Episode23
 京都映画での監督稼業

    ──眠狂四郎 円月殺法

その8

 

前号まで

 前号では片岡孝夫(孝夫さん)主演・テレビ東京・歌舞伎座テレビ制作「眠狂四郎 円月殺法(198283年)」の第13話(お蘭=松尾嘉代編)について書いた。

 

狂四郎らしくなかった第14

 次は第14話を撮った。サブタイトルは「津軽恨み節孤愁剣─天竜川の巻」。脚本は鈴木生朗。はるばる津軽から父を探して旅をして来た、目の不自由な津軽三味線弾きの少女(柿崎澄子)の話だ。哀調を帯びた「津軽三味線」に「目の不自由な少女」と「父親探し」。これだけで、この作品のテイストは分かるというものだ。この話を縦軸に、狂四郎を狙う薩摩の陰謀と代官の御用材横流しが横軸として絡んでくる。ラストで、少女は実の父と分かった悪代官に無残にも殺されてしまう。それに怒った狂四郎が、代官一味を叩き斬るという話だ。

 この作品は、いつものひねくれ者の狂四郎は影を潜め、ひたすら優しい狂四郎になってしまっている。もちろん孝夫さんの芝居は、いつも通りなのだが、話の筋として、少女をヤクザから助けたり、眩暈がして倒れた少女を介抱したりして、いつもの冷たく突き放したりする場面がない。厳密にいえば狂四郎らしくない作品だった。

 

孝夫さんの娘が出演、だが……!!

 実はこの第14話のラストシーンに孝夫さんの次女が出演している。後に女優として活躍する片岡京子だ。いまも永谷園のCMに出演している。当時はまだ小学生だった。

1982年12月だったと思う。私は京都映画の佐々木康之プロデューサー(P)に呼ばれた。歌舞伎座テレビの沢克純Pも同席していた。佐々木Pは言った。「孝夫さんの京子さんという娘さんが、急遽出演することになった。ついてはその回をお前が監督しろ」。話題作りのために、誰かが仕掛けたに違いない。そうではあっても、駆け出し監督の私に断る権利はない。それにその頃は、監督ができるなら何でも喜んで引き受けていた。だが、一応は恰好を付けて言った。「良いですけど」。沢Pが横から済まなそうに言う。「京子ちゃんの休みは明日だけなんだ。だから、明日撮って欲しい」え―!?明日って、そんな無茶な!「で、台本は?」と私。顔色も変えずに佐々木Pが言った。「無い」。な、無いってどういうこと?「急に決まったことや。どんな話にするかも全然決めてない。ナマロウ(鈴木生朗さんのこと)がもうすぐラストシーンだけ送ってくる。それで撮れ」。
 「眠狂四郎シリーズ」は孝夫さんの舞台のために、1月置きにしか主役は来ないことは以前に書いた。第14話は2ヶ月後に撮る予定だったのだ。従って、ラストシーンの京子ちゃんが出演するシーンだけ明日撮って、2ヶ月後に孝夫さんが来るまでに、辻褄の合ったホンを作るということだ。無茶苦茶だが仕方がない。この手のことは、私が監督の立場では初めてだったが、京都映画では珍しいことではない。「イザとなったら何でもできる!」でないと、テレビ映画の世界で生きていくことはできないのだ。

 昼過ぎに、鈴木生朗さんからペラ(200字詰めの原稿用紙)3枚ぐらいの原稿が来た。場面は宿場の出口だ。金八(火野正平)がその回で活躍するであろう子犬を、百姓の娘に託す芝居だ。その百姓娘の役が京子ちゃんだ。京子ちゃんが金八に訊く「この犬の名前は?」「うーん、金八。いい名前だろう」。待っていた狂四郎が歩き始める。「じゃあな」と娘に別れを告げて後を追う金八。娘が叫ぶ。「あ、おしっこした!金八!」。こけそうになる金八。「ダメじゃないの金八!メ!」。顔を歪める金八「狂四郎にしすりゃ良かった」そう言い捨てて狂四郎の後を追う。こういったシーンを、私は何とか撮り終えた。

 

2ヶ月後、子犬は……。正平は……

 さて2ヶ月後だ。第14話の台本ができ上った。それが先ほど書いた、津軽三味線弾き少女の父親探しの話だ。例の子犬は大してストーリーには絡まないのに、結構多くのシーンに出演している。念のために2カ月前の子犬を動物プロダクションに見に行った。覚悟はしていたが、案の定、ほぼ成犬と言っていいような大きさになっていた。これでは繋がらない。仕方がないので京都市内のペットショップを廻って、よく似た子犬を買って撮影に使った。

 もっと、衝撃的なことが起こった。あの、火野正平だ。正平は休暇を取ってハワイに行っていたのだが、撮影が近付いたので帰国した。驚いた、真っ黒に日焼けしている。それだけではない。肩まで垂れていた髪が短くなっている。バッサリ切って相当に短い。このころ正平は、彼のキャラクターを生かすために、時代劇でもカツラを使わずに地毛で出演していた。第14話はラストシーンを髪が長いままで撮っている。これでは繋がらない。どうする!?

