【Episode12】
助監督になる
その1
「成り行きで」助監督に
ここらで私が映画界に入った経緯を語っておこう。映画界に入った動機について訊ねられることがある。大体は「成り行きで」と答えている。半分は照れだが、半分は本当にそう思っている。一直線に映画界を目指したのではないことは確かだ。
もちろん、学生時代から映画を見るのは好きだった。「俺たちに明日はない」「卒業」「イージー・ライダー」などのアメリカン・ニューシネマをよく観ていた。「総長賭博」「昭和残侠伝」「緋牡丹博徒」などの東映ヤクザ映画は、深夜映画のコーラ売りのバイトで見せてもらった。大島渚やゴダールなどの尖鋭的な映画も一通りは見に行った。難解過ぎて半分ぐらいは寝てしまっていたが。学生時代に映研の連中とも仲が良かった。だが、不思議に映画監督になりたいとは思わなかった。
ジャーナリスト志望
恥ずかしながら、小さい頃からずっとジャーナリスト=新聞記者になりたいと思っていた。恥ずかしながらというのは、書くことが得意でも好きでもないくせにということだ。実は、私を可愛がってくれた伯父夫婦が新聞販売店を営んでいた。幼いころからよく伯父の家に行っていた。そこで新聞社の社員に逢って話を聞くこともあった。いま考えれば彼らは販売部員だが、田舎にはいない知的な雰囲気があった。そんな経験を経て新聞社というものにある種の憧れを抱いていたのだ。それで新聞を作る人=新聞記者という思い込みで、ジャーナリストに憧れていたわけだ。
新聞社も放送局も全部落ちた。で……
1970年、大学4年になった。すぐに就職試験の時期がやってきた。私は成績も悪いのに新聞社や在阪テレビ局の入社試験を受けた。テレビ局はもちろん報道志望だ。ドラマなどを作る制作局は全然視野になかった。だが、全部落ちてしまった。当然の結果だ。その為の勉強をほとんどしていなかったのだから。
当時の就職最盛期は夏休み前だったが、秋になっても就職は決まらなかった。10月になると、大学の就職課に貼ってある求人広告の貼り紙も疎らになっていた。車のディーラーや住宅販売会社の求人ビラが秋風で翻る中に、ふと目に留まった一枚があった。業務内容は「テレビ番組の企画制作」とある。会社名は「松竹芸能」と書いてあった。「営業職や事務職よりはマシか」という程度の気持ちで申し込んだ。何より留年は避けたかったからだ。
筆記試験の後、道頓堀にある本社で面接を受けた。なんと大阪松竹座という映画館の地下が本社だった。大して期待もしていなかったのだが、「採用」という通知が学生寮に届いた。「モグラ生活を送るのか」と思った。

現在の大阪松竹座。歌舞伎、演劇、コンサートなどが上演されている。1971年当時は
映画館だった。この建物の地下に松竹芸能の本社があった。
「テレビ番組の企画制作」は5%
入社して驚いた。「業務内容:テレビ番組の企画制作」とは名ばかりで、実態はそれとはかけ離れた業務内容だった。確かに「テレビ番組の企画制作」も業務に含まれていた。だがそれは、多く見積もっても業務の5%ぐらいに過ぎなかった。業務のほとんどは、漫才師・落語家・俳優など所属タレントのマネジメントとテレビ・ラジオへの売り込み、角座など演芸場の企画経営、キャバレー・市民会館などへのイベント営業、三波春夫ショーなどの演劇制作で占められていた。実質は芸能マネジメント・興行会社だったのだ。「だまされた」と思ったが、後の祭りだった。
上司の愛読書はトロツキー三部作!?
