【Episode9】
超個性的な監督・三隅研次
その2
前号からの続き
初めての三隅組。セットに入って2カット目のカットナンバーが分からない。仕方なく、三隅監督に「何カット抜けばいいでしょうか?」と、恐る恐る訊いた。「10カット抜いといて」と監督。私はカチンコに「〇〇(シーンナンバー)─12」と書く。本番。「ナンバー送ります」と録音部に声を掛ける。本番前に今から撮るカットのシーンナンバーとカットナンバーを録音しておくのだ。録音部から「ブー」と「録音OK」のブザー。私は大声で「シーン〇〇、カット12」と叫んだ。いきなり、「訂正!カット2」の声が飛ぶ。オタキさん(記録:野口多喜子)だ。驚いた。飛んで行って、「監督に訊いたら10カット抜けって言われました」と訴える。「アホ、直結に決まっとるやないか!」。そんな!だって!?……
それ以後も三隅監督は、カットナンバーを訊くと「10カット抜いて」としか言わなかった。「恥を掻きたくなかったら、ちゃんと勉強しろ」ということなのか?それとも「そんなことも分からない奴にカチンコを叩く資格はない」ということなのか?いずれにしろ、それ以後は必死で監督の言葉に耳を傾け、キャメラマンの“いっさん”(石原興)や俳優さんとのやり取りを聞き洩らさないようにした。

撮影風景写真(撮影:牧野譲)前列右に三隅監督、後列右から撮影部チーフの藤井哲也、石原興キャメラマン。
助監督を使う“いっさん”
“いっさん”は三隅監督の気性が分かっているので、知りたいことがあってもまともには訊かない。例えば畳に正座した人物の前に湯呑茶碗が置かれている。それを画の中に入れるのかどうかを知りたいときは助監督の下っ端を使う。「ヨウノスケ、茶碗の向きをチョイ右に回せ」。すると三隅監督が言う。「石やん(三隅監督は石原興をこう呼んだ)、茶碗は切っといて、次に寄るから」。私にはこういう高等テクニックは使えなかった。こうして私は監督や記録さんやキャメラマンの愛のムチ?で鍛えられたのである。
1行のト書きを10カット以上撮る
さて、さて、さて、さて、三隅組は全く時間が読めなかった。コンテが分からないだけではない。予想もしなかったことが起こるのだ。基本的に三隅さんは他の監督に比べてカット数が多い監督だったが、時には数ページあるシーンをワンカットで撮ることもあった。
その一方で、たった1行のト書きなのに10カット以上撮ることもあった。例えば、「二人の激闘が廊下に流れ、庭に至る。」とだけト書に掛かれた立ち廻りシーン。三隅監督は二人の因縁や立場が浮き彫りになるカットを積み重ねたりするのだ。
私は昼食に連れて行ってもらったときに、恐る恐る訊いたことがある。「監督はどうして1行しか書いていないシーンを丁寧に撮られるんですか?」。三隅監督はこう答えた。「ホン屋さん(シナリオライター)が一生懸命書かはったところは、そのまま撮ってええんや。しかし、手を抜いたところはしっかり丁寧に撮らなあかんねん」。なるほど。
ロケハンから帰ったら監督交代
三隅監督は頑固な?人だった。気に入った台本(撮れると判断できた台本と言うべきか)でないと撮らなかった。
作品名は記憶していないが、こんなことがあった。撮影に入る前々日に、三隅組のスタッフ打ち合わせがあった。その後、ロケハンに行くのが通例だったが、三隅監督は同行しなかった。台本直しの打ち合わせのために残ったのだ。監督は良く知っているロケ場所だったのだろう。キャメラマン以下のスタッフだけでロケハンに出発した。監督の席が空いたので、セカンドの私も同行した。2~3ヶ所ロケ地を廻って撮影所に戻った。思いがけないことが起こっていた。私たちを迎えた製作主任の渡辺寿男さんが言った。「監督がMさんに変わった」。三隅さんは台本の直しが気に入らないので、降板したということだった。その回以外でも台本を読んだ段階で、「撮らない」と降板したことは何度かあるらしかった。
