台ができ上っていた。

第3ステージ前オープンセット

  第3ステージ前オープンセット

 読者諸兄姉はこの写真を見て、上記の田舎道を想像できるだろうか?美術監督太田誠一の発想には、しばしば驚かされた。この写真はワイドレンズで撮影したものなので、実際の通りはもう少し広い感じだ。突き当りの第3ステージに黒幕を張り、手前の通りの真ん中に高い木を立てた。ステージ前と両側の建物の前には草叢。その間が田舎道だ。右の建物の奥に柴垣。大クレーンを木の手前に据えた。カット冒頭のキャメラの高さは、2階の屋根の辺りだ。両側の建物は写さなかった。

さて、本番

何度もテストを繰り返した記憶がない。私のプラン撮りに、孝夫さんと范文雀が動いくれたのだろう。たぶん、1回の段取りと2度のテストで本番になった。3ページばかりのセリフの部分を、全部1カットで撮ってしまうという私のコンテに変更はなかった。そのカットがどういう内容になったのか、この場で再現してみよう。カット1は、降るような満天の星空だ。カット2からがオープンセットでの撮影となる。カットの冒頭、キャメラは大クレーンの一番高いところから構えた。そしてそこから、仕舞屋の屋根と柴垣で作られた田舎らしい構図を作った。

「ヨーイ、スタート」。右からゆっくりとフレームインしてくる狂四郎とお浜。星空を見上げたお浜が立ち止まる。「旦那、見てください。こんなにきれい」と、お浜が明るい声で話し始める。いい出だしだ。直前の血まみれのお浜を見ていた視聴者は、意外に思う。「この女、なんでこんなに明るいの?」と興味を惹かれる。そういう疑問は、見る者をドラマに引き込むはずだ。

お浜が続ける。「私も昔、こんなふうにして星を見ていた時があった……その時は死のうとしていた時でした」。衝撃の告白。だが狂四郎は、何も言わずに耳を傾ける。狂四郎、そして視聴者も、死を目前にしたお浜が、無理をして明るく振る舞おうとしていることが分かるのだ。

先に立って歩き出すお浜。「これでも私、ずーっと昔は……」お浜の昔語りが始まる。その語りを見守るように、クレーンがゆっくり降りて来る。背景はステージ前に垂らした黒幕だが、ライトが当たっていないのとキャメラ前をシャッターする枝で暗闇に見える。照明南所登の光のバランスが素晴らしい。木の側まで来たお浜が、幹に右手を添える。自然ないい動きだ。

お浜の語りは、親子3人の貧しくも幸福な暮らしから、大火事によって不幸が始まるくだりに差し掛かる。しゃがみ込むお浜。語り口が暗くなってくる。その変化がお浜の悲しみを強調する。「焼かれてしまったんです。亭主も子供も……」「それで生きる術を失ったのか?」このシーンでの、狂四郎ただ一つのセリフだ。音楽が低く滑り込んでくる。視聴者の心も揺さぶられる。絶望の果てに身投げをしたこと。目がさめたら丈吉に助けられていたこと。お浜の転落の経緯が語られていく。

手前にしゃがんだお浜、後ろに立ったまま話しを聞く狂四郎。安定したいいFFの2ショットだ。2人の佇まいや表情がよく見える。「女って流されて行くんですよね」そう言いながらお浜は立ち上がる。どこか他人事のような口調だ。「どんどん流されて、しらない内に暗い淵に追いやられて」。お浜の語りに合わせて2人の気持ちに寄り添うように、キャメラはゆっくりサイズを詰めていく。音楽がゆっくりと高まっていく。「弱いんですよね、所詮」お浜は、やや自嘲気味に言って歩き出す。

 

影で表現した余韻

その後台本では、陣屋の前のシーンになるのだが、先ほどのクレーンのカットと直結するのは嫌だった。辛い過去を吐露したお浜、それをじっと聞いていた狂四郎、その2人の気持ちを視聴者が受け止める時間が欲しいと思ったのだ。普通なら2人の歩くカットを入れるのだが、2人の表情を撮るのは気が進まなかった。何となくありきたりではない、視聴者が2人の表情を想像するような画を撮りたかったのだ。

そこで考え付いたのは、2人の歩く影を撮るということだった。月明かりでできた影だ。この場面にピッタリだと思った。お浜と狂四郎の歩く影をそれぞれ1カットずつレール移動で撮った。移動を使ったのは、2人の気持ちに寄り添いたかったからだ。そして、その次のカットも影。やって来たお浜の影が立ち止まる。後から来た狂四郎の影も立ち止まるのだ。その影だけの3カットに音楽が高まって、そして消える。

 

優しさに満ちた陣屋前のシーン

次は、陣屋の土塀と高札を手前に入れ込んだ、FFの2ショットになる。背景はクレーンのカットとの統一感を出すために、真っ暗にした。静かに霧雨が落ちてくる。お浜は狂四郎に礼をいう。「今日は昔に戻ったようです。とってもサッパリして、なんだか洗われたみたいです」そういって、自らの死が待つ陣屋へと向かう。ここまでは、2人に心の交流らしきものはない。まともに目を合わせることもなく、お浜が一方的に身の上話をしただけだ。