私が配属されたのはテレビ部テレビ2課だった。主たる業務はテレビやラジオ番組に所属タレントを売り込むこと。課長は加藤哲也さん。松竹芸能大卒採用1期生だ。私が7期生だから6期上ということになる。同志社在学中は映画研究部に所属していたと2期先輩の堀江邦英さんが教えてくれた。堀江さんは森乃福郎担当マネージャーだ。堀江さんの加藤情報はさらに詳しく、愛読書はドイッチャーの歴史書「トロツキー3部作」だという。「ト、ト、トロツキー!?」。松竹芸能でトロツキーの名を聞くとは思わなかった。
ちなみに堀江さんは同志社の新聞学科卒だ。今度は別の先輩が囁く。「堀江は新聞学科を2番で卒業したんやで。ちなみに1番は吉本興業の木村政雄や」。木村政雄といえば、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの「横山やすし・西川きよし」のマネージャーではないか!同志社の新聞学科と言えば、同志社でも最人気学科だ。それの1番が吉本興業で2番が松竹芸能!それにトロツキー3部作が愛読書の課長!軽佻浮薄一辺倒と思っていたが、何なんなんだこの業界は!?
「これからは社員も売る」って……
しかし世の中は不思議だ。どういうわけか新入社員9名の中でただ1人、私はその数少ないテレビ番組制作を担当することになった。研修期間が開けてしばらくして、テレビ2課の会議で加藤課長が言った。「これからはタレントだけではなく社員も売る」。社員を売るって、どういうこと?「堀江、皆元」「はい」「お前ら2人は来週から関西テレビに行け。新番組のスタッフに入るんや」。2年先輩の堀江邦英さんと私が、加藤新方針の尖兵として関西テレビのスタッフとして売られたのだ。「わいわいワイド」という視聴者参加の子供番組だった。与えられた仕事は番組の企画や制作そのものではなく、毎回応募して出演する50人ほどの子供対応係だった。私と堀江さんは週2~3日関西テレビで働くことになった。

1988年頃の加藤哲也さん(右端)。ABC・松竹芸能制作ドラマ
「いい話みつけ旅」完成パーティ。右から2人目が主演の黒澤年雄、
3番目が筆者、4番目がABC仲川利久P。
「新番頭はんと丁稚どん」のAPに
「わいわいワイド」は制作スタッフとしては生煮えの仕事だったが、しばらくして本格的な番組制作の仕事が舞い込んできた。毎日放送・松竹芸能共同制作の公開コメディドラマ「新・番頭はんと丁稚どん」だ。1959~61年に放送され大ヒットした大村崑主演の「番頭はんと丁稚どん」のリメイク作品だ。勝忠男社長と加藤課長が主導して受注した番組なので、テレビ2課が担当した。私は加藤哲也・山田弘幸プロデューサー(以下P)の下でアシスタント・プロデューサー(以下AP)を務めることになった。毎日放送からはディレクター(以下D)と収録当日の技術スタッフを出すが、それ以外は全て松竹芸能がやらなければならない役割分担だった。毎日放送のアシスタント・ディレクター(以下AD)や大阪東通フロア・ディレクター(以下FD)たちは本番当日しか顔を見せないのだ。従って私はAPだけではなく、演出助手ADの仕事もしなければならなかった。
当初は演劇経験のある山田さんに教えてもらっていたが、後半は私一人でAP・AD両方の仕事をこなすようになった。台本ができるとDの意向を聞いて、ADの仕事だ。セット、小道具、衣装、メイク、カツラ、エキストラなどの打ち合わせと発注をやるのだ。
それぞれのパートのプロたちは厳しかった。最初はまともに相手をしてくれなかった。だが、逃げずに正面からぶつかった。分からないことは先輩に訊いたり調べたりして対応した。すると、しだいにプロたちが認めてくれるようになった。
本番当日は本来のAPの仕事である出演タレントの面倒もみなければならない。公開収録なのでお客さんのケアもしなければならなかった。加えてリハーサルと本番はADの仕事もあった。まったく目の回るような忙しさだった.
