【EpisodeX-5】
撮影コンテいろいろ
その2
コンテとカット割りとの違い
テレビ局や東京のプロダクション制作(注1))の現場では、「コンテ」と同じような意味で「カット割り」という言葉が使われる。だが厳密にいうとこの二つは似て非なるものだ。
「カット割り」というのは、劇場中継やかつてのスタジオドラマ収録の「カメラ割り」から来ていると思われる。劇場中継もスタジオドラマも、一定の物理的空間内(舞台やセット)で演じられる劇を、現実の時間の流れそのままに(劇中の1分=現実の1分)、複数のカメラを切り替えながら収録する制作方法だ。
スタジオドラマの「カメラ割り」は、例えばこんな感じだ。
・5ページ目。7行目の一郎のセリフから10行目の花子のセリフいっぱいまでの芝居はロングで第4カメラ(4カメ)
・11行目の一郎セリフと花子の振り返りまでは二人のタイト2ショットで2カメ
・その後の花子のセリフをバストショット(下を胸まで入れた画角の顔)で3カメ
・その後の一郎のセリフをバストショットで1カメ
こんな風に台本のどの部分をどのカメラでどういうサイズで撮るかを、ドライリハーサル(カメラなしのリハーサル)の後にディレクター(D)もしくはテクニカルディレクター(技術監督TD)が指示をする。
収録する場合は、この「カメラ割り」に従って、カメラを切り替えながら収録する(現在は一応カメラを切り替えるが、それぞれのカメラにYTRを接続して収録する場合が多いらしい)。それが後年になり、スタジオドラマもカメラ1台でロケに出るようになって、「カット割り」と言うようになったと思われる。だから「カット割り」とは成り立ちから言って、ひとつのシーンを空間的・時間的に現実の尺度そのままで撮影する(切り取る)のを基本とした撮影プランだ。「割り」という言葉からして台本を不変のものとして、それをどう切り取っていくかという発想だ。
一方、撮影所で使われる「コンテ」は、出発点からカメラ1台でカットごとに撮影する演出プランだった。したがって、現実の空間・時間に沿って演じられる芝居を切り取るという発想から自由だったのだ。撮影所の監督はコンテを作る時に、感覚的に許される限り空間・時間をコントロールしようとするわけだ。(注1:なぜか撮影所では「製作」といい、テレビ局やプロダクションでは「制作」という。ちなみにテレビ局の制作局・部にはプロデューサーもディレクターもアシスタントントディレクターも所属しているが、撮影所の製作部には上記の人々は所属していない。プロデューサーは企画部、助監督は演出部または助監督部に所属しており、監督に至っては所属する部は存在しない。監督に昇格した時点で社員ではなくなり(キャメラマンも照明技師・録音技師も)、契約に切り替わるからだ。撮影所の製作部は撮影現場を管理・進行させる製作主任・進行主任や製作進行係、スタッフの編成や管理をする係が所属している)
時間をコントロールするコンテ1
時間をコントロールする(盗む)例だ。例えば時代劇で、刺客が武士Aに向かって矢を射放って刺さる場面。矢が刺客の弓弦を離れて武士Aに届くまで現実の時間は1秒足らずだ。だが、矢を射るカットと刺さるカットの間に、「ハッと振り向く武士B」「驚く武士C」「思わず目を覆う武士Aの妻」の3カットを短く入れたとする。その3カットの合計タイムは2.5秒ほどだ。矢を射て刺さる現実の時間の2.5倍以上かかっている。しかし、編集して一連の流れのなかでこの5カットを見ても違和感や不自然さは感じないはずだ。実際に倉田準二監督はこういう演出をしたが、まったく違和感はなかった。この場合、監督が客の時間感覚をコントロールしているわけだ。
時間をコントロールするコンテ2
