【Episode12】
助監督になる
その2
はじめに
この回は昭和的な「不適切にもほどがある」表現が出て来ますが、当時の雰囲気を伝えたいと思い、敢えて書いてみました。
前号からの続き
松竹芸能に入社して2年近く経った。私はモノ創り現場の面白さに目覚めていた。その頃、「松竹芸能が在阪民放4社+大阪東通と共同出資してテレビ番組制作会社を作る」という噂が聞こえてきた。私は直属の上司ではなくなっていたが、テレビ部次長になっていた加藤哲也さんに訊いた。「松竹芸能がテレビ番組制作会社を作るってホンマ?」「ホンマや」「じゃ、いままで僕たちがやってきたような番組制作はどうなるの?」「新しい制作会社がやることになるな。松竹芸能は制作にはタッチせーへん」「僕はその制作会社に出向させてくれるの?」「松竹芸能からは誰も出向しない」えー、そんな!「だったら、僕はこれから何をやるの?」「マネージャーやな」。ショック!ショック!!ショック!!!
しばらく考えて言った。「そんなら、会社を辞めるわ。僕は制作現場の面白さを知ってしもた。そうさせたんは加藤さんです。大阪東通のAD(アシスタント・ディレクター)か撮影所の助監督の口を紹介してください」。我ながら無茶苦茶な要求だ。普通なら怒鳴られるところだ。でも、加藤さんはそれを言っても怒るような上司ではないことを、私はこの2年間で感じていた。
加藤さんが言った。「分かった。大阪東通のADは無理やな。撮影所の助監督の口は衣川と佐久間に言うとく」。衣川篤夫さんは東映京都撮影所担当、佐久間博さんは京都映画担当のマネージャーだった。ちなみに二人は、後年プロデューサーとして活躍することになるから面白い。
自由に生きさせて貰った父母に感謝!
こうして私は松竹芸能を退社することになった。広島にいる父と母には暮に帰省した時に報告した。両親は反対しなかった。私はそれまでずっと自分の道は自分で選んで来た。その選択はその都度父母に伝えた。だが、その選択について1度も反対されたことがなかった。勿論、心配はしたのだろうが。父や母には本当に自由に生きさせて貰った。応援もしてもらった。感謝している。
「東映の監督に逢おう!」
年が明けて1973年になった。大阪に戻ると関学の一年先輩の大槻道雄さんから「逢おう」と連絡があった。大槻さんは関学時代は映画研究部に所属していたが、一般の会社に就職していた。年に数度逢って食事をする仲だった。逢ったとたん、大槻さんが言った。「東映の鈴木則文監督を良く知っているという飲み屋のネーちゃんと知り合いになった。鈴木監督を紹介してくれるって言うんや。一緒に逢うてくれ」。大槻さんは映画への道を諦めずにコネを探していたらしい。果たして「飲み屋のネーちゃん」の紹介で映画監督が逢ってくれるものか疑問はあったが、チャンスを逃す手はない。OKした。
数日後、大槻さんから連絡があった。なんと!鈴木監督は、「飲み屋のネーちゃん」の紹介で私たちに逢うのをOKしてくれたという。しかも、自宅まで来いという話だ。思わぬ展開で映画関係者に逢うことになった。
鈴木則文監督と逢う
1週間後の日曜日、私と大槻さんは京都市右京区嵯峨野の鈴木監督のお宅にお邪魔した。東映京都撮影所関係者が多く住む東映住宅だった。鈴木則文監督の名は正確には「のりぶみ」と読むらしいが、撮影所では「こうぶんさん」と呼ばれていた。それまで「女番長シリーズ」や「温泉みみず芸者」などの監督をしていたが、映画愛好者からは藤純子主演の大ヒット作「緋牡丹博徒シリーズ」の産みの親として知られていた。「緋牡丹博徒シリーズ」の殆どは鈴木則文さんが脚本を担当していたのだ。後年、「トラック野郎シリーズ」などの大ヒット作を産み出した監督だ。
鈴木監督は気さくな方だった。そして私たちを歓待してくれた。なぜかきれいな女優さんが呼ばれていて、手料理をふるまってくれた。さすがに、鈴木監督との仲は訊けなかった。
映画の話、映画界の話、東映京都撮影所の話などをいろいろ聞かせてもらった。そして大槻さんは熱く訴えた。「なんとか東映の助監督になりたいんです。お願いします」。私も一緒に頭を下げた。鈴木監督は言った。「東映は数年前から社員助監督は採用していない。助監督になるには契約で入るしかないよ」。
斜陽と言われて久しい映画界だ。どこの映画会社も社員助監督の正式な採用は止めていた。私の記憶では、その頃助監督を社員で採用していたのは東宝ぐらいだったと思う。私たちはそこらの事情はある程度分かったいた。私の希望は、とにかく「モノ創りの現場で働きたい」ということだった。
鈴木監督は言った。「それで良ければ、東映京都撮影所の製作部長を紹介しよう」。私たちは「お願いします!」と、頭を下げた。鈴木監督の話を聞き、またその人柄に触れることで、それまで少し曖昧だった私の映画界に対する思いは強くなった。
「これがこれで反対すんねん」
数日後、大槻さんが逢おうと言ってきた。逢うとまたいきなり切り出した。「すまん、京都には行けなくなった」「え!?どういうこと?」。大槻さんはしかめっ面の前に小指を立てた。「これが、契約みたいな不安定な身分は嫌や言うねん」。ま、常識的にはそうかもしれん。でも常識では映画は作れんのとちゃう?「で、どうするの?助監督を諦めるの?」「社員にしてくれる話を待つわ」。
こういうわけで、東映京撮の製作部長には私一人で逢いに行くことになった。ちなみに大槻さんは数年後に結婚した。だが、お相手は小指の「これ」とは別の女性だった。
現在の東映京都撮影所。この風景は1973年当時とほとんど変わっていない。左側の建物が撮影所(本編)製作部のある建物。正面が俳優会館。右が厚生会館で「太秦映像」の製作部があった。スタジオエリアは右手奥にある。
東映京撮に乗り込む
1973年1月末、私は東映京都撮影所に勇んで行った。鈴木監督に紹介して頂いた黒木製作部長に逢うためだ。ちなみに東映は劇場用映画を製作する撮影所(通称「本編」)とテレビ映画を製作する「太秦映像」「テレビプロダクション」に事業所が別れていた。劇場用映画を作る「本編」の製作部長を紹介して貰えたということは、その当時大ヒットしていた深作欣二監督の「仁義なき戦い」にも参加できるチャンスがあるということだ。心なしか、本編の建物に出入りするスタッフはテレビ映画のある建物に出入りするスタッフよりも風格があるような気がした。期待が膨らんだ。
「本編」の製作部長室に通された。黒木製作部長は名前の通り色黒のがっしりした人だった。「『こうぶんさん』から話は聞いてる。しかし、いま契約助監督の採用はしてない」。えー!?助監督の採用をしてないってどういうこと?「契約の助監督も採用していないんですか?」「そうや。ついこのあいだ、契約助監督の連中が組合を作りよったんや。会社はそんな組合は認めていない。そやから契約助監督は採用しないことになったんや」。えー!ェー!!そんなー!!!
To Be Continued
※続編は来週水曜日に投稿予定
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りな広告なので皆さんのお目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

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