「デロデロ7」のAPも
さらに仕事が増えた。今度は朝日放送(ABC)との共同制作番組だ。【Episode7】でも触れた公開バラエティ「デロデロ7」だ。この番組にも私は小元直佳Pの下でAPに付くことになった。この番組の内容はこうだ。
観客を入れたABCホールの舞台に1~7の番号を付けたハコを設置し、その中にゲストの歌手や松竹芸能の所属タレントを入れておく。司会者が宝くじの抽選よろしく回転する的に矢を当て、矢が射止めた番号の箱が開く。そこから出てきた歌手やタレントが持ちネタの歌や芸を披露する。放送時間内で歌や芸を披露できるのは5組だけ。残り2組は芸が披露できずに悔しがる。実はお客さんには知らせていないが、射止める番号はあらかじめ決められており、裏で操作できたのだ。
この番組はゲストの歌手や芸人たちが、基本的には自分の持ち歌や持ちネタを披露するという内容なので、AD的な準備の仕事はさほどはなかった。本番当日はタレントの楽屋入りを確認し、台本の登場順にタレントを箱の中に誘導した。
「台本は全部暗記しーや」
なぜか番組顧問の香川登志夫さんに可愛がってもらった。香川登志夫さんは大ヒット番組「てなもんや三度笠」の作者として有名な放送作家だった。ある時、香川さんは私に言った。「台本は全部暗記しーや。何か訊かれたら台本を見ずに答えるんや。そしたら、みんなが信用してくれるようになる」。それ以後、私は「デロデロ7」の台本を暗記した。そのおかげか、出演タレントたちはABCや大阪東通のAD・FDにではなく、私に内容や段取りについて質問をするようになった。
毎週のように私と小元さんは香川さんに飲みに連れて行ってもらった。香川さんは必ず数軒はしごした。それもレスビアンの店とかタレントさんの店とか変わった店ばかりだった。人気漫才コンビ「唄子・啓助」の鳳啓助さんの店にも行った。どの店にも長居はしなかった。楽しく喋ってウィスキーの水割り1杯飲むと、「ごちそうさん」と1万円札を置いてスッと出た。当時だと明らかに3人分でもおつりがくる勘定だった。だが、おつりは一切受け取らない。それが香川登志夫の遊びの流儀だった。
モノ創り現場の魅力の虜に
こうして私はモノ創り現場の面白さに目覚めていった。毎日が忙しかったが、楽しかった。特に本番の緊張感が心地良かった。オープニングの音楽と観客の拍手にはゾクゾクした。出演者の「出」の合図も出した。芝居のタイミングを見計らって猛然とスモークも焚いた。舞台の袖で出演者の衣装替えを手伝った。「わいわいワイド」は視聴者参加の生放送。「新・番頭はんと丁稚どん」、「デロデロ7」はお客さんを多数入れての公開収録。失敗は許されない。その緊張感がたまらなかった。
よく見たテレビドラマ
一方、テレビも良く見るようになった。バラエティーや演芸番組ではなくドラマだ。スタジオドラマでは「人間の歌シリーズ」をよく見ていた。スイッチング(複数のカメラを切り替えながら収録する撮影方法)なのに深いナメのタイトな画を撮っていた。リハーサルを緻密に繰り返したと思われる、完成度の高いドラマだった。後に深い縁ができる近藤正臣さんや火野正平さんの演技に引き込まれた。
また、「木枯らし紋次郎」の登場は衝撃的だった。主人公のニヒルな生き様、泥臭くてリアルな殺陣、軽快な主題歌。まさに新しいドラマだった。だが、もっと驚いたのは、8カ月後に始まった「必殺仕掛人」だった。金を貰って人を殺すというアンチモラルなテーマと鋭い遊び感覚。その一方で様式美を突き詰め、光と影のコントラストを強調した画作り。マカロニウエスタン風の軽快で切ない音楽。一気に「木枯らし紋次郎」を飛び越えてしまった。
「明日からマネージャーをやれ」
良いことは続かない。1972年12月までには「新・番頭はんと丁稚どん」「デロデロ7」の番組制作は終わってしまった。しばらくして、「松竹芸能が在阪民放4社+大阪東通と共同出資してテレビ番組制作会社を作る」という噂が聞こえてきた。胸騒ぎがした。
私は直属の上司ではなくなっていたが、テレビ部次長になっていた加藤さんに訊いた。「松竹芸能がテレビ番組制作会社を作るってホンマ?」「ホンマや」「じゃ、いままでやってきたような番組制作はどうなるの?」「新しい制作会社がやることになるな。松竹芸能は制作にはタッチせーへん」「僕はその制作会社に出向させてくれるの?」「松竹芸能からは誰も出向しない」えー、そんな!「だったら、僕はこれから何をやるの?」「マネージャーやな」。ショック!ショック!!ショックー!!!
To Be
Continued
※続編は来週水曜日にアップ予定
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