次は逆の例だ。今から30数年前、私は毎日放送(MBS)の帯ドラマ「家政婦日記」の演出をした。いつもはスタジオでスイッチングで収録するドラマだったが、スタジオ事情のためにその作品だけオールロケで撮影することになった。スタッフはスタジオドラマのメンバーでカメラは1台。和装店に客が訪ねてきて、店主が客に茶を出すシーンがあった。私は「コンテ」を説明した。
カット5──2ショット。店主が茶筒から急須に茶葉を入れる。
カット6──客のバストショット。店内を見廻す。
カット7──テーブルの上に茶が入った茶碗が差し出される。
ここで、記録係がクレームを付けた。「カット5の後、店主が茶筒のふたを閉め、お湯を急須に入れて、お茶を茶碗に注ぎ、急須を置いて茶碗を手に取るまで20秒以上掛かります。3~4秒ぐらいのカット6だけを挟んで茶碗を差し出すのは、アクションが飛び過ぎです」。他のスタッフの反応を見ると、記録係の言うことがもっともだという表情をしている。まさしくスイッチングのスタジオドラマの感覚だ。私は「大丈夫、1カット入っていれば時間は盗める。カット7が2人を入れ込んだ2ショットだったり、カット6の客がじっと店主の手元を見ている芝居なら違和感があるかもしれない。だが、手元を意識しないで店内を見廻しているので、カット7のテーブルに置かれる茶碗をフレームインさせれば、全然問題ない。編集をしてみれば分かるよ」と言って、その通りに撮った。後日編集したが、何の問題もなかった。まさしく時間のコントロールをしたわけだ。
スローモーションを使用する演出は、劇的時間の感覚を現実的時間から解き放つ代表的手法と言えるかもしれない。上手く使えば絶大な効果を上げることができる。私はサム・ペキンパーのスローモーション演出が好きだった。機会があれば「ワイルドバンチ」や「ジュニア・ボナー」などを見て欲しい。「レッドクリフ」などを演出したジョン・ウーのスローモーション演出はちょっとやり過ぎだと思うが。
空間をコントロールするコンテ1
次は空間をコントロールする例だ。2人の武士ABが寺院の大きな本堂の前で対峙している。まずカット1で土塀をバックに2人を横位置で撮る。この場合は実際の2人の距離が10mだとすれば、映像的にも10mと感じられる。次にカット2で2人を縦位置で撮る。Bの後ろ姿を入れ込んでAの正面だ。背景には大きな本堂がある。本堂を全部画面に入れて手前のBも大きく入れたければ、ワイドレンズを使用することになる。この場合、二人の距離を現実の10mにすれば、Aの姿はグンと小さくなって感覚的には10m以上離れていると感じられる。従って10mと感じられるまで二人の距離を近くに盗んで撮影することになる。
逆にカット2を本堂の全景にこだわらずに、望遠レンズで撮れば10mよりも近くに感じられるので、10mよりも2人の距離を離して(盗んで)撮ることになるのだ。
空間をコントロールするコンテ2
こんな例も場所を盗むという発想かもしれない。私が朝日放送(ABC)のドラマ「新・部長刑事」を撮ったときのことだ。それまでスタジオオンリーだった撮影方法をロケも含めた方法に切り替えて、まだ3~4ヵ月目のことだった。刑事が植物園を捜索して殺害に使われた毒性のある植物を発見するという場面だった。台本では最初は薬草畑を捜索するが見つからず、その一角にある池の畔でその植物を発見するというシーンだ。ロケハンではそのシーン全部を撮れる場所が見つからなかったので、薬草畑の場所と池の畔の場所を分けて撮影することにした。
ロケ場所下見の日だった。メインスタッフを連れてロケ予定地を廻った。D=私がこの現場ではこうやって撮るということをスタッフに説明する行事だ。問題のシーン。薬草畑で刑事が捜索するコンテを説明し、最後に薬草畑の一角で左方向に何かを見つけて、その方向に刑事がフレームアウトするというカットを説明した。そして私は、「この後のカットは場所を移動して撮ります」と、言った。不思議そうな表情のスタッフたち。どうも納得いかないようだ。
