Episode10】
      松竹消防隊奮戦記 

           その1

 

火事と喧嘩?は撮影所の華

撮影所に火事は付き物だ。どこの撮影所も何度か火災を経験している。何故か?オープンセットもステージの中のセットも、ほとんどが木と紙で出来ているからだ。撮影所中に大量の燃料が置いてあると言っても過言ではない。

さらにタバコだ。昭和の時代はタバコの喫煙率が高かった。活動屋の喫煙率はさらに高かった。撮影所の中はセットでもオープンセットでもタバコは自由に吸えた。本番中に火の付いたタバコを持ったまま撮影している監督やキャメラマンもいたくらいだ。灰皿はあったが、平気で地面に捨てていた。ひどいのになると、タバコをセットの畳にこすり付けて消すスタッフもいたくらいだ。

また、エアコンが行きわたっていなかったので、冬場はガンガンと呼ばれるもので暖をとっていた。ガンガンとは石油缶に空気取りの穴をあけ、中に炭を入れて火を熾したものだ。それが撮影中のステージの中やオープンセットには数個置かれていた。ガンガンからは炭が爆ぜて火花が飛んでいた。近づきすぎて衣装の袴を焦がす俳優もよくいた。

撮影にも火をよく使った。ナイトシーンになると、燭台のロウソクやひょうそくの灯芯などは付き物だ。百姓家や宿屋では、囲炉裏の火が雰囲気がでるのでよく使われた。かまどの火は台所では欠かせない。城中や武家屋敷では篝火。一揆や戦闘シーンでは、火を点けた無数の松明を持って走りまわるありさまだった。
 このように、撮影所は膨大な発火しやすい燃料と、無数の火種を抱えていたわけだ。事実、私が撮影所にいた15年の間でも、3度の火事を経験した。 

 

スタジオが真っ黒に

一回目は「必殺仕置屋稼業」に付いている時だったから、1975年だった。私は助監督のセカンドだったと思う。前夜、夜中の2時頃までセット撮影して帰宅していた。これ自体が普通の感覚では異常なことだ。東映では組合との協定でセット撮影は10時までとなっていた。京都映画は組合がなかったので、残業は無制限だった。今なら速攻で労働基準監督署の査察の対象となるところだ。

翌朝9時半頃、眠い目を擦りながら出所した。「出所」とは刑務所から出てきたような表現だが、撮影所に出勤してきたのだから出所で間違いない。バス通りから北門に近づくと、門内の製作部の建物と第3ステージの間から赤色灯がクルクル回るのが見えた。大きな赤い車体も見える。ボーッと回らない頭で考えた。「撮影のために消防車に来てもらったのかな?でも、そんな作品入っていたか?」。

やがて第3ステージの横まで来た。地面のアスファルトが濡れている。ちょっと焦げ臭い。何となく違和感を感じたが、そのまま第3ステージの入り口が見えるところまできた。「ゲ!なんだこりゃ!?」。ステージの巨大な鉄の扉がグニャリと曲がっている。色も煤で真っ黒だ。鉄扉だけではない。周囲のコンクリ―トの外壁も真っ黒になっている。いっぺんに目が覚めた。「ス、ステージが燃えた!?」。周囲は消防士がまだ物々しく動き廻っている。恐る恐るステージの中を覗き込んだ。天井は焼け落ち、内部はすべてが真っ黒な炭になっていた。

 

「原因は”〇〇やん”のタバコやで」

 第3ステージの有様を見てすぐに、「原因はタバコの火だ」と思った。それほどその頃の撮影所はタバコの火の処理が杜撰だった。野放しと言っても良いかもしれない。「出所」して来たスタッフたちも「タバコの火やで」と囁き合っていた。「”〇〇やん”やな。”〇〇やん”のタバコが原因や」。そう決めつける声も聞こえた。”〇〇やん”とは日頃から、タバコのポイ捨てが目に余るスタッフだった。畳に擦り付けて火を消していたというのは、この”〇〇やん”だった。「”〇〇やん”は消防と警察の取り調べを受けているらしいで」。そんなデマがまことしやかに流れた。”〇〇やん”当人は、生きた心地がしなかったに違いない。

 

窯場の火が出火原因

やがて出火原因が特定された。実は燃えた第3ステージは、前夜2時頃まで私たちが撮影していたステージだった。ここには「必殺仕置屋稼業」のレギュラーセットが組まれていた。銭湯「松の湯」の窯場だ。窯番捨三(渡辺篤史)の職場で、必殺メンバー中村主水(藤田まこと)・市松(沖雅也)・印玄(新克利)・捨三などが全員集合する場所だ。窯場だから焚口がある。そこには常に火が焚かれている。いや、むしろその火が一番の狙いのセットだった。

前夜私たちの組はそのセットで、3~4時間撮影したと思う。当然窯でボウボウ火を燃やした。悪いことに、その後もう一組窯場の撮影が入っていた。その頃「必殺仕置屋稼業」は放送に追われていて、そのためAB班2組で並行撮影していた。そのもう一班が私たちの後、撮影したのだ。4時半頃まで盛んに火を焚いて撮影したらしい。

消防署の見立てでは、長時間窯で火を焚いたため、土作りの窯の裏に火が回って木材が燃え、火事になったらしい。撮影終了後、鉄の大きな扉を締め切ったので、中は燻製状態になったということだ。天井は焼け落ちたが、頑丈なコンクリートの外壁は残った。

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1975年当時の京都映画撮影所略図

 

出火直後に撮影!?