主役の提案を拒否
三隅監督は俳優さんにも妥協しなかった。藤田まことが「必殺シリーズ」の主役として、人気絶頂を迎えたころ。藤田まことは自分のセリフを「こう言い換えたい」と、しばしば監督たちに提案していた。それをOKする監督も多かった。そんなころ、私は三隅組に付いた。セットに入ると、藤田まことが三隅監督の前で台本を広げ、意気込んで言った。「監督、ここのセリフはこうこうこういう訳で、こう言い換えたいんですが、よろしか?」。三隅さんは台本をチラと見て言った。「ホンヤさんが書いてくれた通りに言いまひょか」。静かなしゃべり方だったが有無を言わさない威厳があった。藤田まことは一言もいい返さなかった。
「残りのセリフは全部食い!」
もう一つ強烈なエピソードがある。これは私が京都映画に入る前なので、ベテランスタッフから聞いた話だ。「必殺シリーズ」第一弾「必殺仕掛人」でのこと。元締め役として山村聰がレギュラー出演していた。元々彼は風格ある名優として知られていたが、特にTBSのヒット番組「ただいま11人」に出演してからは、理想の父親俳優として絶大な人気を博していた。したがって猛烈に忙しく、その日の三隅組も、午後5時には現場を離れて東京に帰るスケジュールになっていた。
朝9時開始のセット撮影だった。台本ではそのシーンの冒頭から出ているので、山村聰も9時には扮装して第三セットの前にスタンバイしていたという。撮影は始まったが、現場からお呼びがかからない。時間はどんどん過ぎていく。お付きのマネージャーが助監督に「まだ?」と訊くが、助監督もコンテが分からないので答えようがない。
とうとう1カットも出演しないまま昼食になった。助監督チーフや製作主任の渡辺さんも山村聰に「申し訳ありません」と謝るしかない。三隅監督には誰も山村聰の出番がいつになるか聞けない。そういうことを聞かせないオーラが、三隅監督には漂っていた。渡辺さんは、「必殺シリーズ」のすべてを仕切っている実力派のベテラン製作主任だった。その渡辺さんをもってしても、何もいえない三隅監督のカリスマオーラだった。
午後の撮影が始まっても、一向にお呼びが掛からない。そのシーンは山村聰のセリフが結構あった。時間はどんどん過ぎて行く。午後4時になった。5時まで後1時間。超特急で撮ってもギリギリのタイミングだ。とうとう渡辺さんが覚悟を決めて、セットに向かった。三隅監督に近づき、緊張して言った。「先生、山村聰さんを5時には東京に帰す約束になっています。どうか山村さんを先に撮ってもらえませんでしょうか?」。黙って聞いていた三隅監督が言った。「ほな、呼んで」。急いで入って来る山村聰。「オッサン、そこ座って」と、悠然とポジションを指示する。山村聰が座ると「このセリフ言うて」と、いつものペースだ。キャメラマンに言う。「オッサンのアップ撮って」。テスト一回で本番になった。撮り終わると三隅監督が言った。「オッサン、東京へ帰って」。「いや、まだこんなにたくさんセリフが……」と、山村聰。「後は、食い」と、監督。“食い”とは撮影所用語でカットするということだ。何十行かある残りのセリフを全部カットするというのだ。山村聰は憮然として東京に帰ったという。
三隅監督の快挙?
