Episode6】

「ある日突然監督に・続編」
               その1


はじめに

 この【Episode6】を書いている途中に、高鳥都さんから「赤い稲妻」の台本コピーを提供してもらった。高鳥さんは「必殺シリーズ秘史」「必殺シリーズ異聞」「必殺シリーズ始末」など、必殺シリーズの本を4冊も執筆されたライターで、私がこのブログを書き始める切っ掛けとなった方だ。私は2回の転居のどさくさで「赤い稲妻」の撮影台本を紛失しており、大変助かった。御礼申し上げます。

提供して頂いた台本には、「地獄に咲いた赤いバラ」というタイトルが付いているが、放送時に「赤い稲妻」と改題されたと思われる。今回読んでみて、この台本は私が撮影した内容とは少し違っていた。たぶん村尾昭さんが書かれた最初の決定稿だと思われる。この決定稿を日本テレビプロデューサー・三沢紳一さんとシナリオライター・鈴木生朗さん、それに私とで直したものが撮影台本となったと記憶している。何と言っても40年以上前のことなので、役名などは提供いただいた台本を参考にさせてもらった。一部私の記憶と異なる部分は、私の記憶に基づいて書いた。間違っていれば私の責任であることは言うまでもない。

「赤い稲妻」台本表紙
提供して頂いた台本の表紙。放送時に「赤い稲妻」と改題された。

 

待っていた膨大な作業

お待たせしました!【Episode1】「ある日突然監督に」の続編です。私は1980年5月、神さんのお陰?で突然監督になった。「木曜ゴールデンドラマ」枠の日本テレビ・京都映画制作2時間時代活劇「赤い稲妻」の監督をB監督から引き継ぐことになったのだ。この経緯は【Episode1】で書いた。B監督が撮ったのは3日間だけ。分量的には8割強、アクションや活劇シーンは全部残っていたので、作業量的に言えば9割以上が未撮だった。
 同じ台本で撮るにしても、監督によって感性が違う。だから、私なりのドラマ展開の整理をしなければならないし、ホンの部分直しも必要だ。撮影コンテ(撮影プラン)に至っては、ゼロから作らなければならない。膨大な作業が待っていた。こういう作業は、後々の私の経験からいうと、二時間ドラマだと最低2週間ぐらいは必要だった。それを撮影再開までの1日半と、毎日の撮影終了後の夜なべでやっつけなければならない。

 当時、我が家には4歳と0歳の娘がいた。とてもその作業をする環境ではなかった。佐々木プロデューサー(以下P)に頼んで、取り敢えず2泊分のホテルを取って貰った。B監督が宿泊予定だった東映京都撮影所前の「夢屋」だった。

 

「夢屋」というホテル

すこし脱線する。「夢屋」というのは松竹芸能時代の先輩・衣川篤夫さんの奥さんが経営していたホテルだった。宿泊客は撮影関係者、特に東映京都撮影所に仕事に来た監督や俳優さんがほとんどだった。1階部分はレストラン。そこに、夜になると俳優・監督・プロデューサー・キャメラマン・照明技師・進行主任(京都映画では製作主任と言った)・助監督など、東映京撮の主要な関係者が集まって賑わっていた。深作欣二もいたし、「Gメン75」のメイン監督・鷹森立一や「戦国自衛隊」の斎藤光正監督などが常連だった。大スターは市内の一流ホテルに部屋を取っているが、帰りの一杯を「夢屋」でやって帰るという感じだった。やや気取って言えば、「あたかも梁山泊の様相を呈していた」と言えるかもしれない。従業員のデコちゃんは気っぷのいい女性で、そういったうるさ型を毒舌を交えて取り仕切っていた。こんな店は他には無かった。

私は衣川さんに可愛がられていたせいか、身内のような待遇だった。安月給なので時たまにしか行ってはいないが、「晩飯はいらない」と言って家を出たのに、夕食を喰いっぱぐれたときなどに利用した。私の場合、飲んで食事をしてもなぜか会計は千円を超えることがなかった。初監督祝いに衣川さんがボトルを入れてくれたが、何度行ってもそのボトルの中身が減らない。不思議に思ってデコちゃんに訊いた。「俺のボトル、なんで減らないの?」「うちは半年以上経つとお客さんのボトルを廃棄するシステムなんや。俳優さんの中には、一度来て半年以上来ない客もいる。捨てるぐらいならあんたに飲ませた方がええやろ」。
 後に夢屋では、「赤い稲妻」に出演した小林稔侍が京都に来ると逢っていた。彼の役を私が膨らましたことで仲良くなったのだ。竜雷太とも夢屋で仲良くなった。後年、私の作品に度々出演してくれるようになるのも、夢屋仲間だったことが切っ掛けだった。衣川さんの奥さんの紹介で千葉真一と逢ったのも夢屋だった。レストランの奥のプライベートルームで二人で話をした。今のテレビは顔の芝居が主流となっているが、もっと体全体を使った演技を見せるドラマを作ろうと、意気投合した記憶がある。
 残念なことに、「夢屋」はその後数年で廃業した。ちなみに、衣川さんは松竹芸能退社後、大川橋蔵の事務所に入り「銭形平次」のプロデューサーを務めた。

