Episode8】
アウトロープロデューサー松本常保

                                        その2

 

前号からの続き
 1937年、超人気スター林長二郎(長谷川一夫)が、松竹から東宝への移籍の縺れによって、暴漢に剃刀で顔を斬られると言う大事件が起こった。人気絶頂の二枚目役者が売り物の顔を斬られたのだ。世間は騒然となった。警察は捜査を進め、金成漢という実行犯を逮捕した。そして、金成漢に金と剃刀を渡して傷害を教唆したとして逮捕されたのが、松本常保さんだった。常保さんが言った。「林長二郎の顔を金成漢に切らせたんはわしやない。永田雅一や」「え!?永田雅一って、あの大映映画社長だった有名な永田雅一ですか?」「そうや、その永田雅一や」。とんでもない大物の名前が出て来た。

 

「永田雅一がわしに罪を着せた」

永田雅一といえば、太平洋戦争直後から長年にわたって大映映画に君臨した名物社長だ。「永田ラッパ」と言われたが、市川雷蔵、勝新太郎、山本富士子、京マチ子、若尾文子などの大スターを育て、「羅生門(黒澤明監督)」「雨月物語(溝口健二監督)」「地獄門(衣笠貞之助監督)」など海外の映画賞を受賞する名作を作った大プロデューサーでもある。プロ野球大毎オリオンズ~ロッテオリオンズのオーナーとしても名を馳せ、政界のフィクサーとしても知られていた人物だ。

資料によると、永田雅一は「林長二郎顔斬り事件」の黒幕として逮捕されている。事件当時は新興キネマという松竹系映画会社の京都撮影所長だった。松竹側は彼に金を渡したと認め(「林長二郎引き止め工作資金として」と主張)、心証は真っ黒だったが、なぜか証拠不十分で釈放されている。

常保さんは「永田雅一と太秦警察署の刑事課長が、グルになってわしに罪を着せた」と述懐していた。常保さんは終始無罪を訴えたが、有罪判決を受け服役したそうだ。

 

「映画を作ろう」
 カラオケビデオを作りだしてから1年半ぐらい経ったころだ。急に松本会長が「映画を作ろう」と云い出した。テレビ映画ではない。劇場用映画だ。ビクター音楽産業と若手女性歌手を主演にしての映画製作に合意したという。「もちろん監督は皆元ちゃん、君
や」。!!!驚いた。「オ、オレが映画の監督!?」。

1年半前には時代劇の番組が打ち切られ、失業状態だった。その時、舞い込んで来たカラオケビデオ。そして、そこから一足飛びに劇場映画の監督。なんか笑ってしまうような展開だった。

それにしても、凄まじい松本会長の腕力だった。成功したとはいえ、1本50万円程度の製作予算のカラオケビデオだ。それを足掛かりにビクター音楽産業の幹部(元歌手でピンクレディを育てた飯田久彦制作部長)に食い込み、1億とはいかないまでも、それに近い予算の映画製作まで実現させる。まさしくバリバリ現役の剛腕プロデューサーだった。

 

松本常保という男とは

1年半の付き合いで、私にも松本常保という男の全体像がだいぶ分かってきた。太平洋戦争末期、37歳の常保さんは本土決戦に備えて京都の親分衆の賛同を得て、血気盛んな子分たちを中核とする数百名の義勇隊を組織したという。陸軍の賛同も得て陸軍大佐の軍服と軍刀を許されたそうだ。8月15日の玉音放送の後も、「鬼畜米英軍やソ連」と戦うつもりで、子分たちと武器を持って比叡山に立て籠もろうとしたそうだから、相当に血の気の多い人だったらしい。武器を陸軍から提供してもらい、いよいよ明日は決起というところまでいった。だが、直前になって心変わりした軍部や周囲の反対にあい、渋々武器を捨てて決起を諦めたという。しかし、ここからがまことに常保さんらしい。

いよいよ京都にも進駐軍が来ることになった。その直前のことだ。常保さんは京都府知事から米兵向けのキャバレーを作るように頼まれたというのだ。早い話、京都の若い女性の貞操を守るために、米兵の「情熱」のはけ口を作れということだ。

