【episode3】
「十三代目市川團十郎は
                   別人だったかも?]   
その1


名取裕子が泊まる京都老舗旅館

 1993~4年頃だったと思う。私は東通企画と年棒契約を結んで4~5年目、「土曜ワイド劇場」などを監督していた頃だった。当時、大阪朝日放送の「京都旅情スペシャル」という旅の特別番組を、春と秋に東通企画が制作していた。人気タレントやグループが、京都での旅の予算を1万円~3万円~5万円~8万円~∞ と金額ごとに分かれて、旅の面白さを競うというバラエティ番組だった。当時すでに凄まじい人気となっていたスマップも、ギャップの面白さを狙って低い予算(3万円だったか?)の枠で出演していた。
 その中で私は予算が無限大の豪華旅の演出を担当した。豪華旅のゲストが松坂慶子、名取裕子、多岐川裕美、島田陽子などの有名女優だったからだ。日頃ドラマの監督をしているので女優の扱いに慣れているだろうという単純な発想だ。その秋のゲスト女優は、名取裕子だった。
 彼女が泊まる豪華旅館は京都市中京区麩屋町にある伝統和風旅館の「炭屋旅館」にお願いした。「炭屋旅館」は大正時代始め創業の京都でも有数の老舗旅館だ。撮影の2週間ぐらい前に、下見を兼ねて打ち合わせに行った。ご主人が対応して下さった。撮影の打ち合わせは順調に進み、雑談となった。

炭家旅館は成田屋の定宿
 ご主人の話だと、炭屋旅館は成田屋の定宿になっているという。成田屋といえば、歌舞伎市川流宗家の市川團十郎家だ。ご主人によれば、先代(十一代目)市川團十郎のころから、南座に出演するときは炭屋旅館に宿泊するという。その当時活躍中の十二代目市川團十郎(先ごろ十三代目を襲名した市川團十郎の実父)も定宿にしているという。その團十郎さんなら私にもいささかの縁があった。

團十郎さんを殺すところだった
 「実は……」と切り出した。「私はもうちょっとで、今の十二代目團十郎さんを殺すところだったんです」。同行していたプロデューサーたちは驚いた。「何を言い出すんやこの人は?」と思ったことだろう。一方、ご主人は「ほう」と興味を示した。私は少し長い思い出話をした。

役者の鏡・海老蔵さん
 その時からおよそ20年前の1976年のこと。私は28歳、助監督になってから3年目だった。京都映画に関西テレビ(KTV)・歌舞伎座テレビ制作の「宮本武蔵」が入り、私はセカンドで付いた。主人公の武蔵は十代目市川海老蔵(後の十二代目市川團十郎)さんだった。
 海老蔵さんは当時29歳、非常に礼儀正しく品行方正で真面目な俳優さんだった。セリフは完璧に入っていて、現場で台本を見る姿を見たことがない。撮影現場には我々が呼びにいかなくても、常に予定時間よりも前に現れた。
 夏のカンカン照りの河原でも、椅子に座ったまま年配のお弟子さんが(先代團十郎さんの弟子)差しかける傘の下で、じっと行儀よく出番を待っていた。我々助監督が「出番までもう少し時間が掛かるので、車でお待ち下さい」と言っても、お弟子さんが「ありがとうございます。このままで結構です。お気遣いなく」というばかりだった。海老蔵さんはそのそばでにこやかに我々に会釈を返してくれるのだ。海老蔵さんやお弟子さんの口からクレームや不満はひとつとして聞いたことがない。
 我々スタッフは「さすがは團十郎家、お弟子さんが『帝王学』を身に付けさせているに違いない」とウワサし合ったものだった。以来、京都映画では「海老蔵さん」といえば、行儀の良い俳優さんの代名詞となった。カメラマンのサブちゃん(藤原三郎)はその時の海老蔵さんの印象がよほど強かったのか、何年も後の「切り捨て御免!」の時も、主役の中村吉右衛門さんを「海老蔵さん」と呼んで、私たちを慌てさせたものだ。

 

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「巌流島の決闘」場面に参加した主演の海老蔵さんとスタッフ(撮影:牧野譲)

中列左から4人目が倉田準二監督、5人目が市川海老蔵さん、6人目が藤原三郎
カメラマン、7人目が鈴木政喜製作進行。後列左から4番目が筆者、5番目が家
喜俊彦チーフ。

巌流島の決闘場面の撮影
 さて、問題の場面だ。1976年の1月、「宮本武蔵」はクライマックスを迎えていた。武蔵と小次郎の最後の対決。有名な「巌流島の決闘」場面の撮影が、琵琶湖の東岸にある牧水浴場で行われた。現場は北西に琵琶湖と比良山を望む弓型の大きな湾だった。南側と南西側に砂浜があった。その南西側の砂浜で浜畑賢吉さん扮する佐々木小次郎が「いまや遅し」と武蔵を待つ。イラつく小次郎をよそに、武蔵を乗せた小舟が悠然と北の岬から現れるという筋立てだった。
 船頭役の谷村昌彦さんは櫓を漕げないので、小舟が現れるロングのカットは船頭吹替の地元漁師さんで撮影し、近くに寄ってくると谷村さん本人が櫓を漕ぐまねをするという段取りだった。

