【episode2】

「獰猛な演技派~若山富三郎」 
            その2

(前号からの続き)
 「もう一回!?なんでだ!」若山さんが獰猛な顔で怒鳴る。「カ、カツラが……」と、Aカメラマン。よく見ると若山さんのカツラがグニャと歪んで落ちそうになっていた。砂丘に飛び降りた直後の回転で外れたらしい。たちまち若山さんの顔が朱に染まる!憤怒の形相になる!スタッフの間に緊張が走った。若山さんの感情が爆発する前触れだ。床山を怒鳴りつけるのか?弟子に八つ当たりしてブン殴るのか?
 噂通りの若山富三郎だと、そのどちらかをやってのけても不思議ではなかった。現場に 奇妙な静寂が流れた。荒い息を抑えて若山さんが口を開いた。「そうか、もうワンテイク行こう。次は上手くやる」。現場にホッとした空気が流れた。私も胸をなで下ろしたが、こうも思った。「この人は乱暴者かもしれないが、自分の失敗を人のせいにはしない人なんだ」。


渋い演技派~若山富三郎
 私はしだいに俳優・若山富三郎に興味を感じてきていた。殺陣だけではなく、若山さんは演技も素晴らしかった。「新・御金蔵破り」でも厳しい仕事師の顔と優しい父親の顔を見事に演じ分けていた。もともと、二枚目からコミカルな三枚目、情熱的な男、憎たらしい敵役など幅広い役柄を演じてきていたが、1970年代後半からはNHKの「事件」シリーズや映画「衝動殺人 息子よ」などで、優しい人間味と人生の哀愁を漂わせた深みのある役柄を演じるようになり、数々の演技賞を受賞していた。

「名優」と「乱暴者」とのギャップ
 私は上記のようにすでに名優と言えるキャリアを持つ若山さんと、京都の撮影所や映画界で流布している「横暴で乱暴者」というイメージのギャップに戸惑いを覚えた。たしかに、若山さんは京都で助監督や弟子に手を挙げることもあったのだろう。監督や映画会社の幹部にも乱暴を働いたという証言もある。狭い太秦に集中する京都の映画界では、その手の噂はあっという間に広まってしまう。
 もう一つ、京都で悪いイメージ強調される理由に思い当たった。若山さんが京都で出演した映画の傾向だ。東映で多数出演した「ヤクザ映画」の数々。それに、「子連れ狼シリーズ」や「賞金稼ぎシリーズ」などの時代劇の数々。いずれも派手な殺陣やアクション、それに暴力シーンが売り物だ。若山さんの演技・役柄が注目される作品もあったが、映画そのものの「売り」が殺陣・アクション・暴力なので、若山さんのイメージはどうしてもそちらの方に引きずられてしまったのではないか。
このことは、「事件」や「衝動殺人 息子よ」が東京で撮られた作品であることを考えると、京都の映画界の企画の貧困さが露呈されていると言ってもいいかもしれない。京都での作品イメージと「助監督や弟子、監督や会社幹部を殴った」という噂が結びついて、京都での偏った悪いいイメージが広まったのではないだろうか。勿論、暴力は良くないことだが、若山さんが京都では正当に評価されていないことは残念に思えた。


みんなは「先生」と呼ぶが
 若山さんのことを黒田監督以外のスタッフのほぼ全員が先生と呼んでいた。そう呼ばれることを本人も望んでいたようだ。娘役の菊地優子ちゃん(16)には「先生がこうやるからな、優子は……」と、自らを先生と呼んでいた。私は俳優を先生と呼ぶことに抵抗があった。京都映画ではどんな大俳優でも先生と呼ぶことはなかった。むしろ親しみを込めて、男優を「おっさん」と呼び、年配の大女優を「お母はん」と呼ぶことすらあった。スタッフと俳優さんとの距離が近かったのだ。撮影所文化の違いかもしれないが、私は東映の文化に染まりたくなかったのだ。
 ここで、当時の映画界を簡単に説明しておこう。娯楽の王座をテレビに奪われて久しく、映画界は経営的にはどん底だった。新東宝が真っ先に倒産し、続いて大映も倒産、日活は経営破綻寸前という状況だった。辛うじて生き残っていたのは、製作部門の子会社化・外注化を進め本体は配給会社となった東宝、不動産を切り売りして食いつないできた松竹、そして徹底した現場の合理化を進めてきた東映の三社だった。
 従って東映の撮影現場は、会社の利益代表ともいえる進行主任と進行係の力が強く、現場のスタッフに圧力を掛けていた。少し撮影に時間を掛けると、「何時までやってんねん!」とか、「そんなに凝りたかったら、京都映画にいけ!」というような声が飛んだ。
 それに対して、松竹の子会社京都映画では、現場スタッフの力が強く会社や製作部が現場に口出しすることはほとんどなかった。
その一方、「必殺シリーズ」の大ヒット・高評価などから分かるように、京都映画の現場製作能力は優秀だった。当時私たちは「京都映画は小さいが日本一の撮影所だ」と自信を持っていた。モノ創りを志ざすスタッフにとって、京都映画は非常に居心地の良い撮影所だったのだ。その証拠に京都映画のスタッフは給与が高い東映に移ろうとしなかった。私は製作現場の自由度、技術力の高さ、俳優との対等に近い関係など、どれをとっても京都映画の文化の方が好きだったのだ。