凄いイジメと受け取る人もいるかもしれない。しかし、京都の撮影所では「さすが三隅監督!」という受け止め方が多かったように思う。私に話してくれたベテランスタッフも、そういう意味で教えてくれたのだ。
テレビの隆盛によって、俳優・タレントの力が日々強くなっていた時代だった。それまで撮影所に所属していた俳優たちが、テレビドラマに出演するようになって、俳優事務所に所属するようになった。力のある俳優の事務所は、平気で無理なスケジュールを撮影所の現場に押し付けてきていた。「他の俳優を後まわしにして先に撮れ」「製作的・演出的合理性を無視してもうちの俳優を先に撮れ」。言葉では言わないがそういう要求だ。はっきり言葉でそう要求してくる事務所すら出てきていた。このエピソードは、そういう流れに対して強烈な一撃を食らわせた快挙として、撮影所では語り継がれてきたのだ。
三隅監督の作品傾向
資料によると、三隅監督は母親が正妻ではなかったため、成人するまで実の母親に会えなかったという生い立ちだったらしい。画家になろうとしたが父親に反対され、あきらめざるを得なかったという。立命館大学卒業後、助監督になった直後に召集され満州に渡った。終戦後はソ連によってシベリアで過酷な抑留生活を送らされた。そういう熾烈な体験と生い立ちが三隅監督の作風に影響しているという。
三隅監督作品のラインナップを見ると、丹下左膳、鼠小僧、座頭市シリーズ、眠狂四郎シリーズなど、虐げられたり差別を受けたりする者が主人公だったり、そういう弱者を救う者が主人公だったりする映画が多いような気がする。またそういった作品群が高い評価を受けてきた。勿論、映画会社の企画は企画部が作るものだ。特に大映は溝口健二・衣笠貞之助・伊藤大輔などの大御所以外の監督は企画の持ち込みができなかったらしい。だが企画部も会社首脳も、作品内容と監督の相性は見極めたはずだ。三隅監督は前出のような性格の作品群の出来栄えを評価されて、その後もそういった傾向の作品に指名され続けたのだろう。三隅研次作品は、日陰者や虐げられた人間に対する温かみが感じられるという評価があるのは、三隅監督の生い立ちや熾烈な体験と無関係ではないはずだ。
三隅監督と撮影所
またこういった傑作群は大映という撮影所システムによって製作されたものだ。後年の必殺シリーズなどの傑作も、京都映画という撮影所システムで作られた。「映画監督三隅研次─密やかな革新」によると、大映時代の三隅監督は内藤昭という美術監督と密接に相談・打ち合わせをしていたという。内藤昭を三隅研次の参謀とすら書いた資料もあった。撮影所とテレビ番組制作会社と最も違うところは美術だと言っても過言ではない。
私自身も監督になってから、美術監督の太田誠一さんに随分助けてもらった。太田さんも大映出身だった。スタッフとの打ち合わせの前に、必ず太田さんと打ち合わせをした。太田さんは台本の設定にあまり拘らなかった。曰く、「このシーンは座敷と書いてあるが、板の間にした方面白いんと違うか?逆光を使って遊べるやろう」。曰く、「神社は面白くないな。荒れ寺にしょうか。オープンの仕舞屋の板屋根を草ボウボウの瓦屋根にして、手前に半分崩れた土塀を置いたら荒れ果てた古寺になるやろう。そのかわり切り返しはなしやぞ。一方押しで撮るんや」等々。太田さんのおかげで、私のイメージもどんどん膨らんでいった。
スタジオやオープンセットを縦横に使え、そこにイメージ通りの、いやイメージ以上のセットを創ってくれる美術監督と職人たちの存在は、撮影所以外では望めないものだった。三隅監督は他の監督に比べても、撮影所の美術やその他のシステムをかなり上手に利用してきたのではないだろうか。
先ほど披露した俳優さんに対するエピソードは、三隅監督の強者に対するレジスタンスであると同時に、自らを育ててくれた古き良き撮影所システムや秩序を破壊する者たちに対する、強烈なしっぺ返しと受け取るのは見当違いだろうか?三隅研次という人は単に意地悪やイジメでそんなことをするとは思えないのだ。
断っておくが、私は藤田まことや山村聰が横暴だったとか撮影所システムを破壊しようとしたと言う積りはない。ただあの時代、相対的に撮影所スタッフよりも俳優さん、あるいは俳優所属事務所の力が強くなったことは事実だ。それが撮影現場の秩序やリズムを歪めてきていたのも事実だった。監督を核とした撮影所のモノ創りのシステムも崩壊しつつあったと思う。その象徴的な出来事が、大映の倒産だったのだ。先ほどのエピソードはそういった潮流に対する三隅監督の悲しみの表現だったような気がするのだ。
早すぎる死
1975年、三隅監督は「必殺仕置屋稼業」の撮影中に倒れた。肝臓がんだった。そして同年9月24日に亡くなった。54歳だった。あまりにも若くしての死だった。その報を聞いた勝新太郎は、悲しみのあまり大暴れしてホテルの部屋を無茶苦茶にしてしまったそうだ。私が助監督になったのが1973年3月だから、わずか2年半しか同じ映画界にいなかったことになる。作品的にもほんの数本の付き合いでしかなかった。もっともっと長生きして頂いて、いろいろ教えを請いたかった。
【Episode9】The End
※【Episode10】は来週水曜日投稿予定
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