 

あっという間の準備時間

 さて、「夢屋」に泊まり込み、ほぼ徹夜で台本の整理をした。大きく直す時間はなかったが、自分なりに膨らませるところ端折るところなどを書き換えた。小林稔侍の役を膨らましたのもこの時だ。

翌日は「皆元組」の初打ち合わせだった。冒頭、日本テレビプロデューサーの保坂武孝さんが挨拶した。監督交代の経緯を簡単に説明したあと、スタッフに言った。「皆さんはこれまで皆元さんのことを『ようのすけ』と呼んでいたようですが、今日からは『監督』と呼んで頂きたい。宜しくお願いします」と、細かい心配りをして貰った。俳優さんにも同様の根回しをして頂いたのだと思う。

打ち合わせでは前夜整理したことを説明した。キャメラマンのサブちゃんには、「自分はドラマの流れと俳優さんの動きや芝居に集中するので、画作りはサブちゃんにお任せします」と告げた。「分かった」と、サブちゃんは快諾した。

打ち合わせの後は、撮影コンテ作りに没頭した。1シーンずつ、どう俳優さんを配置しどう動かすのか。それをどう録るのか。細かくプランを立てるのだ。このコンテをしっかり作っておかなければ、現場で立ち往生してしまう。「画作りはサブちゃんにお任せします」と言ったが、この芝居はロングで撮るのか、あるいはタイトなグループショットにするのかは決めないと、俳優さんの動きを組み立てることができない。俳優さんの動きや芝居は画のサイズや向きと連動するからだ。「ロング」「タイトグループショット」「2ショット」「ナメ」「UP」など、画のサイズもコンテにしっかり書き込んだ。サブちゃんに別の考えがあれば言ってくるだろう。

 

いよいよ監督初現場

翌日、監督初日だ。撮影は高雄の高山寺ロケだった。主役の松方弘樹を始め主要なメンバーが出演するシーンだ。開始時間となり、出演俳優・スタッフ全員が揃った。いよいよだ。緊張が高まる。まず、日テレの保坂Pから「今日から皆元監督で撮影再開する」旨の挨拶があった。ついに撮影開始だ。「シーン○○でーす」と助監督チーフに昇格した木下君が叫んだ。俳優さんもスタッフも全員が私の方を向いた。「えー、このシーンは……」と私は段取りの説明を始めた。声がしっかり出ていた。震えてもいない。それが分かると、スッと落ち着いた。「いける!」そう思った。その後は自分でも意外なほどスムーズに演出できた。もちろん、みんなの心使いがあったに違いない。お陰で順調な滑り出しが出来た。

なぜ落ち着いて演出できたのか?思い付くことをひとつ挙げるとすれば、こういうことではないか。私は自分がこの作品「赤い稲妻」を最もよく知る人間だと自負していた。この作品の立ち上げから助監督チーフとしてずっと準備してきたし、ロケハンにもすべて同行した。技術的な課題にもアイデアを出して解決してきた。ホン直しの会議にも参加して意見を述べ、日テレPの三沢紳一さんや脚本家の鈴木生朗さんとともに徹夜でホン直しをした。従って、保坂Pや三沢Pは私を信頼してくれていた。スタッフとは長年一緒にやってきて、気心を知り尽くしていた。俳優さんのスケジュールも全部頭に入っていた。さらに、この作品をどんな経緯で京都映画が受注したかや、日本テレビと京都映画のプロデューサーの人間関係も知っていた。だから、「赤い稲妻」のことは誰よりも自分が一番よく知っているという自信はあった。足りなかったのは、主要な出演俳優さんとの仕事経験と、私の監督経験だけだった。足りない分はプロデューサー諸氏やスタッフに補って頂いたということになる。 

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「赤い稲妻」撮影風景(撮影:牧野譲)前列左から志穂美悦子、藤木悠。後列左から演出中の筆者、松方弘樹、小林稔侍、本郷直樹、撮影チーフ助手・喜多野彰。

 