私は正平に詰問した。「髪、どうしたんや!?」「ハワイ暑いから、切ってもた」。シレッと答える。罪の意識が全然感じられない。彼も子役からやってきた役者だ。これがマズイことは分かっている。だが分かっていても、こんなことをやってしまう男なのだ。そして絶対に謝らない。特に私には。「おまえな!」と私。「やってしもうたもん、しゃーないやんけ」と嘯く正平。

正平は、チャランポランのように見える。そういう処ももちろんあるが、その裏でちゃんと計算している一面もある男なのだ。彼が現場でボソと呟く言葉は、よく考えられた意見だったりする。だからハワイで「暑い!」と髪を切る前に、「眠狂四郎」のこともチラと頭に浮かんだに違いない。「繋がりがあるのは第14話だけや」。その上で出した結論が、「監督はヨウノスケか、まあ、ええやろう。何とかなる」だったのだろう。

仕方がない。前と繋がるようなカツラを作り、顔を白っぽく塗って何とかその作品は乗り切った。その月からは第14話以外は新規に入る作品だったので、繋がりは必要なく、髪が短いままで出演しても良かった。だが、そのカツラが気にいったのか、正平は第14話以降の作品でもそのカツラを使った。

 

次は「眠狂四郎 無頼控」、だが……

私が「眠狂四郎 円月殺法」で監督した作品は第14話が最後だ。このシリーズは全部で19話だったが、引き続き孝夫さん主演で「眠狂四郎 無頼控」が入ることになっていた。私はその準備のために「円月殺法」から外れたのだと思う。助監督との2足の草鞋は、まだ続いていたのだ。この機会に、「眠狂四郎」の別作品について書いてみたい。

 

大阪松竹座閉館

と、ここまで書いて気が変わった。朝のニュース番組を見ていると、「昨日(5月26日)、大阪道頓堀の大阪松竹座がさよなら公演の千穐楽を迎えた」と報じた。驚いた。あの松竹座が昨日をもって閉館し、建物が取り壊されるというのだ。しかも、舞台の最後に出演者を代表して挨拶したのは、誰あろう、私がいまのいままでこのブログで書いていた、「眠狂四郎 円月殺法」の主演であるあの孝夫さん(現人間国宝第13代目片岡仁左衛門)だった。これも何かの縁だ。予定を変更して大阪松竹座に就いて書いてみたい。

 

大阪松竹座の地下に松竹芸能

なぜ私が、松竹座閉館に驚いたのか?実は私が大卒後に就職した「松竹芸能」は、松竹座の地下に本社があったのだ。新聞を読むと、松竹座の建物は、大正12年(1923)に関西で初の洋式劇場として建てられたというから、103年もの由緒があるある建物だったのだ。その長い歴史による経年劣化が取り壊しの原因らしいが、建築様式がネオ・ルネッサンス様式であることも、今回初めて知った。昭和46年(1971)3月から48年2月まで約2年間、私はそういったことをまったく考えずに、その松竹座の地下に週6日通っていたのだ。

松竹座2 

大阪松竹座(2024年)の表。ファサードのアーチにネオ・ルネッサンス様式の特徴があるらしい。左下の黄色い看板の奥辺りに、松竹芸能へ降りる階段の入り口があった。

松竹芸能の事務所は、細くて急な階段を降りたところにあった。中は意外に広く、そこにテレビ部・芸能部・演劇制作室・タレント養成所・経理部・総務部・会議室などがぎっしり詰まっていた。古い建物の地下のせいか、天井が低く当然ながら外も見えない。そんなところに100人もの社員が働いていたのだ。入社当初私は「地べたを這いつくばる芸能プロダクションに相応しい環境だ」と自嘲的に思っていた。というのは、大学の就職課での求人情報には「業務 テレビ番組の企画制作」と書かれていたのだが、入社するとそれが実情とはかけ離れていることが分かったのだ。「テレビ番組の企画制作」も確かにやってはいた。だがそれは、業務のほんの一部で5%ぐらいだった。95%は、タレントのマネージメント業務や角座などの演芸劇場の経営、演劇制作、市民会館や公民館、果てはキャベレーやクラブへの芸能ショーの売り込み等々だった。それらのこともあって、「だまされた」と私は思っていたのだ。