15分ばかりロケバスで池のある場所に移動した。そこで、スタッフに池向きのカットで刑事がフレームインして毒性のある植物を発見することを説明した。ベテランのカメラマンが言った。「ワンシーンの中で場所を変えて繋がりますかね?」。驚いた。どういう発想なのか?他のスタッフもカメラマンと同じ意見のようだった。これがスタジオドラマの感覚か。私は言った。「大丈夫です。さっきの場所でカメラ横にフレームアウトさせて、ここではカメラ横からフレームさせます。場所の雰囲気も似ています。何の問題もありません」。それでもカメラマンは不安そうだった。彼らには、「1シーンの中で、場所を変えて同じ場所に見せる」という、いわゆる「場所を盗む」という発想がなかったのだ。
撮影当日も私のコンテ通りに撮影した。放送を見たカメラマンが言った。「監督の言った通りでした。なんの違和感もなく一続きの場所に見えました。不思議ですね」。まるで奇術師のような褒め方だった。撮影所育ちにはごく当たり前の場所盗みも、その頃のスタジオ育ちのカメラマンには手品のように見えたのだろう。
コンテは時間・空間を思いのままに操ろうとする演出方法
撮影所で使われてきた「コンテ」は、実際の時間経過や距離よりも感覚的な時間や距離を重視して撮り方を組み立てるプランと言える。逆に言えば、時間・空間を思いのままに操ろうとする演出方法なのだ。
撮影所での演出
では、撮影現場で監督はどう演出するのか?実際に私が撮影所で経験した現場では、そのシーン全体の説明抜きに撮り進める監督がいた。コンテの説明も、段取りの説明もなく、これから撮るカットの説明だけをするのだ。三隅研次監督や工藤栄一監督がそうだった。工藤監督は、カット1から順番に撮って行った。「この後のカットはどうなりますか?」と訊いても、返ってくる答えは「わからん」。だが、そういう現場でも、慣れたスタッフや俳優は戸惑いも違和感もなくやっていた。むしろ、「これからどうなるんだろう」という期待感の方が強かったように思う。時間・空間の盗みも、監督に言われなくても「あ、これは時間を飛ばすんだな」とか「距離を盗んでやるんだな」とか、それぞれが考えてあるいは感じて対応していくのだ。どの撮影所でも京都のスタッフはそういう能力を備えていたと思う。
だがそういう撮り方は、監督の責任は当然重くなる。シーン全体の狙いや雰囲気を伝えることもなく、またシーンを通してのリハーサルを1度もやっていないのだから、映像の雰囲気から演技の細かいニュアンスまで、全部監督がチェックしコントロールしなければならない。カリスマ的な監督でなければできない芸当だ。しかもそれを、シレッと何事もなくこなすのが当たり前の世界だった。
もちろん、撮影現場で1シーンを通して段取り(リハーサル)をやる監督もいたし、コンテを撮影前にオープンにする監督もいた。割合としてはこちらの方が多かったと思う。この場合もスタッフや俳優は監督のコンテや指示に従って動いた。
当然だが、例外はいっぱいあった。キャメラマンの力が強い組は、キャメラマンが監督のコンテに修正を加えたりひっくり返したりした。私の経験で言えば、「必殺シリーズ」の石原興キャメラマンや藤原三郎だ。俳優が力を持っていれば、監督の指示通りに動かなかった。だが、それらは監督のコンテやプランがあってのことだ。まずは監督の考えを聞いたり動いてみてから、キャメラマンや俳優が意見を言ったり修正を加えるのだ。
もちろんこれにも例外はある。勝新太郎や若山富三郎や杉良太郎だ。私が撮影所にいた頃、彼らは自分が出ているシーンは自分で演出することが多かった。黒澤明の「影武者」で主役の勝新太郎が降板するという事件があった。直接の原因は別として、底流には勝新太郎の黒澤監督(演出)に対する姿勢や、自分の出演しているシーンは自分で演出したがるという噂が疑心暗鬼を生み、ああいう結果になったのでないだろうか。
コンテの土台になる台本は?
