【Episode12】
助監督になる
その3
前号からの続き
1973年1月、鈴木則文監督(東映での通称「こうぶん」さん)の紹介で東映京都撮影所の製作部長と面会した。「『こうぶんさん』から話は聞いてる。しかし、いま契約助監督の採用はしてない」。えー!?助監督の採用をしてないってどういうこと?「契約の助監督も採用していないんですか?」「そうや。ついこのあいだ、契約助監督の連中が組合を作りよったんや。会社はそんな組合は認めていない。そやから契約助監督は採用しないことになったんや」。えー!そんなー!!助監督になれないなんて……ショックだった。
ポルノならアルバイトで
私の様子を見て黒木部長が言った。「アルバイトの助監督で良ければ仕事は無くはない。どうする?」。アルバイトか……契約より酷いやん……どうする?どうする?どうする―!
「……やります。やらせて下さい」「よっしゃ」。黒木部長は中川製作次長を呼んだ。「本編」のスタッフ編成担当らしい。事情を聞いた中川次長は言った。「3月に『500万ポルノ』が入る。助監督2人は外部スタッフを使う予定や。そのセカンドなら。後はアルバイトを使う予定はいまのところない」。アッチャー、ポルノか……正直ポルノはあまり好きではなかった。でも断れば映画への道が断たれる。親切にして頂いた鈴木監督の顔も潰すことになる。迷った。
「やらせて下さい」。言った。言ってしまった。私が映画界に潜り込むにはその道しか無かったのだ。
超多忙だった鈴木監督
このブログを書くために鈴木則文監督が書かれた本を読んだ。「東映ゲリラ戦記」。その頃のことを書かれた本だ。それによると、私たちに逢って頂いたころの鈴木監督は、超が付くほど多忙だったことが分かってびっくりした。前年1972年は何と6本の映画を撮っていた。1973年は4本だ。しかもすべての作品の脚本に参加している。
そんな時、忙しさはおくびにも出さず、貴重な休日を私たちのために使って頂いたのだ。私はこの後一度ロケ現場に尋ねて行って、結果報告と紹介して頂いたお礼を述べた。だが、その直後に鈴木監督は東京撮影所に移動となり、それ以後残念ながらお逢いする機会はなかった。
いざ、京都へ
さて、アルバイト助監督が決まった私は、松竹芸能の加藤哲也次長にその旨を報告し、2月末で退社すると告げた。「そうか」そう言って加藤さんは、なぜかニヤリと笑った。香里園のアパートを引き払って、東映京都撮影所から細い道ひとつ隔てたところのアパートを借りた。
向いは「本編」の編集部だった。ムヴィオラ(電動編集機)から俳優の声が漏れてくることもあった。編集作業なので、同じ場面のセリフが何度も繰り返して聞こえた。夏場などはお互いに窓を開けているので、濡れ場の声がよく聞こえたりして、悩ましかった。
当時は手前と二軒目がひとつながりの建物で、二階がアパートだった。通りに面した
奥から2部屋目が私の部屋で、1階の奥は中華料理屋だった。手前は当時も和菓子屋
だった。名物の「いちご大福」や「豆大福」が有名で、現在も観光客で賑わっている。
木立の左側は撮影所(本編)製作部のある建物。2階は編集部だった。正面奥は正門。
助監督第1作
最初に助監督で付いた作品のタイトルはもう覚えていない。監督は本田達男さんだった。しかし、彼の作品歴を調べてみたが、それらしいものはなかった。たしか、東映の3番館以下の映画館での併映用だと聞いた覚えがある。当時の東映は「仁義なき戦い」がヒットしていた。封切り館や2番館は2本立てだが、地方では3本立ての映画館もあり、それ用の作品だったようだ。作品歴にないということは、ひょっとしたらオクラになったのかもしれない。とにもかくにも、その作品が私の助監督第1作となった。
助監督のチーフはなんと、宝塚映画の監督さんだった。Aさんといい、50歳は超えていたと思う。彼の話では東映との約束で、この作品の後には監督として500万ポルノを撮る約束ということだった。映画初経験の私としては当然Aさんに頼ることになる。Aさんの指示通りに動いた。短い準備期間を経てクランクインした。
助監督初日
初日は所内撮影だった。第一カットは製作部の2階にキャメラを据えて、サンルームに見立てた厚生会館1階の部屋の俯瞰だった。東映はこうした撮影所内の施設をよく撮影に使った。製作費を抑えるためには所内のあらゆる物を利用するという姿勢だ。社長公館すらも頻繁に使った。時間も金も掛からない上手い方法だ。