実はこのキャバレー設立の話は、松本常保自伝「みなさんありがとう」には、松竹が考え付いて松竹首脳陣から依頼されたということになっている。私が常保さんから直接聞いた時は、前述のように京都府知事から頼まれたということだった。松竹発想説には疑問がある。敗戦直後の混乱したあの時期のことだ。松竹という娯楽会社が、京都の女性の貞操を守るためにキャバレーを作るという発想をするものだろうか?これは常保さんが私に語ったように京都府知事の発想と考えた方が自然な気がする。

多分京都府は、「進駐軍がやってくる!どうする?治安や婦女子の貞操は守れるのか?」と狼狽えたのではないだろうか。その結果、「慰安所があれば何とかなるのでは?」と思い付き、京都が創業の松竹に相談した。そこで松竹は、撮影所の仕事をしていた松本組のトップ常保さんに依頼した。こういう流れではなかったかと私は推測するのだが、どうだろう。後に常保さんは当時の京都府知事と親交を深めることになる。彼を慮って、自伝には「松竹の依頼」とのみ書いたのではないだろうか。

 

キャバレー「歌舞伎」開店

さて、松竹から相談を受けた常保さんはどうしたのか?常保さんは「京都のため」という殺し文句に弱い。一転して、昨日まで鬼畜米英と罵っていた進駐軍のための接待所建設に一肌脱ぐことになった。やるとなると、徹底してやるのが常保さんだ。広い人脈を生かし、子分たちを指揮して、たちまち200名の不良少女や玄人の女性を集めたそうだ。彼女たちにダンスや接客マナーを教育し、突貫工事で建物の改装を施し、酒や料理の手配など獅子奮迅の活躍だったという。1945年(昭和20年)9月15日、何とか進駐軍専用キャバレー開店にこぎつけた。このキャバレー「歌舞伎」は、後に日本人客も入れるようになり相当に繁盛したらしい。

 

政界進出

驚いたことに常保さんは、その余勢をかって政界にも進出してしまう。親戚や近所の人々に担ぎあげられ、1947年京都市会議員に立候補。見事当選を果たした。議員活動として京都拘置所だったか刑務所だったかの視察に行ったら、檻の中の子分たちに「おやっさん」と声を掛けられて困ったというエピソードは常保さんらしい。キャバレー「歌舞伎」の成功により、常保さんはいよいよ映画製作の道に乗り出す。

 

映画界での華々しい活躍と挫折
 松本常保さんは。1948年には映画製作と芸能プロダクションを業務とする「えくらん社(後にエクラン社)」を設立。プロデューサーとして活動を始めた。1966年までの18年間で自前製作・提携製作・企画提供含めて30本以上の映画を製作したというから凄い。それまで常保さんは撮影の現場しか経験していなかったはずだ。常保さんによると、「企画や台本作りには慣れていなかったが、撮影現場で培った動物的な勘で勝負していた」ということだ。完成試写が終わった直後に常保さんが涙を流していれば、「この写真(作品)は当たるで」とスタッフたちが言っていたという。

また、テレビが普及し始めると、1959年に「日本電波映画」を設立。大手映画会社が「電気紙芝居」と馬鹿にして手を出さなかったテレビ映画の製作も始めた。「琴姫七変化」「柔」「矢車剣之助」「天馬天平」などが大ヒットし、太秦に自前の撮影所を持つようになる。さらにヒット作は続き、亀岡に広大な第二撮影所を有するまでになった。

その間、常保さんはプロデューサーとして八面六臂の活躍をする。付き合った監督も清水宏・豊田四郎・マキノ雅弘・渡辺邦男・久松静児・熊井啓・加藤泰・溝口健二など錚々たる顔ぶれだ。だが、読売テレビの大作ドラマ「明治天皇」が視聴率低迷のため途中打ち切りとなって、1967年日本電波映画は倒産した。エクラン社は存続し、俳優斡旋業と数年置きの映画製作や企画提供を続けていた。ただ、1981年の「炎のごとく(大和新社)」以降、ビクターとの企画が持ち上がるまでの5年間は、映画製作は途絶えていた。おそらく、「炎のごとく」の興行成績が振るわなかったためと推測される。

 

