【Episode11】
テレビドラマ企画の
信じられない決定法
その2
前号からの続き
土曜ワイド劇「花吹雪女スリ三姉妹」のシナリオハンティング。メンバーはABCのY局長、担当プロデューサー(以下P)T氏、東通企画・藤原P、担当PのH氏、監督の私、脚本家の中村勝行氏だ。シナハンは観光旅行のようなものだった。各地の名所を巡り、お土産を買い、有名旅館やホテルに宿泊し、豪華名物料理を味わった。その間ドラマの話はほとんどなかったと思う。「これでいいのか?」と思いながら、シナハン最後の日の夕食となった。アルコールが入り他愛ない話で終始した。「何時ドラマの話をするねん」と思った。
Y局長待ちのシナハン
夕食後、「コーヒーでも飲みましょか?」そう藤原Pが誘った。全員がぞろぞろと喫茶ルームに移った。みんなが飲み物を注文した。美人女将が挨拶し、Y局長は機嫌よく応えた。皆が配られた飲み物を一口すすった。その時、Y局長が口を開いた。
「今度の『三姉妹』は〇〇がテーマやな。大ワルを△△(職業)にしたらええんと違うか」。「やっと来た!」。そこから、Y局長は番組の一番肝となる部分を語り始めた。事件の発端と概要、三姉妹たちの事件とのかかわり、そして展開。それからPたちや、中村勝行氏がY局長の発言に沿って意見を出し始める。どんどん話が膨らんでいく。全員が局長の一言を待っていたのだ。
いや、私が知らないだけで、仲良しクラブのメンバー全員はシナハンの間、Y局長のイメージが膨らみ固まるのを邪魔しないように待っていたのかもしれない。勝行さんも「必殺シリーズ」以来のメンバーで、Y局長とは旧知の仲だった。こうして、2時間ほどでストーリーの大筋が出来上がった。これを基に勝行さんがまとめて台本が出来上がるということになる。

山形県・山寺シナハン中の脚本家中村勝行さん(左)と筆者
シナハン=受注契約成立
その時に気が付いた。シナハンに行くというのが、ABCの2時間ドラマ発注の実質的な契約成立なのだ(後に私自身がPになって分かったことだが、正式な契約書は早くても撮影直前、遅ければ撮影終了後に交わしていた)。そして、先述の私が書いた「企画書」の提出が、シナハンに行くための儀式だったのだ。
新規作品の場合はこいう段取りだ。まずABCの担当Pと制作会社(固定された5~6社)のPとで、「次の土曜ワイド劇場はロケ地〇〇で、主演俳優は誰々で」と決めておく。だが、テーマやストーリーは局長がシナハンで考えるといっても、さすがにどんな内容なのかまったく何も無しでシナハンに行くのはまずい。そこで、決めたロケ地と主演俳優を入れ込んだ仮のストーリーを作って、形式的な企画書を提出するのだ。それでシナハン行きがOKとなる。それが私が書いた企画書だったのだ。結構苦労して書いたのだが、多分ABCの担当Pは読んでもいなかったのだろう。考えてみれば、私の数日間の苦労が数千万の仕事の実質的な契約書になったのだから、会社的には役に立ったのだろう。
もちろん、ABC制作の土曜ワイド作品のすべてがこういった段取りを踏んだわけではない。キッチリと企画書を作ってシナハンに臨んだ作品も多かったに違いない。私が監督をした作品の中でも、東京が舞台の「新宿ラブストーリー事件簿」などはシナハンをしなかったし、ストーリーも私と藤原Pが作った企画書から大筋を外れずに執筆された。Y氏も取締役になってからは、そうそうシナハンに付き合う時間は取れなくなったと思う。
シリーズ作品の継続手続きは?
また、シリーズ作品を継続するかどうかの決定はこういう段取りだった。東通企画と契約して10年経ったころ、私は土曜ワイド劇場の監督とプロデューサーを兼ねることになった。それまで「土曜ワイド劇場」のPを務めていた藤原Pともう一人のH氏が退社し、社内にドラマPがいなくなったのだ。それで、ABCから来た北條副社長が友人の松本明さんに東通企画のPをお願いすることになった。松本さんは数年前にABCを定年退職したベテランPだった。松本さんとそれまでMBS担当だった上川栄氏、それに私が監督を兼ねてPを務めることになった(作品タイトルでは私は監督のみ)。
その時は、過去6話制作していた「女スリ三姉妹シリーズ」を、メンバーをがらりと変えて、主演萬田久子でリニューアルした作品に取り掛かった時だった。当時、ABCのY氏は専務となっていたので、さすがにシナハンに同行することはなくなっていた。
「花吹雪美人スリ三姉妹シリーズ」リニューアル第一弾は無事に完成した。出来上がりもまずまずだったと思う。

「花吹雪美人スリ三姉妹」ロケ風景写真。右から2人目は三女花代役・辺見えみり、
3人目は長女星江役・萬田久子、4人目は筆者、5人目は次女月子役・杉本彩。
裏番組視聴率60.9%!三姉妹の運命は?