陣屋に向かって歩いて行くお浜。フト気になって後ろを振り向く。狂四郎が立ち去ることもなく、ジッとお浜を見つめていた。胸を突かれるお浜。その気持ちを掬い上げるように、音楽がインする。「旦那……」と、思わずつぶやくお浜。狂四郎のお浜を見つめる眼差しは、とてつもなく優しく悲しげだ。その眼差しを受け、心を震わせるお浜。微かに頷く狂四郎。お浜の唇が震え、目から涙が零れてくる。そのお浜の溢れる心情と狂四郎の深い思いを、優しく切なく歌い上げる音楽。深々と頭を下げるお浜。「この人は私の話をしっかり聞いて、受け止めてくれたのだ」。お浜が、初めて狂四郎の心と繋がったことを感じさせる、孝夫さんと氾文雀の演技だった。

 

「切なさ」こそが永遠のテーマ

この後もお浜は、運命に翻弄される。オランダ商人に見初められて、妾になることを条件に命を助けられる。当時のオランダ人は、紅毛人とか南蛮人とか言われて、気味悪がられていた。そんなオランダ人の妾になることは、「死んだ方がましだ」というのが常識の時代だ。

だが、お浜はその運命を受け入れる。オランダ人や役人を追っ払い「逃げてもいいいのだぞ」という狂四郎に、キッパリと告げる。「ラシャメンとして生きて行きます」と。流されることを拒否し、「人々にラシャメンと蔑まれても、この場で生きて行く」との決意表明だ。狂四郎もそれを受け入れる。狂四郎のこの「優しさ」、追い詰められたお浜の開き直った「生き様」、そしてそうした2人の関係の「切なさ」がこの作品のテーマだ。

この第2話は私の「お気に入り」の作品となった。私はアクション編やコミカル編も嫌いではないが、この第2話のような「切なさ」を描いた作品が、最も好きだ。

困難に押しつぶされそうになりながらも、微かな可能性を信じてひたむきに生きようとする人間たち。まっとうに生きようとしても、世の悪意に晒されてくじけようとするが、必死に持ちこたえようとする人々。そういった人々を、自らも苦境に立ちながら、優しく見つめ、気遣い、手助けする人物。愛する人の可能性を生かすために、敢えて別れる決断をする人。等々。

世の中は甘くない。従って、結末は決してハッピーエンドではなく苦いものだが、そういった人々を描く「切ない」作品が私は好きで、できるだけ多く手掛けたいと思っていた。

京都映画を離れて東通企画に入ってからは、朝日放送の要望でコミカルなミステリー作品が増えたが、2000年代に入って脚本家田子明弘さんと組むようになってからは、待望の「切ない」ドラマを手掛けることが増えてきた。田子さんが紡ぎ出してくれた「切ない」物語のお陰だ。田子さんの描くミステリードラマの犯人は、決して極悪人ではない。愛する人、大切に思う人のために、やむなく罪を犯してしまう犯人像が多い。従って結末は「切ない」ものになる。テレビ東京の「シロクマ園長」シリーズや「駐在刑事」シリーズなどはミステリードラマだが、まさしく「切なさ」をテーマとしたドラマだった。

 

監督が燃えるとスタッフも燃える

 さて、「眠狂四郎 円月殺法」第2話だ。40年振りにDVDを見ると、細かいミスや気に入らない処は勿論あるが、私の気合の入れっぷりはよく分かる。「いける」と感じた台本、「ピッタリ」と思った俳優、両方に恵まれると、監督は燃えてくるものだ。無い知恵を絞ってアイデアを捻りだすのだ。またそのアイデアが、次のアイデアを生み出す切っ掛けとなる。そんな監督を見ると、スタッフも感じるものがあるらしく、色々と知恵を出して助けてくれる。第2話は、そういった充実感を感じさせてくれた作品だった。

 

1度切りだった氾文雀

ここまで読んで頂いた読者は、「お前は氾文雀に、『同級生との駆け落ち話』を聞いたのか?」と思われるに違いない。何も話さなかった。私が広島出身だということも言わなかった。当時の私は少々イキガッテいたのかもしれない。様々な属性やシガラミを排除した、一個の監督として女優氾文雀と向き合いたかったのだろ。

氾文雀と一緒に仕事をしたのは、後にも先にもこれ1度切りだった。その後は、すれ違うこともなかった。そして彼女は54歳という若さで、この世を去った。悪性リンパ腫とのことだった。

 

       【Episode23To Be Continued   

 


※次回は2026年4月8日(水)に投稿予定です。



お知らせ

 スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 

照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 

受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 

是故空中 無色 無受想行識 

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界  無無明 

亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶


般若心経