その筋とのお付き合いも

常保さんはプロデューサーをするようになって任侠の世界からは足を洗ったという。だが、私がエクラン社の仕事していた時期も、多少の付き合いは残っていたようだ。ある日私が事務所で仕事をしていると、小包が届いた。お中元のようだった。私が作業をしているテーブルに置かれたので何気なく見ると、差出人欄に見覚えのある名前が書いてある。傍らにいた常保さんに聞いた。「この〇〇って、もしかしたら……」「そうや、△△会の四代目会長や」。ゲッ、△△会!京都・滋賀で当時組員2,500人という勢力を誇る組織の会長から中元!?「〇〇会長は若いころ、親父の賭場で手本引きを習いたい言うて出入りしとったんや。今もこうやって盆暮れには挨拶を寄こしよる。義理堅い男や」。
 こんなこともあった。その日もエクラン社の事務所で松本会長と話をしていた。そうすると、ごつい体の男がヌッと入ってきた。顔が傷だらけだった。「オジキ!お久ぶりです!」。いきなり松本会長の前で、腰を屈めてガバッと頭を下げた。まさしく任侠映画で見るその筋の挨拶だった。「おう、Mか。どうした?」「じつは××の兄貴の減刑嘆願のことでお願いに上がりました」。君子危うきに近寄らず。私はそそくさと事務所の外に出た。京都映画製作部の前で、やって来た大志万恭子さんと出くわした。大志万さんは長年会長とともに映画やテレビ映画を作ってきた人だ。「事務所に顔中傷だらけのその筋の人が来てましたよ」と私が言うと、「ああ、Mさんやな。あの傷は交通事故やけどな」。!?!?……。

 

映画が動き出した

さてビクターとの映画だが、私と松本会長そして大志万恭子さんとで企画を考えた。すでに松本会長の頭の中にはやりたいことがあったようだ。会長が断片的に「あんなこと」「こんなこと」と喋るのを、私が整理し肉付けをするという感じで、大筋を作っていった。

舞台は京都。主人公は若い舞妓。祇園の古い因習に反発する主人公の成長物語。恋人との恋愛話とその恋人を失う悲劇。そして、幼いころに別れた母親を絡めた母モノの要素も入れる。なんとパリロケまで入れようという話になった。大筋が決まったところで、私の知り合いのシナリオライター金井貴一さんに纏めてもらい、直しは東多江子さんに頼んだ。タイトルは「舞妓物語」。

 

「舞妓物語」のキャスト・スタッフ

キャスティングだが、当初は主役に小泉今日子という話も出ていた。だが、すでにトップアイドルとなっていた彼女はスケジュールのやりくりが付かず、結局新人の岡本舞子になった。岡本舞子は前年デビューし、いくつかの新人賞を取ったビクター期待の新人という話だった。共演は三好圭一、赤座美代子、美保純、江藤潤、小林稔侍、伊藤栄子、荒木雅子、火野正平、山内としお、遠藤太津朗など。

撮影スタッフはカラオケビデオをともに作ったメンバーが中心となった。撮影:中村富哉、照明:南所登、美術:太田誠一だ。そのほかにも、録音は「眠狂四郎シリーズ」などの田原綱重、編集は「必殺シリーズ」や私のデビュー作「赤い稲妻」の園井弘一、記録は私が駆け出しの頃しごかれた野口多喜子、進行は古やんこと古川信雄、製作主任は大映出身の大ベテラン足立源一郎など心強いメンバー。助監督チーフには先輩にして親友の都築一興に頼んだ。

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「舞妓物語」パリロケ撮影風景。立っている左から2人目が都築一興、3人目が筆者、

4人目が岡本舞子。

 

「舞妓物語」クランクイン

「舞妓物語」は1986年夏にクランクインした。撮影は概ね順調に進んだ。松本会長の力で、松竹や京都映画にも協力してもらったが、製作資金が足らなくなり翌日撮影のフィルムが無いということもあったとか。私には知らされなかったが舞台裏ではいろいろ大変な苦労を掛けたようだ。舞妓物語の詳しいことは別の機会に書いてみたいと思う。

「どつき回したる!」

常保さんに関して言うと、京都ロケではこんなこともあった。東山の白川で夜間ロケを行っていた時のことだ。撮影中に近くのビルに事務所を置くヤクザのチンピラが「うるさい!誰に断って撮影しとるんや」と、クレームを付けてきた。製作進行の古やんが対応し、何とか穏便に帰ってもらった。その直後松本会長が現場に来た。古やんが先ほどのチンピラの一件を話し、無事収まったと報告した。すると、会長が突然怒り出した。「そのチンピラを連れて来い!どつき回したる!」。凄い剣幕だった。その事務所まで乗り込む勢いだった。古やんが必死になだめ、なんとか事なきを得た。

常保さんの怒り狂う様子を見るのは、私は初めての経験だった。だが、エクラン社の関係者によると、こういうことはままあるということだった。70代半ばになっても血の気の多い人だった。

 

生意気なところが似ている?