遂に……
 さて、「先生」問題だ。セカンドやサードの助監督はすでに若山さんを「先生」と呼んでいた。クランクインしてから数日は、私が直接若山さんを呼びにいく機会がなかった。付き人やマネージャーを通して出番を告げていたのだ。だが、ついにその時が来た。現場の準備が整い、若山さんの出番となった。若山さんの一番近くに私がいた。付き人やマネージャーは周囲にいない。「若山さん、お願いします」と私は言った。若山さんの返事はなかった。動きもしない。もう一度、声を張って「若山さん、お願いします」と言った。こんども返事がない。若山さんは「先生と呼べ」と言うわけでもない。若山さんと我慢比べになった。
 だが、これでは仕事にならない。助監督が俳優を現場に呼んでこれなくては助監督が助監督ではなくなる。私は遂に抵抗をあきらめた。「先生、お願いします」「おっしゃー!」。機嫌よく若山さんは現場に向かった。無条件降伏だった。

 

おはぎ食べぇー
 それ以来なぜか若山さんは私を気に入ったようだ。若山さんの組は、セットに入ると「おはぎ」が出てくる。若山さんは意外に甘党なのだ。あの顔で(失礼!)酒を一滴も飲まない。そして気に入った者には自らから「おはぎを食べぇー」とすすめる。私も「チーフ、おはぎを食べぇー」と毎日のようにすすめられた。
 ところが黒田監督は酒好きで、甘いものはまったくダメだった。「ク
ロダー、おはぎを食べぇー」といわれると、断ることが出来ないからとりあえず受け取り、小さい声で「皆元クン、食べて」と私に譲ろうとする。するとそれを若山さんがすかさず見つけて、「クロダー、チーフの分はここにある、それはお前が食べぇー」。黒田監督は泣きそうな顔でおはぎを食べていた。

わしの組はそんなに貧しいのか!?
 若山さんは娘役の菊地優子ちゃんを可愛がっていた。スタジオでの撮影が終わると、優子ちゃんと手をつないで話しながら俳優会館まで帰る光景が良く見られた。ホテルも同じで、出番の時間が同じ日は、若山さんの車で一緒に撮影所に来ていた。
 ちょっとした事件が起こった。その日の撮影が後数カ
ットで終わろうとしていた頃だ。若山さんが云った。「優子、明日朝一番のロケも一緒だな。先生の車で一緒に行こう」。若山さんはロケ現場直行で、支度は現場でやる予定だった。「いえ、先生。私は撮影所に入って支度をしてから出発してくれと演技事務に云われています。一緒には行けないんです」。若山さんの顔色が変わった。「演技事務を呼べ!」。
 演技事務が飛んで来た。「優
子が現場直行出来んのはなんでじゃ」「は、はい、明日は結髪の手が足りないので、優子ちゃんのロケ現場での支度が出来ません。それで、撮影所に来ていただいて……」「わしの組はそんなに貧しいんか?」「は?」。眼光鋭く演技事務を見据える。「わしの組は、結髪一人も出せんような貧しい組かと訊いとるんじゃ!」。低く抑えてはいるが、迫力満点の声だ。演技事務は震え上がった。「わ、分かりました!すぐに結髪のやりくりを致します。明日、菊地優子さんには、現場直行して頂きます。ご迷惑をおかけしました」。