ここで「撮影所の監督たちは台本に沿ってコンテを作っていたのか?」という疑問が出てくるはずだ。これも様々だった。これはプロデューサー(P)や脚本家との力関係にもよるのだが、まったく様々なパターンがあった。台本どうりに撮るパターンは、東映の「水戸黄門」や「大岡越前」の監督たちだ。その番組では逸見稔Pが絶大な力を持っていた。台本の変更は一切認められなかったそうだ。脚本家が力を持っていて、勝手に直せないという場合もあった。後で出てくる倉本聰などがそうだ。
台本を監督が勝手に変更するパターン。これは京都映画の「必殺シリーズ」の監督たちだ。自分で結構書き換えて撮っていた。工藤栄一監督のようにほとんど原型が残らないほど変えて撮る監督もいた。京都映画では一時、「台本通りに撮る監督はアホや」という評価までが罷り通っていた。
撮影前に台本を書き直すパターン。これは大なり小なり共通しているパターンだ。工藤監督は準備稿を読んだ時点で意見をいい、ある程度直ったらそのまま決定稿を印刷させて現場で直すというパターンが多かったようだ。三隅研次監督は気に入るまで直しを要求し、それでも直らなければ監督を降板した。池広一夫監督は必ず自分で直した台本を印刷させた。
私は台本が気に入らない場合は、時間の許す限り脚本家に注文を出して直してもらった。
時間が無かったり、これ以上は無理だと思ったら自分で直して印刷したり、現場で直したりした。現実的にはキャスティングやロケ場所の都合で、台本を変更しなければならないことはしばしばあった。
テレビ局系テレビドラマの演出法
さてコンテとカット割りの話に戻ろう。いまのテレビ局系のテレビドラマ現場の多くは、まずディレクター(D)のコンテやプラン通りに動いてみるというシステムではないような気がする。テレビ局系というのは、撮影所育ちではなくテレビ局のスタジオドラマの系譜を引いているという意味だ。断っておくが、監督というものは基本的に他の監督が演出する現場にはいないのが普通だ。だからこの項は、私がいろいろな現場で見た経験で書いているわけではない。テレビ局系の現場を経験したスタッフに聞いた話を総合して感じることだ。
テレビ局系テレビドラマの現場では、Dが最初に俳優のポジションを決めたら、「では、やってみましょう」と、まずは自由にセリフを喋って動いてもらうやり方が主流ではないかと思われる。そして、一度動いてみた後に俳優の意見を聞いて動きを修正していく。もちろんDやカメラマンの意見も加味される。これを何度か繰り返して、俳優が気持ちよく演じられる状態にまで持っていくのだ。その後、Dとカメラマンやテクニカルディレクター(TD)がカット割りを決めていくということになる。
この方法が優れているのは、俳優が気持ちよく演じられるということで、1シーンを通して演技の完成度が高くなり、当たり外れが少なくなるということだ。一方、とんでもなく凄い作品は生まれ難くなる。俳優の感性に委ねてしまうということは、現実の時間空間には縛られるわけだから、それを超えた突拍子もない感性の作品は生まれない。また、俳優の自分では思ってもみなかった才能を引き出すということは起こりにくくなる。
撮影所系監督の演出法
撮影所のように基本的に監督一人の感覚に委ねた場合はどうなるだろう?時間・空間を自由にコントロールできるわけだから、観客の感性を揺るがすような傑作が飛び出す可能性がある。また、俳優のいままでは隠れていたキャラクターを強引に引き出してみせるという快挙が生まれる可能性もある。だが、訳の分からない駄作に陥る危険性も孕むことになる。どちらが優れた方法かは、一概に言えないというのが私の結論だ。
コンテの作り方
では、コンテはどうやって作るのか?ひとことで言えば、監督によって様々だ。基本的には台本に書かれたテーマや雰囲気を生かす撮り方を考えるということだ。だが、人によって同じ台本でも受け取り方が違う。言い方を変えると、台本のどこの部分を強調したいかや膨らませたいかは、監督によって違うということだ。与えられた台本は限られた予算と時間の中で作らねばならない。現実的には、どの部分に力を入れて、どの部分を流すかを決めなければならないわけだ。
