Episode11】
 テレビドラマ企画の
      信じられない決定法

その1

東通企画と年棒契約

私が大阪のテレビ番組制作会社「東通企画」の契約になったのは1989年、41歳の時だった。その9年前に京都映画で監督に昇格した。2時間ドラマ1本と1時間の連続時代劇を20数本演出したが、時代劇が激減したために京都映画を離れざるを得なくなった。その後2~3年はフリーで活動していた。フリーになると確かに収入は増えた。だが、仕事のマネジメントを自分でしなくてはいけない。これが結構面倒だった。仕事を受けてそのギャラを決め、さらに他の仕事とやりくりしてスケジュールが決まると、それで仕事の半分は終わったような気持ちになってしまうのだ。

「これではダメだ。作ることに集中しなくては」。そう思っていたところに、東通企画から「年棒契約をしないか?」と持ち掛けられた。東通企画はテレビ技術会社大阪東通と大阪の民放5社とが出資するテレビ番組制作会社だ(大阪東通、毎日放送MBS、朝日放送ABCの出資額が多かった)。バラエティや取材番組が主体だが、2時間ドラマも年間数本制作していた。ドラマの監督はほとんど外部発注で、社内にドラマ監督のできる演出家は東京支社に1人いるだけだという。過去に一緒に仕事をしたり、松竹芸能時代から仲の良かった社員も結構いた。社長も総務担当専務も顔見知りだった。条件も合ったので契約した。

 

「企画を手伝ってくれへんか」

契約してしばらくすると、藤原裕之さんという専務が私に声を掛けてきた。「皆元ちゃん、土曜ワイド劇場の企画を作るのを手伝ってくれんかな」。藤原さんはABCと2時間ドラマ「土曜ワイド劇場」「火曜スーパーワイド(1990年4月から「火曜ミステリー劇場」)」を担当しているプロデューサー(以下P)だった。

二人で近所の喫茶店で企画会議をした。藤原さんによると、ロケ場所は北海道南部、主演は〇〇、脚本は✖✖、監督は△△、それだけは決まっているという。二人でアイデアを出し合って、4時間ほどでストーリーの大まかな骨組みを作り上げた。だが、ミステリードラマの肝である犯罪トリックまではできなかった。私が持ち帰ってトリックを考え、全体をまとめることになった。

ああでもないこうでもないと考え、資料をあたったりして、なんとかトリックを作り上げた。ちょっと強引だが、犯人がアリバイ作りのため、北海道渡島半島南東端の亀田半島から青森県下北半島の大間崎まで、津軽海峡をハングぐライダーで横断するというものだった。ハングぐライダーは以前時代劇でも使ったことがある。調べた限りでは、条件さえ整えば不可能ではなかった。骨組みだけだったスト―リーを肉付けし、企画書の体裁を整えた。

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当時の藤原裕之プロデューサーのスナップ

 

一発で企画が通った!

数日後、企画書を藤原Pに渡した。藤原Pは一読して言った。「OKABCに渡してくる」「え、直しは?」「このままで大丈夫や。ありがとう」と、そのままABCに行ってしまった。「どうせABCがいろいろ注文を付けて、直せと言うてくるやろ」。そう思っていた。

翌日、藤原Pに結果を聞く。「企画は通った。2週間後、北海道にシナハンに行く」という。驚いた。数千万の予算を掛ける2時間ドラマの企画だ。当然、何回か直しがあるものと覚悟していた。「なんと簡単に決まるもんだなー」と思った。ちなみにシナハンとはシナリオハンティングの略。シナリオ作成に先立って制作テレビ局や制作会社のP、それにシナリオライターが設定された現地に足を運び、ロケ地のイメージを共有し、何処をドラマの舞台にするかやストーリーをどう組み立てるのかなどを現地調査する作業のことだ。

 

オレのストーリー・トリックが影も形も無い!

