【Episode8】
 アウトロープロデュ―サー松本常保 
                  その1

 

敏腕プロデューサーはその筋の元組長?

私が松本常保さんと知り合ったのは、1984年私が37歳の時だった。松本さんは京都映画の敷地内に事務所を持つエクラン社の会長だった。当時のエクラン社は主に大部屋俳優のマネジメントとエキストラ集めを業務としていた。したがって監督の私としては、社長である松本さんの娘Yさんや業務担当Sさんとは、日常的に付き合いがあった。だが、会長の松本常保さんとは出会えば挨拶をする程度で、話をしたこともなかった。むしろ敬遠していたかもしれない。

松本さんはテレビの初期に、日本電波映画というテレビ映画の製作会社社長として、数々の番組を作ったプロデューサーだということは知っていた。だが、それだけではなかった。松本さんにはなんと、その筋の元組長だったという恐ろしげなウワサもあったのだ。

しかしその頃の京都の撮影所では、現役のその筋の人も、元現役のその筋の人も珍しくはなかった。照明部や製作部、それに俳優部にはゴロゴロいた。東映なんかはその数年前までヤクザ映画を量産していて、京都撮影所では神戸に本拠を置く日本最大組織のお兄いさんたちが、肩で風を切って歩いていた。また、ややこしい場所でロケをする場合、前もってその筋に話を付けておくというのは、むしろ常識だったのだ。

余談だが、東映のアルバイト助監督をしていた時のことだ。撮影所の予定表に「博奕場 出演者 本職10人」とあった。不思議に思って先輩に訊いた。「この本職って何ですか?」「これや、これ」と指で頬を切るアクションをする。「えー!?ホンマですか?でも、なんで?」「入れ墨を描くのは4時間ぐらい掛かるんや。絵描きさんはスターさんだけで手一杯になる。そこで博奕場のその他大勢は、ホンマの入れ墨を入れたその筋の人に出演してもらうんや。それが、本職や」。なるほど。マ、合理的っちゃ合理的だが……揉めたらどうなるんかな?誰か指を詰めるんかな?ギャラはどれぐらい払うんやろ?つまらないことが気になった。

松本会長は当時70代半ばだったと思う。かなりの長身。白髪で口ひげを生やしたダンディな人だった。だが、日常のエクラン社の業務にはタッチしない人だったし、私としてはもう引退した人というイメージでしかなかった。普通なら交わることもないそんな松本常保さんと、一体どんな経緯で深い関係を持つことになったのか?

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〈その2〉に出てくる「舞妓物語」撮影現場でのスナップ。左から松本常保プロデューサー、主演:岡本舞子・大志万恭子プロデューサー

 

テレビ時代劇が激減

当時の私は監督になってから5年を経過していた。テレビ東京・歌舞伎座テレビ室制作の時代劇を二十数本監督していた。「切り捨て御免Ⅲ」や「眠狂四郎~円月殺法」「眠狂四郎~無頼控」ではメイン監督の一人となり、私の監督人生は順調に進んでいたと言ってよかった。

そんな時、とんでもない事態に襲われた。テレビ業界の大転換が起こったのだ。それまで民放5系列それぞれに週2~3本ずつあった時代劇番組が一気に激減した。乱作と変わり映えしない勧善懲悪のストーリーが視聴者(特に若者)に飽きられたのだ。もともと時代劇は視聴率が高い割にはスポンサーには人気がなかった。作品や登場人物と商品イメージが一致しにくいからだ。視聴率が下がり始めると、スポンサー離れが一気に加速した。そして、2時間サスペンスドラマやテレビ局制作の現代劇ドラマに取って変わられたのだ。なんと、時代劇は全体で週数本になってしまった。私が所属していた京都映画でも「必殺シリーズ」1本だけとなり、私たちのチームは失業状態に陥った。

 

松本常保さんとの出会い

そんな時、キャメラマンの中村富哉さんから私に声が掛かった。中村さんはテレビ東京時代劇チームの一員だった。「洋ちゃん、カラオケビデオやらへんか?」。カラオケビデオとは、そのころ出てきたばかりの映像媒体だった。曲の伴奏だけだったそれまでのカラオケと違い、曲のイメージに合わせて作られた映像が売り物だった。映像に歌詞を張り付けて、素人でも歌い易いように曲の進行に合わせて色を変えていくのだ。