虎の威を借る狐に変身
 この場面に遭遇して私の考えが変わった。東映京都撮影所で若山さんにNOと言える者はいない。助監督チーフとしてはそれを利用すべきだ。私は前にも増して若山さんをピッタリマークするようになった。現場では出来るだけ若山さんと監督が視野に入る位置をキープするようにした。
 若山さんが監督を呼ぶと、スト―リーが変わってしまうことがしばしばあったのだ。ストーリーが変われば、撮影スケジュールも美術・衣装・小道具・カツラも変更になる可能性がある。だから、「クロダ―」と若山さんが監督を呼ぶ声を聴くと、すぐに傍に寄って話を聞き洩らさないようにした。その結果を準備パートや制作部に伝えなければならないが、面倒なことがあった。
 美術・衣装・床山・結髪・小道具などの準備パートや演技事務は東映のスタッフ
だった。かれらは外部スタッフにはちょっと意地悪なところがあった。それまで私が「変更になったシーンは明後日の予定に入りますが、宜しくお願いします」と頼むと、大したことでもないのに「間に合わんな」とか「手が足りんな」と抵抗することがままあったのだ。
 そこで私は、ストーリーの変更があると、すぐ撮影現場に準備スタッフや演技事務を呼ぶことにした。そして、若山さんの前で「先生と監督が相談して、このくだりがこのように変更になりました。この部分は明日の予定に入りますが、大丈夫ですか?」と訊いた。かれらは若山さんの前では決して「出来ない」とは言えない。「分かりました、間に合わせます」。
 不利な敵地で戦いを有利に進めなければならない私なりの知恵だったが東映のスタッフには「虎の威を借るキツネ」と思われていたに違いない。また、あれほど嫌っていた東映のスターシステムを利用してしまったことになり、「あれで良かったのか」と今でも思うことがある。

後輩思いの演技指導
 若山さんは後輩の面倒見のいい人だった。若山組と呼ばれる俳優さんたちを、自分の主演作に数多く出演させた。勿論、キャスティングはプロデューサーの仕事だが、スターシステムが強い東映では当たり前の現象だった。「新・御金蔵破り」にも「若山組」が数人出ていた。そういう俳優さんばかりが出ているシーンがあった。若山さんは自分の出番がないのにその現場にやって来た。そして演技指導を始めた。結果はNG続出だった。彼らは若山さんがいることで緊張してしまい、いつもの演技が出来ないようだった。これなどは、若山さんの好意の空回りだった気がする。それとも、「どんなプレッシャーがある時でも平常心を失わないように」と、若山さん流の彼らに対するトレー二ング法だったのか。

危機一髪!
 やばいこともあった。京都北白川にある採石場のロケでのことだ。採石場には広い野原の奥に高い断崖があった。断崖は高さ約6~7mづつの階段状の段丘が10段ぐらいで構成されていた。上から2段目ぐらいの段丘に若山さんと優子ちゃんが立って、行く末を語り合うという設定だった。
 まずはロングショットから撮影が
始まった。私は若山さんに説明し、一緒に断崖横の坂道を登り始めた。すこし登ると若山さんが云った。「チーフ、わしは心臓が悪いんだ」。えー!?そんな!若山さんの顔を見ると、少し苦しそうだった。しかし、今さら中止するわけにはいかない。「ゆっくり行きましょう。休みながらゆっくりと」。何度も休憩してなんとか目的地に到着し、ロングショットを撮影した。その後、カメラも登って来て、そこで二人の寄りの芝居を撮った。終わってからマネージャーに訊くと、確かに心臓が良くないという。
 翌日、そのシーンのラッシュを試写室で観た。若山さんと隣合わせの席だった。最初のロングショット。ゲッ、若山さんがどこにいるか分からない大ロングだった。ズームアップもしていない。そして寄りのカット。ゲッゲッ、あんな高いところに行かなくてもいいような画だった。
 その時、私は監督やカメラマンに不満を抱いた。こんな撮り方をするのなら、ロングの若山さんは吹替で撮影し、寄りの画は下から2段目ぐらいで撮影してくれたら良かったのにと。こんなの心臓に疾患を持つ若
山さんに無理して登って貰う価値のない映像だと。
 それから自分の問題だ。
その組のすべてのことを把握し、責任を負うのが助監督チーフだと私は思っていた。だから、俳優さんの健康状態も当然把握していなければならない。そういう意味では若山さんの心臓疾患を知らなかったのは私の落度だ。そして監督が撮る画のサイズを確認してなくて、若山さんの吹替などの適切な手を打てなかった。すべてが私の失態だった。
 その時こそ、怒鳴られるかパン
チをを受けるかを覚悟した。だが、ラッシュが終わると若山さんは何も言わずに、試写室を出て行った。