放送は1998年6月20日だった。なんとこの日は、FIFAワールドカップの日本代表対クロアチア戦とぶつかっていた。日本代表が初めてワールドカップに出場を果たした第二戦だったのだ。放送時間は22分ずれただけでバッチリかぶっていた。最悪だった。
放送2日後月曜日の午前中に視聴率が出た。当然、「美人スリ三姉妹」は土曜ワイド劇場としては極めて悪い数字だった(数字は覚えていないが)。同時刻のNHKのワールドカップ中継は60.9%。その年の年間最高視聴率を稼いでいた。
悪い結果だったが、直ちにABCに挨拶に行かなければならない。こういうときには、数百メートルというABCとの距離の近さが恨めしい。私と松本Pそれに北條副社長はABC本社に向かった。テレビ制作部で担当Pや幹部たちに視聴率が良くないことを詫びた。彼らは「ワールドカップとぶつかったからね」と同情してくれた。だが、一切「美人スリ三姉妹」の評価は口にしなかった。Y氏が評価を下すまで、遠慮していたのは私にも分かった。
すると、昼前に役員室からY専務が降りて来た。「メシ行こか」というお誘いで一同が近くの和食屋に向かう。昼食を頂きながら(この時はABCの奢りだ)、Y専務の評価を拝聴する。緊張の一瞬だ。「ワールドカップとぶつかった割には健闘したんと違うか。60.9%取られたにしては立派な視聴率やで。同時間帯で2位やしな」。数字的にはなんとかセーフのようだ。内容の評価はどうか?「おもろかったで。ああいう罪のないドラマもええんちゃうか」。気に入ってもらったようだ。すぐに第2弾の話になった。私たちは安堵の胸をなでおろす。これで、「美人スリ三姉妹」リニューアル第2弾の実質的な契約成立だ。
「ピカレスクロマンは難しい」って……
シリーズの打ち切りも経験した。萬田久子主演「花吹雪美人スリ三姉妹シリーズ」第三弾が2000年8月19日に放映された。視聴率は良くもなく悪くもないという結果だった。作品そのものはコメディタッチのシリーズとして楽しく見れる悪くない出来だったと思う。いつものように視聴率が出た後、3人でABCに向かった。テレビ制作での反応は悪いものではなかった。「面白かった」という意見が多かった。例によって、昼前にY専務が役員室から降りて来て「メシ行こか」となった。例の和食屋で定食を食べながら、OAされたばかりの「美人スリ三姉妹Ⅲ」の話で盛り上がった。
当然私はその後、4弾目の話がY専務の口から出るものと思っていた。話の途中でいきなりY専務が言った。「やっぱり、ピカレスクロマンは難しいな」。一瞬、意味が分からなかった。もちろん「ピカレスクロマン」の意味は知っている。悪人が活躍する物語のことだ。Y専務が手掛けた殺し屋が主人公の「必殺シリーズ」はその最たるものだ。Y専務は何を言いたいのか?
「スリは犯罪やからな。人助けの為とはいえ、犯罪者が主人公のドラマは無理があるやろう」。信じられない言葉だった。しかし、誰にも反論出来ない。まさか、「あんた、必殺シリーズを創った張本人と違うんか!」とはいえない。
「三姉妹」から「眼科医」へ
Y専務は続けていう。「わしな、こないだK医大で緑内障の手術を受けたんや。担当医が京大出の女医でな、その道の権威や。眼科医て面白いで。ものすごく守備範囲が広いねん。糖尿病やらなんやら一発で当てよるしな。次は萬田久子を眼科医にしたらどうや」。
私としては「美人スリ三姉妹」に手ごたえを感じていた。バカバカしい内容だが、突き抜ければ新しい世界が見えてきそうだった。その可能性は感じていた。スタッフやキャストのチームワークも大変よかった。みんなが乗っていた。松本明Pもそうだったと思う。だが、ABC代表取締役専務であり「テレビドラマの神様」と言われているY専務の言葉には逆らえなかった。Y専務の一言で、「花吹雪美人スリ三姉妹」は「眼科医小室瞳の推理カルテ」に企画変えした。
何故、急にY専務は「ピカレスクロマンは難しい」と言い出したのか?これは穿った見方かもしれないが、実はそのころY専務は次期ABC社長の目が現実的となっていた。そういう時期にテレビ朝日辺りから「犯罪者が主人公のドラマは如何なものか?」という話が出てきたとすればどうだろうか?それまでのY氏なら、一蹴していただろうが、立場上無視できない微妙な時期に差し掛かっていたのかもしれない。まったく、下衆の勘繰りデスが……。
強気のABC
さて、こういった企画の成立の仕方が許されていたのは、当時の二時間ドラマの中で「旅情サスペンス(ミステリー)」ものが結構高い視聴率を稼いでいたことと、そのなかでも、ABC制作の「旅情サスペンス(ミステリー)」がテレビ朝日よりも視聴率が良かったからと思われる。それを支えているのがY氏だった。私はY氏の部下であり土曜ワイドチーフPのT氏が電話でテレビ朝日の土曜ワイド責任者と話しているのを聞いたことがある。彼はテレ朝に対して一歩も引くことなく、ABCの立場をはっきりと主張していた。むしろ「大丈夫なのか?」と心配するほど、強気な態度を取っていた。当時はまだ、ABCには「テレ朝何するものぞ!」という雰囲気が漂っていたのだ。