当初は中村さんに演出と撮影をやってくれと話があったそうだ。だが、カラオケビデオは演出家が映像コンテ(撮影プラン)も作らなければならない。それまで作るのは荷が重いと考えて、私に声を掛けたそうだ。

さしあたっての予定もなかったので、というか失業状態なので有難くお受けした。そしてそのカラオケビデオの製作会社が、件の松本常保さんのエクラン社だったのだ。エクラン社に挨拶に行った。松本会長は奥の応接セットにドッカと腰を下ろしていた。「皆元です。よろしくお願いします」。会長は私を見上げ言った。「おう、頼むで」。口元は笑っていたが、目は鋭かった。撮影所内で出会う時とは雰囲気が少し違った。たぶん松本さんは「こんな若造で大丈夫か?」と思っていたのではないだろうか。

 

カラオケビデオを作る

カラオケビデオの発注元はビクター音楽産業だった。他のプロダクションが作ったカラオケビデオ作品を参考に見た。「なるほど。カラオケビデオとはこういうものか」。私が担当する6曲の音楽テープと歌詞カードを渡された。持ち帰って曲を聞いた。「座頭市」と「唐獅子牡丹」、それに演歌が4曲入っていたと思う。「座頭市」は勝新太郎、「唐獅子牡丹」は高倉健が主役の大ヒットシリーズ映画(「座頭市」はテレビシリーズも大ヒットした)の主題歌だ。どちらも主役本人が歌っている。

どの曲も曲想と歌詞のイメージを映像化することはさほど難しくはなかった。厄介なのは、予算の関係で1日に2曲分撮影しなくてはならないという制約だった。一曲につき撮影場所が2~3カ所、カット数は20カットぐらいが限度だった。また、照明は南所登というテレビ東京時代劇を一緒にやってきた気心の知れた技師だったが、助手が一人で機材にも限りがあった。そういった条件を考えながらコンテを作った。

「座頭市」は京都映画俳優部の丸尾好広さん。「唐獅子牡丹」は東映俳優センターの白井慈郎さんをキャスティングした。扮装すると二人とも勝新太郎と高倉健にそっくりだった。演歌は女性のモデルさんを使った。丸尾さん白井さんはしっかり芝居ができる俳優さんだが、カラオケビデオのキャスティングや撮影で楽だったのは、音を録らないのでセリフの上手下手を気にしないでいいことだった。モデルさんでも、表情と雰囲気をそれなりに出してくれさえすればOKだった。それほどの苦労もしないで無事撮影を終え、大阪の三和ビデオセンターで編集して、完成テープをビクターに送った。

 

ビクター中が大騒ぎ
 二日後だったと思う。ビクターの担当課長からエクラン社に電話が入った。「とんでもないものが出来たと、ビクター中が大騒ぎになっています」。これまでのカラオケビデオとは別次元のクオリティーのものができたというのだ。

当たり前といえば当たり前のことだ。それまでのカラオケビデオは、街のビデオ屋さんというか、普段は結婚式の記録ビデオなどを作っている業者さんが作っていたのではないだろうか。

それに比べ、私たちは普段から第一線でドラマを作っているスタッフだ。少人数(録画技術スタッフ2人を含めて8人)だが、その中でも一番コアなスタッフが揃っていた。おまけに好意で撮影所の美術監督太田誠一さんも協力してくれていた。勝手知ったる撮影所のセットや機材や小道具も使えた。

「座頭市」では時代劇のメッカ・流れ橋をロケに使った。街道の茶店も作った。コンテをしっかり作ってあったので柱、葦簀、床几、「茶店」という旗だけあれば茶店になった。盃が溢れそうになる寸前でピタッと酒を注ぐのをやめたり、居合抜きで徳利をぶった切ったり、「座頭市」らしいお決まりのカットをふんだんに入れた。
 「唐獅子牡丹」では、唐獅子の刺青も見せた。殺陣も入れた。演歌では南所登がライティングでいい雰囲気の酒場を作ってくれた。中村さんはモデルさんを魅力的に撮ってくれ、鮮やかなキャメラワークで曲を盛り上げた。これらは、我々のごくごく普通の撮影の延長線上にあるものだったのだ。ビクターが騒ぐ「とんでもないモノ」が出来るのは当たり前だった。松本会長もこの結果には大喜びだった。

 