「赤い稲妻」ストーリー

 ここで「赤い稲妻」の大筋のストーリーを説明しておこう。時代は江戸中期。8代将軍の座を吉宗と争った御三家筆頭尾張徳川家が、吉宗を将軍の座から引きずり下ろすために、吉宗の実母・於由利の方(伊吹友木子)を犬山城に拉致監禁した。実は於由利の方は隠れ切支丹だったのだ。尾張藩犬山城代柳生主税助(御木本伸介)は、その時江戸下向途上にあった勅使一行が江戸城での将軍宣下の儀式の折に、その事実を公表して将軍宣下撤回を迫る計画を立てていた。江戸南町奉行大岡越前守(丹波哲郎)は秘かに与力・竜左近(松方弘樹)に於由利の方奪還を命じる。将軍宣下まで残り15日。左門は腹心のお狭(志穂美悦子)とともに様々な特技を持つメンバーを集めた。軍師・早坂助左衛門(横内正)、医師兼発明家・訥庵(藤木悠)、軽業師・庄三郎(本郷直樹)、琉球空手の達人盗賊・玄達(小林稔侍)総勢6人で犬山に向かう。左近たちは、迎え撃つ尾張家家臣や尾張柳生の忍者たちの目を掻い潜って、犬山城に忍び込む。城内での激闘の末、於由利の方を助け出して木曽川の急流を船で下る。それを忍者たちが船で追う。急流での壮絶な戦いをなんとか潜り抜けたが、その先に柳生主税助率いる尾張鉄砲隊が待ち受けていた。絶体絶命。実は左門はもう一つの密命を受けていた。奪還が叶わぬ場合は、於由利の方の命を奪えと。左門はこれまでと、於由利の方の胸を脇差で刺し貫いた。於由利の方は息絶えて川に転落。愕然とする主税助。計画失敗を悟ってその場で腹を切った。だが、意外な結末が待っていた。川に転落した於由利の方は、お狭が変装して化けていたのだ。本者の於由利の方は助左衛門とともに、抜け穴から犬山城を脱出していた。お狭は刺されたと見せて無事に生きていたのだ。

 

スタッフの協力

 撮影はテレビ映画としてはかなり大規模だった。もともと本編もビックリの大活劇なので、最初からある程度のことはやろうと準備していた。だが、サブちゃんの張り切り方はそれ以上だった。

撮影方法に関しては、私やサブちゃんが「こんなシーンにしたい」「こんな画を撮りたい」というと、スタッフみんなで「どういう方法で撮るか」についてアイデアを出してくれたり、「どんな機材が必要か」を考えて手配してくれた。特にワカ(広瀬浩一・録音助手)と南ちゃん(南所登・照明助手)が頑張ってくれた。照明技師の染川広義さんもいろいろ助言してくれた。てっちゃん(藤井哲也・キャメラマン)もスタッフには入っていなかったが、いろいろと協力してくれた。だが、サブちゃんの要求は驚くべきものだった。

 

犬山城に忍び込む

 問題のシーン、吉宗の実母奪還メンバーが犬山城に忍び込む手筈を説明しておこう。犬山城は木曽川を天然の要害とする難攻不落の城だ。高い崖の上に築かれている。まず庄三郎がハングライダー(のようなもの)で対岸の山頂から飛び立つ。夜の闇と訥庵の陽動作戦(城周辺の連続爆破)に紛れて、木曽川を越えて犬山城の天守閣に降り立つ。庄三郎は細紐の1端を天守閣の欄干に固定し、打ち上げ花火の要領で球状の細紐束を木曽川対岸に向けて打ち出す。紐を受け取った対岸の左近たちが、ロープの端を細紐に結ぶ。対岸からの合図で庄三郎が細紐を引き、繋いだロープを手繰り寄せたところでその端を欄干に固定する。このロープを伝って左近、お狭、玄達の3名が、レンジャー部隊宜しく木曽川を越えて犬山城の天守閣に忍び込むという段取りだ。このロープは於由利の方を奪還した後、脱出にも使われる。於由利の方をモッコに載せ対岸に運ぼうとするが、追手の尾張柳生の忍者に挟み討ちにされる。「あわや!」というところで、モッコからスルスルと長いロープが下り、それを伝って急流に向かって降りる。急流には訥庵が用意した船が待っているという段取りだ。

 

保津峡の落合にロープ

 さて、このロープを張る場所だが、ロケハンで保津峡の「落合」と決めていた。「落合」は保津川嵐山の上流、保津川と清滝川の合流点で、両岸がそそり立った岸壁の渓谷だった。京都の撮影所のオープンセットと言ってもいいほど、よく撮影に使われる場所だ。清滝川左岸の断崖の上が犬山城の設定で、天守閣はセットで組む。右岸が左近達がロープを伝って犬山城に忍び込むスタート地点だ。その清滝川の両岸、高さ30mの断崖にローブを張り渡すのだ。それだけでも大変な作業だった。

 

落合に大クレーン!?