1ヵ月半ほどしてそのドラマの準備稿が出来上がった。さっそく読んでみた。「ゲッ」。驚いた。私が書いた企画書の、トリックはおろかスト―リーさえもが、欠片もなかった。場所は北海道南部で俳優も同じだが、全く違うストーリーになっていた。「いったいどういうことなのか?私が書いた企画書は通ったのではなかったのか?」。藤原Pに問い質した。藤原Pが言った。「シナハンの後、関係者で話し合ったらああなった。すまんな」。釈然としなかった。企画は通ったので、企画書の目的は果たしたのだが、メッチャ気色が悪かった。数年後、そのカラクリが分かった。

 

ABCドラマ仲良しクラブ

その後、私はABC・東通企画制作の「火曜ミステリー劇場」や「土曜ワイド劇場」をそれぞれ数本監督した。1991年に「火曜ミステリー劇場」の枠は終了したので、それ以後はABC制作の2時間ドラマは「土曜ワイド劇場」だけとなった。そしてその少なくなった枠の殆どは、固定された松竹、松竹芸能、テレパック、スタッフ・アズバーズなどの限られた制作会社で占められていた。東通企画もその内の一社だった。

一方、ABCのドラマ部門は制作局長のY氏をトップに5~6人のPがいた。Y局長はそれまでに数々のヒットドラマを立ち上げていて、「テレビドラマの神様」と云われていた。その企画力はずば抜けており、カリスマ的な制作局長として君臨していた。「必殺シリーズ」などで活躍した松本明さんや大熊邦也さんは、企画力も演出力も優れた人材だったが、反骨精神が旺盛だったためか、東京支社や子会社に行かされY局長から遠ざけられているという噂だった。従って、そのころのABCドラマは厳しい言い方をすれば、Y局長の信奉者やイエスマンPと固定した出入り業者の仲良しクラブになっていたのだ。Y局長が昇進すると、出入り業者たちは金を出し合って、共同でお祝いの品を届けていた。

 

観光旅行のようなシナハン

Y局長は局長でありながら、しばしば二時間ドラマのシナハンに同行した。それは聞くところによると、部下のPが「局長、次のロケ地は局長の好きな〇〇温泉と△△の焼き物がありますねん。シナハンに同行してくれまへんか」などと言って誘うからということだった。むろん制作会社に異存はない。ドラマに関してはY局長の意向がすべてだったから、シナハンは接待の絶好の機会だったのだ。

ここからは私が土曜ワイド劇場のシナハンに同行して体験した話だ。土曜ワイドのシナハンには通常監督は行かないが、何故かこの時は同行することになった。私にとっては初めてのシナハンだった。メンバーはABCY局長、担当PのT氏、東通企画の藤原P、担当PのH氏、監督の私、脚本家の中村勝行氏だ。

シナハンの場所は山形県。Y局長もT氏も大好きな秘湯を含め、温泉が最大の売りものの県だ。県内の全市町村に温泉が湧出しているらしい。作品はシリーズ化されていた「花吹雪女スリ三姉妹」シリーズの第7弾目だった。私は第5弾目から担当していた。シリーズ化されているので、作品のテイストや三姉妹のキャラクターはすでに確定していた。いわゆる「旅情サスペンス」というジャンルの作品だ。従って、シナハンで決めなければいけないのは、山形の名所・観光地などをどう利用して、どんな事件を起こし、それをどこでどう解決していくかだった。私は名所や有名観光地で、メンバーがいろいろとシナリオのアイデアを出し合うものと思っていた。

だが、シナハンは観光旅行のようなものだった。ただただ、各地の名所を巡り、お土産を買い、有名旅館やホテルに宿泊し、豪華名物料理を味わった。もちろん経費は制作会社の東通企画持ちだ。その間、目的であるはずの次回ドラマの話はほとんどなかった。

ホテルでの夕食はY局長の様々な蘊蓄話や中村勝行さんの体験談で盛り上がった。特にその時の勝行さんの話は面白かった。「木枯らし紋次郎」で兄の中村敦夫さんが人気俳優になった後、製作会社の映像京都ぐるみで映画製作詐欺の片棒を担がされた話。「必殺シリーズ」で脚本家たちが宿泊していた「かんのんホテル」での荒唐無稽な裏話等々。いずれ、このブログでも紹介したいような興味深い話だった。だが、私は居心地の悪い思いを捨て切れなかった。藤原Pに「こんなんで大丈夫なん?」と訊いても、「ええねん、ええねん」という返事が返って来るばかりだった。

「これでいいのか?」と思いながら、とうとうシナハン最後の日の夕食となった。その夕食もアルコールが入り他愛ない話で終始した。「何時ドラマの話をするねん」と焦っていた。

         To Be Continued

※続編は来週水曜日に投稿予定