Y氏はドラマの神様
シナハンや打ち合わせでY氏の紡ぎ出す設定やストーリー展開はさすがに的確だった。ロケ地の特徴を生かし、主演俳優の長所と欠点を的確に把握し、時代の流行や趨勢も敏感に加味したものだった。それだけではなく、Y氏は人の意見を否定しなかった。他の意見の良いところを膨らましていくのだ。
ABCではラジオがキャリアの最初だったらしいが、テレビ制作に移ってから、ヒット作を連発した。「助左衛門4代記」「豆腐屋の四季」「天皇の世紀」「お荷物小荷物」「必殺シリーズ」「ザ・ハングマン」「京都殺人案内シリーズ」「額田女王」等々。当時のABCドラマの勢いは、Y氏の企画力無しには成立しなかった。それほどの人だった。まさしく「ドラマの神様」だった。
ABCの凋落
だが、その勢いは凋落の時を迎えることになる。2001年夏。「眼科医小室瞳の推理カルテ」第一弾の撮影を和歌山県の龍神温泉から始めた。そのロケ地にY専務が視察に来た。ABC関係者も数人同行した。東通企画の社長と副社長も来た。噂ではY専務の龍神温泉滞在中に次期ABC社長就任の知らせが届くことになっていた。なんでも朝日新聞、テレビ朝日、ABCの各社長が一緒にイタリア旅行しており、その話し合いでABC社長が決定されるということらしかった。Y専務は主演の萬田久子にも声を掛け、機嫌よくロケを視察していた。
上御殿という老舗旅館の表での撮影中、急にY専務一行が現場を後にした。イタリアから電話連絡があったらしい。我々は次期社長就任の知らせがあったものとばかり思っていた。翌日、松本明さんが「どうもY専務は社長になれなかったらしい」という知らせをもたらした。
ABCの規定によると、当時社長以外の役員の定年は69歳だったらしい。Y専務はその年の11月に70歳を迎える。事実、2001年11月、Y専務はあっけなくABCを退任した。それから、ABCドラマの衰退は早かった。Y氏の子飼いとも言える土曜ワイドチーフPのT氏はテレビ制作部からいなくなった。
瞬く間にテレビ朝日との力関係が変わった。土曜ワイド劇場の新規企画や企画の継続はテレビ朝日の同意が必要になった。ABCの土曜ワイドPたちはひたすらテレビ朝日の顔色を窺うようになった。テレ朝によるABC企画のパクリも横行した。ABC制作土曜ワイドの人気番組の主演俳優で同じようなコンセプトやテイストの連ドラがテレ朝・東映制作で作られるのだ。東映はテレ朝の大株主だ。2007年からは「必殺シリーズ」すらもテレ朝主導で制作されるようになった。制作会社も半期に一度、テレビ朝日で行われる「土曜ワイド反省会」に出席を求められた。そこでの会議内容は、ひたすら視聴率・視聴率・視聴率だった。テレビ朝日に物申すような気骨のあるABCのプロデューサーはいなくなった。その傾向はドラマ以外にも及んだ。いまや、ABC自体がテレ朝の子会社と化した印象すら受ける。Y氏の退任はテレ朝のABC支配の陰謀ではなかったのかと思えてくるのは疑い過ぎなのだろうか。
このEpisodeを書き始めた時は、「こんな企画の決め方でいいのか?」という感じで書こうと思っていたのだが、最近のABCの凋落ぶりまで書いてくると、妙にその頃が懐かしくなってきた。確かにあの当時は、いい加減なこともいっぱいあった。Y氏頼みで情けないところもあった。だが、少なくともABCと制作会社の関係は、今のようなギスギスした感じではなかった。「仲良しクラブ」がある意味協力しあいながら競い合っていた。自分の守備範囲を守って、よその企画にちょっかいを入れることはなかった。ABCのグリップもしっかり効いていた。それはたぶん、「仲良しクラブ」のほぼ全員がY氏のプロデューサーとしての力を認め、尊敬していたからではないだろうか。色々やりたいことは有るが、この人の言うことを聞いておけば間違いないという安心感もあった。また、ABCは制作会社の面倒もみてくれた。失敗しても次のチャンスを与えてくれたのだ。
勿論こういう絶対的カリスマを中心にした「仲良しクラブ」は、ABC内外に弊害を振りまいていた部分もあったに違いない。Y氏退任の後のABCの凋落はその象徴だと思う。だが、ABCドラマはテレビ界で確かに一時代を築いたのだ。Y氏というカリスマPを中心として。彼はまさしく「ドラマの神様」だった。
【Episode11】The End
※【Episode12】は来週水曜日に投稿予定
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