撮影にトラブル発生!
 武蔵が現れる前の小次郎側のカットが撮り進み、そろそろ武蔵が登場するカットの撮影時間が迫ってきていた。武蔵を乗せる小舟はすでに浜に用意してある。武蔵役の海老蔵さんはもちろんのこと、船頭役の谷村さんもスタンバイしている。助監督チーフの家喜さんが製作進行の鈴木さんと深刻な表情で囁き合う。私も傍に寄って話を聞く。なんと、小船を操る船頭吹替役の漁師さんがまだ現場に来ていないというのだ。鈴木さんが近くに住んでいるという漁師さんを迎えに走った。
 その間にも撮影が進み、とうとう武蔵の船が登場するカットの間近になった。鈴木さんが頭を振りながらが帰って来た。「泣きやもう!」と叫ぶ。鈴木さんの口癖だ。な、な、なんと吹替の漁師さんは、酔っぱらって寝ていたという。現場に来るまでには、いま少し時間が掛かるらしい。どうする?

現場は異常な緊張に
 監督は倉田準二さんだった。助監督には厳しいことで知られた監督だ。なにかあると「助監督さーん」と叫ぶ。「撮影が上手くいかないのは全て助監督に責任があると思いなさい」と言うのが口癖だ。
 その日、口開けから現場には異常な雰囲気が漂っていた。決闘に立ち会う小倉藩主の小姓役の少年が緊張して芝居にならないのだ。ほんの一言のセリフなのだが、大勢のスタッフ、エキストラと有名な俳優さんたちに囲まれ、また悪いことにその日は「巌流島の決闘」シーンということで詰めかけた取材陣などにも囲まれて、完全に舞い上がってしまっていた。目が泳ぎ、声が上ずってどうしようもない。チーフの家喜さんも少年に演技指導するのだが、まったくダメだった。
 倉田監督は小姓役を交替させるという。ロケ現場で役者を替えるというのは前代未聞の出来事だった。監督は別の役で来ていたエクラン社(大部屋俳優やエキストラを抱えるプロダクション)の美鷹健児さんを代役に指名した。美鷹ちゃんはすでに二十台の後半なので、小姓役はちょっとしんどかったが、監督はそれで良いという。

誰か櫓を漕げるものはいないか?
 そういうアクシデントがあったので、現場は何となくピリピリしていた。撮影スケジュールもかなり遅れていた。これ以上遅れると、1日で撮り切れなくなる恐れがあった。「取り敢えず、船と俳優さんを北の岬の向こうにスタンバイさせておこう。漁師さんが来たら車で送る。その間、監督に頼んで小次郎側を抜いて撮って貰う」。家喜さんがそう決断した。しかし、誰が船を北の岬まで運ぶ?誰も志願しない。櫓を漕げる者は誰もいなかった。私はオズオズと手を挙げた。「生まれたのが瀬戸内海の島だったので、櫓が漕げます」。    

海老蔵さんを乗せ岬に向かう
 私は海老蔵さんと谷村昌彦さんを小舟に乗せて、北の岬に向かった。スタート合図などの連絡用に、トランシーバーも乗せた。古い和船なので船尾側の突起金具と櫓側の穴がちびてしまい、油断するとすぐに外れてしまうような櫓だった。それでも何とか浜辺に沿って漕ぎ進み、岬の手前まで順調にたどり着いた。

寸前、強風が……
 「あと少し。岬を廻ればスタンバイ位置だ」。そう思って岬を廻ったとたん、ビューと強い向い風をまともに受けた。舳先が右に持って行かれて、船が横向きになる。舳先を左に戻そうとするが、すぐに押し戻されてしまう。船は横向きのまま強風に流される。櫓を大きく動かして何とか舳先を風上に向けようとするが、今度は櫓が突起金具から外れてしまう。ちびた突起金具と穴が滑ってしまうのだ。にっちもさっちもいかなくなった。船は湾の奥、南側の砂浜に向かって流されるだけだった。
 これでは撮影どころではない。「風で流されて櫓が効きません」と、トランシーバーで連絡した。「俳優さんや船は大丈夫か?」と、家喜さん。「大丈夫です。浸水もしていません。湾の奥は砂浜なのでそこに着いたら、船を曳いて戻ります」。
 私は海老蔵さんと谷村さんに不手際を詫びた。「しょうがないね。あ
っちの浜辺では、こんな強風は想像もつかなかったから」。海老蔵さんはそう言って慰めてくれた。後で聞くと、この風はロケ現場の北の対岸にある比良山から吹き降ろす風で、「比良おろし」といって冬場になると強烈に吹く局地風ということだった

大失敗!どうする洋之助?
 それにしても大失態だった。「このままでは『巌流島の決闘』は今日中に撮り切れないかもしれない。倉田監督に大目玉を喰らうんだろうな」。その時の私はそんなことばかりを心配していた。私と海老蔵さん、谷村昌彦さんの身に大きな危険が迫っているのも知らないで……
                                                           To Be Continued  

続編は来週水曜日アップの予定です