さて、サブちゃんの要求だ。なんと、サブちゃんがこの場面をクレーンで撮りたいと言い出した。しかも大型のクレーンだ。「それは無理やろ」「落合に大型クレーンは入らへんで」「無茶やで」とスタッフの声。長い京都の撮影の歴史でも聞いたことがない。私も「難しいのでは?」と感じていた。

サブちゃんは左岸の犬山城側を写さないで撮ると、引きの画は下からのアングルに限られるので、クレーンで上からも撮りたいと言うのだ。クレーンを動かしながら撮ると迫力も出ると。「なるほど」とみんなは思った。取り敢えず実地調査をしようと言うことになり、その日のうちに効果担当の久世商会も同行して、現場に行くことにした。こういう場合のわがチームの行動力は素晴らしい。

落合の撮影場所まで府道からから50mぐらいの細い遊歩道が付いている。遊歩道の片側は岸壁がそそり立っており、反対側は川に向かって落ちている崖だ。道幅は2mよりも狭い。一定ではなく、1.5mぐらいの場所もある。未舗装どころか岩ゴツゴツのデコボコ道だ。大型クレーンは4輪のタイヤの上に、幅1.5m長さ2.5m程の鉄の土台が乗っている。その上に、高さ3mの塔が立っており、またその上に6mの頑丈なアームが乗っている。アームの1端にカメラとカメラマンが乗る台座。反対側の端に重りを積むハコ型の荷台が付いている。久世商会の春さん(春田耕一)が慎重に遊歩道を計測していく。「頑丈な板を20枚ぐらい敷いて、その上を転がしていったら何とかなるんちゃうか」と春さんが言った。「おー」とスタッフから歓声が上がった。京都の映画界で初めて、大クレーンを落合に持ち込むことになった。

 

決死の準備作業

 撮影当日、早朝から準備を始めた。大型クレーン搬入とロープ張りを平行して行った。綱のロープでは緩んでしまうので、ワイヤーロープを張ることにした。ワイヤーロープの一端(右岸側)は遊歩道があるので固定しやすいが、反対側(左岸側)は全面ほぼ垂直な断崖だ。スタントの宍戸大全グループが断崖をよじ登ってワイヤーロープを岩に固定した。

さて大型クレーンだ。まず、クレーンを乗せて転がす板を遊歩道に敷く作業から始まった。厚さ10センチ幅50センチ長さ5~6mくらいの板を平行に2列敷くのだ。これを50mの長さで!大変な作業だった。春さんの指揮のもと、スタッフの殆どが手伝った。道が岩でデコボコなので、噛まし板を挟みながら水平に敷いていく。左右も水平をとらなければならない。上が重いクレーンは傾いたらすぐに倒れてしまう。崖側であれば30m下に転落だ。水平器を使いながら慎重に作業を進めた。なんとか2列の板道が出来上がった。

次は大型クレーンを板に乗せて少しずつ進めていく。ハンドルは春さんが握った。ワカが「ちょい右」「ちょい左」と誘導する。上には枝が張っているところもある。てっちゃんが長身を生かして枝を払う。クレーンは蟻のようにしか進まない。重みで噛まし板が吹っ飛んだ。グラッと傾いた。崖側だ。万一に備えてアームにロープを3本掛けて数人でひっぱっていた。「ロープ引け!」ワカが叫んだ。傾きが止まった。身軽な南ちゃんがすかさず板を噛まし、殴りで打ち込んだ。時間は掛かったが、こうして何とか崖の先端まで大クレーンを運び込んだ。

 

落合ロケ撮影快調、だが……

いよいよ撮影開始だ。右岸の崖上の芝居は俳優さんで撮るが、ワイヤーロープ上を移動するカットは、吹替の宍戸大全グループで行った。まず、崖上の松方弘樹、志穂美悦子、藤木悠、小林稔侍の芝居から撮った。そして、大クレーンを使っての撮影だ。サブちゃんの言う通り広い画も、カメラを上下左右に動かして迫力満点の面白い画が撮れた。崖側の俳優さん(藤木悠)入れ込みのロープ上の3人の吹替という画もクレーンで撮れた。

午後からカメラを崖下の河原に下ろしての撮影となった。はるか高いところに、ロープがあった。まず、ロープ上を志穂美悦子、松方弘樹、小林稔侍の吹替3人が、崖上から犬山城に向かう大ロングを撮影した。ロープ上と言っても、ロープの上に腹ばいになるのだ。そして、バランスを取りながら手でロープを引き寄せて進むということだ。右側の崖を入れ込んだので、スケール抜群の映像になった。

次は数カット入ってからの少し寄ったカットだ。ただ進むだけのカットだし、ロープ上でバックすることは難しいので、テストなしの本番となった。「よーい、スタート!」と私が叫び、カチンコが鳴った。吹替の3人がロープ上を進んでいく。イイ感じだ。カットを掛けようとしたその時だ。バーンとロープが揺れた。「アッ!」と思った。思わず椅子から立ち上がった。バラバラッと3人がロープから落ちた。一瞬、目の前が真っ黒になった。「大事故だ!」

            To Be Continued 

※続編は来週水曜日にアップします