余談だが、これから20年後に朝日放送(ABC)で局内制作の「部長刑事」を撮っていたときのことだ。ドラマの中で社長室や重役室が出てくると、私は「ABCの社長室や重役室を使わせろ」と言った。事あるごとに予算削減・経費削減を口にするプロデューサーたちのその時の反応は、もどかしいものだった。完全に腰が引けていた。私は言った。「東映だとプロデューサーの方から、社長公館や重役室を使えないかと言ってくるよ。だって、社内の物を利用すればセットを作る経費も掛からないし、ロケに出る時間も節約できる。その間、社長や重役はどこかでお茶を飲んでたららいい。モノ創りの会社ってそういうもんじゃないの」
さて、私の助監督デビュー作初日だ。厚生会館に作ったサンルームでは全裸の女優さんがチェアに腰掛けてポルノ雑誌を眺めている。それを、主人公が望遠鏡で覗きをしているという設定だ。本田監督が私に言った。「女がポルノ雑誌を読みながら陰毛を抜いている芝居にしたい。陰毛を用意しろ」。陰毛!?そんなもの何処にある?見当もつかない。あいにくチーフのAさんはその場にいない。「毛のことやから、結髪に訊いてみ」とキャメラマンが言ってくれた。
俳優会館の結髪部屋に飛び込んだ。女性ばかりだった。近くの結髪係に小さな声で訊いた。「あのー、女性のあそこの毛ってありますか?」。彼女は笑いを嚙み殺しながら教えてくれた。「白鳥さんに訊き」と顎をしゃくる。その先に「結髪のドン」と呼ばれた怖いおばさんがいた。白鳥さんは美人の若い結髪さんと喋っていた。「あのー」「なんや」「じょ、女性のあそこの毛ってありますか?」。美人結髪係が吹きだした。「なにー!?誰がそんなもん使う言うてんねん?」と柳眉を逆立てた白鳥さん。「ほ、本田監督です」「本田か!あのアホまたしょうもないこと考えて」。美人結髪係が笑いながら言った。「メ、メ、メイクの、ビ、Bさんなら、教えてくれるかも。そんなん集めてるって△α×β」語尾は笑って何を言っているかわからなかった。「ありがとうございます!」。礼もそこそこに隣のメイク室に飛び込む。Bさんは男性のメイクさんだった。私の頼みを聞くとニコリともせずに言った。「ちょっと、待っとき」。ツカツカとガラス戸棚に近づいて茶髪のカツラを取り出した。その端っこを摘まむと、「ジョキリ」とハサミで切った。「これ持って行き」と私に渡す。なるほど、これか!!……これが私の助監督現場の初仕事だった。
助監督が私1人に
初助監督の現場で私はたくさん失敗をした。主にはチーフのAさんとのコミュニケーションミスだった。私はチーフが準備してくれていると思い、チーフは私が準備しているものと思って、その結果必要なものが現場にないということがあった。監督の矛先はAさんに向いた。私が新米なのだからチーフのAさんがフォローすべきというのだ。正論は正論だったが、Aさんは監督よりも10歳以上年上だった。宝塚映画では監督だったというプライドもあったのだろう。その日を限りにチーフを降りてしまった。私が至らないせいで迷惑を掛けてしまった。後任のチーフは来なかった。私は初現場で一人っきりの助監督となった。不思議なもので、それ以降ミスはグンと少なくなった。全部自分の守備範囲と分かっているから、誰かが準備するだろうという甘えがなくなったのだ。分からないことは全て監督やベテランスタッフに訊いた。
祇園で宴会
撮影が終了した。クランクアップだ。スタッフルームで全員で乾杯した後、メインスタッフとメインキャストは祇園で宴会をした。500万ポルノでもその予算はとってあったようだ。私も呼ばれた。下っ端助監督でもこういう時はメインスタッフ扱いされるのが、撮影所の習慣のようだった。2次会はプロデューサー持ち、3次会は主演俳優持ちで飲んだ。
応援助監督
その後、「狂走セックス族」という作品に途中から応援で呼ばれた。助監督セカンドが事情あって離脱することになった穴埋めだ。渡瀬恒彦主演の白バイ警官と暴走族の戦いのドラマだった。タイトルとは裏腹に濡れ場シーンは少ない作品だった。監督はCさん。すでに7割方は撮影済みだった。撮影3日目でW主役の1人白石襄が骨折事故を起こし、白井慈郎に交代するという曰くのある作品だった。私の現場初日でもカメラを搭載したオープンカーと劇用バイクが正面衝突したり、バイクがスリップして転倒したりと事故続きだった。聞くところによると、吹替ドライバーがプロのスタントではなかったらしい。