 

実は、多子済々の松竹芸能

しばらくすると、そうでもないことが分かってきた。地下室という環境の劣悪さは変わらない。だが、私自身がその5%に過ぎないテレビ番組の企画制作部門に携わることになって、「モノ作り」の現場の楽しさを知ったこともあったが、そこで働く先輩方の考え方や生き様に、興味が湧いて来たのだ。

直接上司の加藤哲也さんは、同志社の映研出身で、ドイッチャーの「トロツキー3部作」が愛読書という変わり種だった。念のために言うが、「トロツキー3部作」は思想書ではなく、伝記なのでお間違いなく。加藤さんはテレビ2課の課長だったが、常にテレビ界の先を考えている人だった。関西民放4社の幹部やP達の信頼も厚く、後には数々のヒットドラマを手掛け、副社長にまでなった。私は今でも加藤さんはABCの山内久司さんと並んで、関西テレビ界きっての名プロデュサーだったと思っている。私を「モノ作り現場」に行くように命じ、私の映画界入りを支援してくれた人でもある。

2年先輩の堀江邦英さんは、私が松竹芸伊能で最も親しくなった人だ。堀江さんも同志社の新聞学科を2番で卒業したという方で、凄い読書家だった。そんな人が森乃福郎という芸人さんのマネージャーをしていた。また、その時に主席で卒業した人が吉本興業で「やすし・きよし」のマネージャーを務め、後には吉本興業大躍進の原動力になったのだから、後のお笑い界の隆盛を考えれば、当時の大阪のお笑いの世界は、恐るべきポテンシャルを有していたのではないかと思う。

2人以外にも、大阪芸能史の生き字引と言われたタレント養成所の所長。口八丁手八丁、芸人さんよりも面白い速射砲のようなおしゃべりの石井光三課長。後に石井光三オフィスを立ち上げ、自らもタレントとして活躍した。3館の演芸場のプログラムを作成する演芸課から「敏江・玲児」のマネージャーになり、その後は演芸評論家になった沢田さん。相羽秋夫のペンネームでラジオ・テレビで活躍し、20冊以上の演芸本を書いた。演劇の台本も書いた演劇制作のプロ・野畑さん。「ハングマン」など数々のドラマのPを務めた佐久間さん。佐久間さんは私を京都映画に紹介・推薦してくれた。タレントに絶大な信用があり、「ABCのヌシ」と呼ばれた小元さん。MBS担当で、公開ドラマ「新・番頭はんと丁稚どん」のPを務めた山田さん。小元さんと山田さんの下でのAP経験が、私に「モノ作り現場の楽しさ」を教えてくれた。私のひとつ上という若さで、上方落語協会の知恵袋になっていた奥田さん。ワンマンで知られた6代目笑福亭松鶴のお気に入りだった。膨大な数のタレントのスケジュールを、鮮やかに捌いていたデスクの野中さん。

私はそういった方々に何故か可愛がられて、仕事の手ほどきを受け、毎晩のように飲みに連れて行ってもらった。道頓堀といえば大阪一の歓楽街だ。北に宗右衛門町、南に千日前、真ん中に道頓堀。飲食店は数千軒に上るに違いない。そんな道頓堀の地下室で2年間を過ごしたのだ。

 

道頓堀とは

江戸時代の道頓堀は、東から弁天座・朝日座・角座・中座・浪花座のいわゆる道頓堀五座の芝居小屋で賑わっていたらしい。私が松竹芸能に入社した頃は弁天座はすでになく、文楽や新作演劇などを上演していた朝日座、松竹芸能の演芸場だった角座、上方歌舞伎や藤山寛美の松竹新喜劇を上演していた中座、松竹映画の封切り館だった浪花座、そして洋画を上映していた松竹座などの松竹系の劇場がずらりと並んでいた。松竹座が現在のような演劇専用劇場になったのは、1997年(平成9年)からだ。これ以外にも、東映の封切り館と洋画専門劇場があったので、道頓堀は大阪の映画、演劇、演芸のメッカであったと言える。朝日座は私がAPを務めてモノ作り現場の楽しさを知った「新・番頭はんと丁稚どん」の収録劇場だ。この劇場の大道具さんには厳しく鍛えて貰って、美術・大道具の面では助監督になっても戸惑わずに済んだ。感謝している。

 道頓堀

道頓堀。画面左が戎橋。右手看板群の建物の裏手(南側)に道頓堀通りがある。
当時、手前から順番に松竹座・浪花座・中座・角座・朝日座があった。

 

松竹座の秘密?