さて、出火当日に戻ろう。その日の私たちの組の撮影予定は、焼け爛れた第3セット前にあるオープンセットだった。「あー、こんな状態では撮影はできへんな。今日は中止やな」とスタッフは言い合っていた。10時ジャスト。所内放送が始まった。製作進行鈴木のマーちゃん(政喜)の声だ。「△△組△△組……」。その後は当然、「都合により本日の撮影は中止致します」というアナウンスが続くと思っていた。マーちゃんが言った。「只今よりオープンセットの撮影を開始します」。ナ、ナニ!撮影する!?火事を出したその日に、撮影!?「非常識な」。スタッフの多くはそう思った.

だが、その思いがもっと強くなったのは、撮影が始まってからだ。割り切れぬ気持ちでスタッフはオープンセットに向かった。第3ステージの前を通る。まだ消防や警察の現場検証が続いており、消防の後始末も行われていた。第3ステージから50メートルぐらい離れた所が撮影場所だった。最初のシーンの段取りが終わり、最初のカットのテストも終わって、「次本番」となった。

耳を澄ますと消防や警察の作業音が聞こえる。助監督チーフが録音技師に訊いた「音、大丈夫?」。録音部の答えは「ダメ」だった。セリフを録ると、作業音も入ってしまうというのだ。「これはアフレコか?」と思った。アフレコとは撮影現場で音声を録らずに、後で編集されたフイルムに合わせて声を録音する作業をいう。チーフはアフレコにしても良いか、製作主任渡辺寿男さんにお伺いをたてる。渡辺さんはシンクロで録って欲しいという。出演俳優のスケジュールの都合で、アフレコする時間がないというのだ。

 

現場検証中の消防・警察に「ホンバーン」

「どうする?」。みんなの視線が製作進行の鈴木のマーちゃんに集まる。「マーちゃん頼むわ」とチーフ。「しゃーないな」と顔をしかめる鈴木さん。私に「来い」という。「えー、俺も!」。まー、手が空いているのはセカンドの私ぐらいしかいないのは確かだ。マーちゃんと私は第3ステージ前に向かった。「泣きや、泣きやなもー」と口癖が出て首を振るマーちゃん。だが、言葉とは裏腹に表情はさほど深刻ではない。むしろ飄々としている。

消防と警察の指揮者らしき人に近づいた。「スンマヘンナー、本番行きたいんですわ。申し訳ないんでっけど、ほんのちょっとだけ喋ったり音を立てんようにお願いできまへんでっしゃろか?」と、マーちゃん。何を言い出すのかという表情の消防と警察。前代未聞の話だったろう。火事を出した側が現場検証中の消防と警察に、「音を立てるな」「しゃべるな」「動くな」と言ったのだ。怒鳴られるのではないかと思った。一瞬の沈黙。消防の指揮官が言った。「おい、本番らしいぞ。ちょっとだけ音出すなよ」。「スンマヘンナー、ありがとうございます」言いながら、マーちゃんが後ろ手で私に合図する。すかさず「ホンバーン!」と、現場に向かって叫ぶ私。様子を見ていたチーフが「本番!」と叫ぶ。「よーい、スタート!」。サードがカチンコを打った。芝居が始まる。こうして無事?シンクロで撮影が始まった。

 

効いた日頃のお付き合い

後はなし崩しだった。そのまま、現場で「本番!」の声が掛かると、私が消防と警察に「本番いきまーす。宜しくお願いしまーす」と声を掛ける。さすが訓練が行き届いた消防と警察だ。ピタと音が止まる。こうして午前中のオープンセット撮影は10カットほど何とか撮り終えることができた。

撮影終了後、私たちは「ホンマに、活動屋は常識がない」と嘆いた。後で分かったことだが、鈴木さんは近所にある太秦警察署や太秦消防署に、松竹のカレンダーや松竹直営映画館の招待券を持って、頻繁に挨拶に行っていたとういう。そんな日頃の付き合いが功を奏したのかもしれない。お付き合いは大切だ。

 

伝説の活動屋マーちゃん
 余談だが、製作進行の鈴木政喜さん、愛称「マーちゃん」は伝説の活動屋だ。元は松竹の俳優さんだったらしい。乗馬が得意だった。乗馬の吹替はいつも鈴木さんだった。武士の衣装を着け、かつらと笠をかぶり、刀を差して馬で疾駆する姿はカッコ良かった。博奕好きで遊び人だったが、スタッフ思いだった。

残業続きでスタッフが疲れてくると、豪華な夜食を用意してくれた。私の娘たちは「志津屋」のサンドイッチや嵐山「廣川」のウナギ弁当を持って帰ると、歓声を挙げた。夏場はアイスを現場に届けてくれた。口癖は「泣きや」。競馬でスッても「泣きや」。スタッフにたかられても「泣きや」。謝りに行くときも「泣きや」。

京都中に顔が利いた。危ない場所のロケでも電話1本でOKになった。1984年、鈴木のマーちゃんを主人公に朝日放送でテレビ番組が作られ、放送された。タイトルは「映画を喰った男」。タイトル通りの面も無きにしもあらずだったが、京都映画の名物男だった。

 

「火事やー!」

 さて、二度目の火事だ。どの作品の時だったか忘れたが、たしか撮影が午前中で終わった日だったと思う。私たちは装飾部の部屋で昼間から飲んでいた。装飾部というのは一般には小道具さんと言われている部署だ。装飾の玉井さんは広島の大先輩で、日頃からお世話になっていた。稲川さんという大御所もいた。助監督の下っ端は小道具担当なので、装飾部とコミュニケーションを密にしておくことが仕事を円滑にするコツでもあったのだ。

先輩の昔話などを拝聴している時に、「火事や!」という叫び声が聞こえた。慌てて表に飛び出した。南のオープンセット辺りから煙が上がっていた。えらいこちゃ!

 

                    To Be Continued  

※【Episode10】後編は来週水曜日にアップ予定