最後の結末も、バイクで追う渡瀬恒彦が同じく逃げる白井慈郎にかぶっていたヘルメットを投げつけて転倒させるという妙なものだった。その転倒もスピードを出しては上手くいかないので、走行速度を落としてスローモーションで撮るというありさまだった。ちなみにプロはスローモーションのことをハイスピードと言う。高速回転(ハイスピード)のカメラで撮影し、ノーマルスピードで再生すればスローモーションになるからだ。私もこの現場で覚えた。とにかく毎日、スリップを防ぐために竹箒で道路を掃いていた記憶しかない作品だった。
五条大橋で「立ちん坊」
「狂走セックス族」が終わると、1日、いや一晩だけの応援要請しか来なくなった。東映は契約助監督の組合を認めず、それに抗議した組合が残業拒否のストを度々打っていた。そうすると私が呼ばれるのだ。そういう事情が分かってくると、「わたしの応援は『スト破り』なのではないか」と思えて来た。仲間の団結を邪魔する仕事は嫌だった。朝、東映正門前で契約助監督たちがビラを配るとその日は残業拒否だ。昼過ぎには応援の連絡がくる。私は午前中にアパートを出て映画館に向かった。そんな生活をしていると、手持ちの資金が少なくなってきた。
噂で五条大橋の袂で「立ちん坊」の求人をしていると聞いた。「立ちん坊」とは、土木工事や建設工事に雇われるために、寄せ場で立って仕事を待っている者のことだ。釜ヶ崎や山谷が有名だが、京都では五条大橋の袂ということだった。何事も経験と、いや正直に言おう。生活費が欲しくて早起きして行ってみた。朝一番のバスで行ったが、五条大橋には誰もいなかった。
天使現る!京都映画へ
そんな時、天使のような人が現れた。松竹芸能の先輩、京都映画担当の佐久間博さんだった。アパートの呼び出し電話の向こうで、天使がおっさん声で言った。「京都映画が助監督を探しているぞ。行くか?」「行く、行く。行きますとも」。これ以上ないタイミングで松竹芸能加藤次長の「愛の手」が届いたのだ。映画にすれば「ウッソー、出来すぎやん」というほどのグッドタイミングだった。しかも京都映画といえば、あの「必殺シリーズ」を作っている撮影所だ。願ってもない誘いだった。

佐久間博P(前列右から3人目)。1987年ABC・松竹芸能制作「旅はデリシャス」完成記念写真。佐久間さんの右が筆者、その右が小島正仁キャメラマン。前から2列目一番右が井上宏P(松竹芸能)、2人目が川口ひみこさん(近藤正臣さんの娘)、3人目が近藤正臣さん。
さっそく京都映画に行った。佐久間さんが付き添ってくれた。面接は小島清文さんという製作課長だった。聞かれたことは三つ。「仕事きついで、体は丈夫か?」「健康です。風邪ひとつひいたことありません(嘘デス!)」「給料安いで、ええか?」「大丈夫です!貧乏には慣れてます」「大声出せるか?」「出せます。拡声器要りません!」「よっしゃ、明日から来てもらおうか」。これが京都映画と私の馴れ初めとなった。松竹芸能と上司・先輩方に感謝!感謝!感謝!
【Episode12】The End
あとがき
この直後から、松竹芸能はドラマ制作をするようになった。加藤哲也さんはプロデュースの傍ら取締役となり、佐久間博さんはプロデューサーとして活躍した。そして私に助監督チーフや監督を度々やらしてくれるようになった。
20年ぐらい前のことだ。加藤さんは松竹芸能を副社長まで務めて退社した。たまたま加藤さんとお茶を飲む機会があった。私はいろいろと世話になったことの礼を述べた。それを聞いた後、加藤さんが言った。「おれは、お前を京都に修行に出したつもりやったんや。お前が監督になって、一緒に仕事ができてよかった」。あー、私はこの人にも見守られて生きて来たんだ。そう思った。
※【Episode 13】は来週水曜日アップ予定です。
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない目障りな広告が掲載されるようです。皆さんのお目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経


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ヨウちゃん
が
しました