 思い違いに気付いた。スタントを使わない立ち廻りもそうだが、若山さんはカメラサイズが寄りだろうがロングだろうが、自分の役は自分で演技する人なのだ。若山さんはモノ創りのためには労力は惜しまない人だったのだ。黒田監督も心臓のことは知っていたはずだ。だが、若山さんがそういう俳優さんだと知っているから、黙って採石場のあそこまで登らせたのだろう。
 翻って私だ。心臓疾患のことがあったにせよ、ロングだから普通の芝居に吹替を使えばよかったという発想が情けなかった。本来、自分の役は自分で演じるのが当たり前だ。「穏便に」「穏便に」という、どこか守りに入って
いた自分を反省した。

危機一髪!その2
 実は若山さんと私は10年前に一度だけ縁があった。私が松竹芸能をやめてアルバイト身分で助監督を始めたころ、東映京都撮影所から応援の要請が来た。契約助監督の組合が残業拒否のストを打つので、来てほしいというのだ。スト破りみたいなことは嫌だったので、断ろうと思ったが、監督が山下耕作さんと聞いて気が変わった。山下耕作さんは名作「関の弥太っぺ」や三島由紀夫が絶賛した「博奕打ち 総長賭博」などを演出した、私の最も好きな監督のひとりだったからだ。
 作品は若山富三郎主演の「極道シリーズ」だった。若山さんの怖さはさんざん東映のスタッフから聞いていた。助監督が何人も殴られたということだった。しかも、私にとって初めてのシンクロ(同時録音)撮影だった。それまで助監督で付いた映画は全編アフレコ(注1)作品だった。アフレコの場合は画面の中でカチンコを打つ必要がないので、両手で打っていた。従って、俳優さんの顔の前でカチンコを叩くのは初めてだった。アパートで練習してきていたが、緊張していた。
 セットに入ると知り合いの俳優さん遠藤太津朗さんがいた。遠藤さんが「新人の助監督皆元くんです」と紹介してくれた。最初のカットはロングだった。これは思い切り叩けばいいので、無事終わった。次は若山さんのアップだった。小さな声で呟くような芝居だった。演技の邪魔にならないように、小さく叩かなければいけない。カチンコにチョークでカットナンバーを書いた。チョークの粉が舞わないように2,3度叩いて粉を吹き飛ばした。「本番」と、山下監督の声が掛かる。若山さんの斜め右にスタンバイした。「軽く、軽く」と言い聞かせた。「よーい」と監督の声。「失礼します」と言って、カチンコを若山さんの顔の前に出した。「スタート」と監督。「軽く」と念じてカチンコを叩いた。「?」。音がしない。空振りだった。「!パンチが飛んでくる」。そう思った。乱暴もので有名な若山富三郎がカチンコの空振りなど許すハズがない。思わず目を瞑った。パンチの代わりに野太い声が聞こえた。「カチンコ待ったるから、落ち着いて叩けー」。若山さんだった。
 「助かった」そう思ったが、その時は遠藤さんの紹介と山下監督のお陰だと思っていた。山下監督は若山さんにとって初めて演技を評価された「博奕打ち 総長賭博」の監督だ。いわば恩人である。恩人監督の前で乱暴を働くのは遠慮したのだろうと思っていた。

だが、「新・御金蔵破り」に参加して私の考えは変わった。あの時の若山さんの言葉は、私の、新人助監督の一生懸命というか必死の姿を見ての言葉だったのだろう。私の緊張を和らげるために言ってくれたのだ。逃げる者、言い訳する者、誤魔化す者、手を抜く者にはとことん厳しいが、一生懸命な者、言い訳しない者、誤魔化さない者、真正面から対する者は、ちゃんと評価して理不尽なことはしない。若山さんは、そういう人だったのだと思い至った。(注1:アフレコはアフターレコーディングの略。撮影現場で音声を録音しないで、後で編集したフィルムに合せて音声を録音する作業。全編アフレコにすれば撮影現場に録音部はいらないので予算が節約できた)


名優+大プロデューサー
 若山さんはライティングなどの待ち時間、私にこの後の出演作の話をするようになった。「こんなドラマを作ろうと思う」「こういう映画を準備している」と楽しそうに語った。話を作ったり企画を立てたりするのが好きなようだった。「ぜひ、参加させて下さい」とお願いし、「よっしゃ」との返事をもらった。こうして私たちの若山組の仕事は、誰ひとり殴られることなく無事終わった。その後、私も京都映画に戻って監督の仕事が多くなった。しばらくして、若山さんが心筋梗塞で入院したというニュースが報じられた。ハワイで大手術も受けたそうだ。残念ながら若山富三郎と仕事をする機会は、とうとう訪れなかった。

                  【episode2】 The  End 
  
【episode3】は来週水曜日アップの予定です。