考えたら、私は一度も松本会長から怒鳴られたことがない。会長の言うことに逆らったり、意地を張ったり結構いろいろあったので、「どつき回したる!」と怒鳴られてもおかしくないはずだが、そんな記憶はないのだ。会長の娘のYさんに「何でやろ?」と訊いたことがある。Yさんは私が会長の無くなった息子さんに似ているという。「生意気なところが兄ちゃんによう似てる」。

私は元々そんなに気の強い方ではない。どちらかといえば弱い方だ。だが、撮影所に入って鍛えられるうちに、仕事に関しては譲らなくなった。その傾向は助監督サードからセカンドそしてチーフへと責任が重くなるにしたがって、強くなった。松本会長と仕事を始めた時は、監督になってすでに数年たち、20数本も撮ってきた時期だ。ある意味「生意気盛り」だったのかもしれない。

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「舞妓物語」パリロケ写真。左から山内としお、岡本舞子、筆者、都築一興。

 

「舞妓物語」その後

こうして「舞妓物語」は完成し、1987年7月に公開された。だが、松竹は全国で2館、それも1週間しか公開してくれなかった。さほど予算の多い作品ではなかったが、それでも、エクラン社は相当な赤字だったに違いない。結果については、ひとえに私の力不足が原因だったと思う。せっかく貰ったチャンスを生かせなかったのは、私の責任以外の何物でもない。こうして私と松本会長の挑戦は終わった。

カラオケビデオは相変わらず続いていた。それまでに200曲以上作ってきていた。何故か、コンテを作るのが次第に苦痛になってきていた。曲を聞いても映像が湧き上がってこない。いや、湧き上がっては来るのだが、「これはもう使った手だ」「これは2回以上使ってる」と、引き出しが無くなってきたのだ。ドラマであればセリフがあるので、ある程度同じ手を使っても誤魔化せるのだが、カラオケビデオはそうはいかなかった。

ちょうどそのころ、大阪東通から「水中撮影を使った旅番組をやらないか?」という誘いがあった。大阪東通は数年前、毎日放送・京都映画が制作した「花かぶら」の技術を担当したビデオ技術会社だ。その時のスタッフが声を掛けてくれたのだ。私は松本会長に事情を話し、「一度カラオケビデオから離れたい」と申し入れた。会長は帰ってくることを条件に許してくれた。

 

松本常保さんとの別れ

大阪で仕事を始めると、どんどん仕事が増えてきた。「カラオケビデオもやらなきゃ」と思うのだが、スケジュールが次々と入るので、伸ばし伸ばしになった。それに、私の代わりにカラオケビデオの演出をする人も定着していた。私の先輩監督だった。自分の都合のいいときだけ戻って良いのか?という思いもあった。やがて大阪でドラマ監督の仕事も入るようになる。やはり本業のドラマ演出は魅力があった。

こうしてエクラン社とは次第に関係が薄れていった。その間に会長は体調を崩していたようだ。そして松本常保さんは亡くなってしまった。上手く言葉では言い表せないが、常保さんとは仕事上の付き合いとは割り切れない何かがあったように思う。映画を撮らせてもらった恩義も感じていた。出来ることならもう一度、今度は私の力で成立させた仕事を一緒にしたかった。残念なことに、私はまだまだ力不足だった。

松本さんが亡くなってから「舞妓物語」のビデオを見た。随所に常保さんとの思い出があった。不思議なことに、公開時にはもう一つ物足りなさを感じていた作品が意外と面白いのだ。「けっこういけてるな」と感じた。映画というものは見る者の心の在り方次第で、随分と印象が違うものだということを発見した。これも松本常保さんのお陰かもしれない。藤本義一さんが常保さんを評して、「最後の活動屋」と言った。まさしくその言葉にふさわしい松本常保さんの生き様だったと思う。

                            Episode8】The  End   

 

※【Episode9】は来週水曜日にアップ予定