実は当時洋画専門の映画館であった松竹座と、地下の松竹芸能は通路で繋がっていた。消防の観点から言えば地下からの避難路としては当然あるべきものだが、私たち新入社員には教えられていなかった。ある日の夕方、たまたま居合わせた堀江さんに私は言った。「上でやっている映画観たいんですよね」。堀江さんがニヤリと笑って応えた。「そんなら退社時間になってもしばらく残っとき」。6時になって退社時間となった。私は仕事をする振りをしてデスクに居残った。6時半を過ぎると、社員の姿はほとんど無くなった。堀江さんが手招きするので、カバンを持ってテレビ部のフロアの一番奥に行った。「非常口」と書かれたドアがあった。堀江さんはそこを開けて、囁く。「この先の階段を右に上がると、松竹座の1回ロビーに出る。知らん顔して客席に入って見たらええ」そう言ってドアを閉めた。松竹芸能の社員(ごく1部だが)はこの手を使って、映画を見ていたらしい。松竹座に頼めば、正面から入れてくれたのだろうが、冒険心も手伝って私もこの方法で2~3度映画をみた。映画館の地下というのは鬱陶しさはあるが、こういう利点もあったのだ。

 

オペラ座の怪人か?

この非常口では、もう一度面白い体験をした。「新・番頭はんと丁稚どん」のAPをやっている時だ。Pの山田さんが「新春座に行ったことがあるか?」と訊いた。「いえ」と私。「ほんなら、スケジュール表を持って付いて来い」と山田さんは例の「非常口」に向かった。新春座は関西の劇団で、宝塚歌劇の敷地内の劇場で公演をやっていた劇団だ。その劇団の俳優さんの1人が次の「新・番頭はんと丁稚どん」に出演する予定になっていた。

私は山田さんの後に付いて非常口を潜った。「静かに音を立てんと歩きや」と山田さんが囁く。客席のロビーに行くのとは反対の、左の階段を登った。しだいに映画の音声が聞こえて来た。階段の上は、ほとんど真っ暗な通路だった。進むにつれて、映画の音声が大きくなる。英語だ。通路の突き当りを左に曲がった。左手に巨大な白っぽい幕が現れた。その上を光が交錯している。「スクリーンだ」そう思った。松竹座のスクリーンの裏側にいるのだ。英語のセリフや効果音・音楽が大音量で聞こえる。そっと足音を立てずにスクリーンに沿って進んだ。長かった。「スクリーンてこんなに大きかったんや」そう思った。やっとのことで、スクリーンの反対側の端に辿り着いた。そこを右に曲がって、二つばかりドアを潜ると外に出た。陽光がやたらに眩しかった。松竹座の建物の裏手だった。

外階段を登って3階ぐらいに新春座の事務所があった。ドアを開けると「おー太郎ちゃん、わざわざすまんなー」と声が掛かった。知らなかったが、松竹芸能に入る前、山田さんは新春座の座員・俳優さんだったのだ。道理で芝居のことにやけに詳しく、私に衣装や小道具、カツラのことを詳しく教えてくれたはずだ。「太郎ちゃん」とは、少し前に「新聞少年」で大ヒットを飛ばした歌手・山田太郎にちなんで付けられた、新春座時代のニックネームだったのだ。

松竹芸能の玄関から地上に出てグルリと廻れば、難なく新春座に行けるのだが、スクリーン裏という禁断の場所を通る「オペラ座の怪人」めいたことが楽しくて、それからも私は秘密の通路を通って新春座に行ったものだ。

 

さらば地下室

 それから十数年経って、私が京都映画を離れてからは、大阪で仕事をする機会が多くなった。松竹芸能の仕事を引き受けることもあって、松竹座地下の本社に行くことも増えた。そんな時は、残っていた人たちが歓待してくれた。窮屈で暗いと思っていた地下の事務所がやけに懐かしかった。やがて、松竹芸能は新しい事務所に移った。ピカピカのビルの高層階だった。だが何故か私は、そのビルに行くことは徐々に少なくなった。

 

       【Episode23To Be Continued   

 

※次回は2026617日(水)に投稿予定です。

※告知です。6月7日(日)17時30分より、大阪・梅田のラテラルで「高鳥都の必殺本うらばなしin大阪」が開催されます。

必殺シリーズを取材されてきたライター・高鳥都さんによる関西初イベントで、都築一興氏と共に私もゲストで出演し、京都映画の思い出話などをする予定です。

詳しくは、こちらのリンクをご覧ください。

https://lateral-osaka.com/schedule/2026-06-07-19167/


お知らせ

 スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 

照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 

受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 

是故空中 無色 無受想行識 

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界  無無明 

亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶


般若心経