松本常保プロデューサー甦る

それからどんどんカラオケビデオの仕事が舞い込んで来た。通常は月に6本だが、倍の12本の時もあり、臨時の発売企画もあったりして忙しくなった。ついにはビクターだけではなく、テイチクのカラオケビデオも受注するようになった。

これで元気になったのは松本常保さんだった。眠っていたプロデューサー魂が甦ったようだった。コンテの打ち合わせは私が東京原宿のビクター音楽産業に赴き、担当課長やプロデューサーと打ち合わせをしていた。松本会長も時々一緒に上京し、ビクターの幹部とも会ったりして営業活動をするようになった。そんな時はビクターの担当者と会食し、会長と一緒に泊まることもあった。

そうして同じ時間を過ごすうちに、会長は私に昔話をするようになった。松本常保という男の生き様が少しずつ分ってきた。私などが想像もつかないような人生だった。

 

長谷川一夫顔斬り事件に関与!?

その世界のことは詳しくは分からないが、松本常保さんは京都のその筋の老舗「いろは組」系の松本組組長の息子として生まれたということだった。自伝「みなさんありがとう」には、太平洋戦争終戦の時37歳とあったので、明治40~41年の生まれということになる。父親が松竹系の撮影所でエキストラや牛馬を扱ったり、所内の整備や警備の仕事をしていたという。常保さんも若いころから、父親を手伝って撮影所の仕事をしていた。その一方、父親が開いている賭博場などにも出入りしていたという。「手本引き」というヤクザ映画でしか見たことのない博奕のコツも教えてくれた。若いころから喧嘩早く、また体も大きくボクシングもしていたので、メッポウ強かったという。

驚いたのは昭和12年に起こった、有名な「長谷川一夫顔斬り事件」に常保さんが関係していたと聞いた時だった。長谷川一夫といえば、いまの若い人には馴染みがないかもしれないが、私が子供の頃は映画界の大スターだった。映画史に残る名優でもある。母親からその大スターが若いころに顔を斬られるという事件があったことは聞いていた。その当時世間を揺るがせた大事件に、目の前の老人が関係していたとは!

 

悩み抜いた松本さん

松本常保さんによれば、いきさつはこうだ。当時、長谷川一夫は林長二郎という芸名だった。彼は絶世の美男俳優として松竹のドル箱スターだった。松竹の撮影所で働く常保さんは「長さん」「常ちゃん」と互いに呼び合うほど仲が良かったという。だが1937年(昭和12年)、林長二郎に移籍話が持ち上がった。松竹からライバルの東宝に移籍するというのだ。松竹のマスコミ操作もあったのか世論が沸騰する。「林長二郎は忘恩の徒」という論調だ。スターにしてもらった松竹に、後足で砂を掛けるような人にあるまじき移籍だというのだ。 
 しかし、ついに林長二郎の移籍は実行される。常保さんは悩んだそうだ。父親は松竹にお世話になっている。息子としては何らかのアクションを起こさなければ父親の立場がない。だが、相手は仲の良い「長さん」だ。悩んだ末に覚悟を決めたという(どんな覚悟かは残念ながら聞き漏らした)。その筋の人だけに、ちゃんとケジメをつけなければならないという思い込みは、東映の任侠映画をずっと見て来た私には、理解できないことではなかった。まさしく「唐獅子牡丹」の歌詞にある「〽義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界」だ。

 

事件の黒幕は超大物!?

そんな時、事件は起こった。林長二郎が東宝京都撮影所を出たところを暴漢に襲われ、剃刀で顔を斬られたのだ。大事件となった。人気絶頂の二枚目役者が売り物の顔を斬られたのだ。世間は騒然となった。警察は捜査を進め、金成漢という実行犯を逮捕した。そして、金成漢に金とカミソリを渡して傷害を教唆したとして逮捕されたのが、松本常保さんだったという(その他千本組関係者2人も教唆犯として逮捕・起訴され有罪判決を受けた)。常保さんは私に云った。「やったのはわしやない。やらなあかんと思うとったけどな」。わー、映画そのものの世界だ。常保さんはさらに言った。「実行犯は金某で教唆は千本組組員やけど、黒幕はアイツや」「アイツって、誰ですか?」「永田雅一や」「え!?永田雅一って、あの大映映画社長だった有名な永田雅一ですか?」「そうや、その永田雅一や」。とんでもない大物の名前が出て来た。ミステリードラマもビックリの展開だ。

                               To Be Continued   

【Episode8】後編は来週水曜日アップ予定