もう少し狭い範囲でいうと、私はコンテを作るにあたってシーンやシークエンス(映画やテレビで、一続きのシーンによって構成される、ストーリー展開上のひとつのまとまり)の「ヘソ」になるモノを探すというか創るというか、そういうものを手掛かりにしてコンテを作っていた。実はそれを「ヘソ」という言葉で認識し始めたのは脚本家・倉本聰の文章を読んでからだ。
倉本聰の「ヘソ」
倉本聰はドラマの脚本を書く時、「ヘソ」を見つけるまでは書けないという。「ヘソ」とはどういうものか?彼は一例をあげて説明した。ある作品の取材のために横浜のヤクザの親分を紹介してもらい、その組の幹部にヤクザに関係する場所、すなわち組事務所や博奕場などを案内してもらった。もちろん、ヤクザの様々な決まり事や価値観・稼ぎ・生き様・生態などもその幹部に取材したという。言葉の端々から、相当の修羅場を潜って来たらしいということが分かった。その幹部は何処からみてもその筋の人だった。貫禄も半端ではなかった。倉本聰が見たいという場所は、彼がひと睨みしたらどこでもOKになった。
取材はその幹部のお陰で順調に進んだ。だが予定の日程を終えた段階で、倉本聰にはどうしてももう1ヵ所見たい場所が出て来た。倉本は幹部に「もう1日だけ延ばしてその場所に案内して欲しい」と頼んだ。幹部は駄目だという。場所がダメということではないらしい。翌々日なら案内するという。倉本にも翌々日以降はどうしても外せない用があった。「組の用事なら、私から組長にお願いするので何とかならないか」と倉本は頼んだ。だが、幹部はそれでもダメだという。押し問答の末に幹部がやっと重い口を開いた。「……明日は息子の運動会なんだ……」。
倉本はこういう話が「ヘソ」だという。その時の取材がその作品のためかどうかはわからない。だが、倉本が脚本を担当し高倉健が主演した「冬の華」という映画では、それらしいヤクザの幹部が2人出てくる。池部良扮する幹部・南は、冒頭部分で「ガキがいるンだ。何とかならねぇか」と高倉健に命乞いをする。小池朝雄扮する幹部・山辺はことあるごとに家族のことを口にする。「明日は息子の大学入試の発表だから」と言って、幹部連中が集まった飲み会を早退するのだ。また別の場面では、「たまげたぜ。うちのガキ慶応、受かりゃがった」といって、他の幹部たちの前で親バカぶりを発揮する。実はこの山辺が高倉健の親分を殺した張本人という設定なのだ。ラストで山辺が高倉健に罪を暴かれ追いつめられ哀願するセリフがこうだ。「ガキがいるンだ。何とかならねぇか」。冒頭の幹部・南のセリフとまったく同じだ。
親分・子分のヤクザ世界は「親」と「子」になぞらえた疑似家族と言われる。「冬の華」のテーマのひとつは正しく「ヤクザと家族・子供」なのだ。高倉健扮する加納秀次も、南を殺害して刑務所に入った後、南の娘に定期的に金を送り、「足長おじさん」を演じている。父の仇を討とうとする親分の息子も重要な役割だ。そういえば、「冬の華」の舞台も横浜だった。そう考えると、横浜のヤクザの幹部の「ヘソ」を「冬の華」に生かしたのかもしれないという私の推測は確信に変わった。倉本聰にとっては「ヘソ」とは、シナリオを書く上でかくも重要な核心ということなのだ。
私のコンテの「ヘソ」
倉本聰の話を読んでから、私もコンテを創る時の手掛かりになるものを「ヘソ」と呼ぶようになった。私の「ヘソ」は1種類ではない。なんでも「これだ!これを中心にこのシーンを組み立てるぞ」と思えれば、それが「ヘソ」になった。例えば、主人公が重要なセリフをいう時の相手との位置関係や体勢だったり、その時の映像の雰囲気や画角であったりする。恋人同士を夕陽を入れ込んでシルエットで撮るという「ヘソ」もあった。短いカットを畳み掛ける早いテンポをコンテの「ヘソ」にすることもある。「こういう音楽を入れる。その為にズームアップを多用する」という「ヘソ」もあった。少し安易だが、このシークエンスを「砂の器」のクライマックスのように組み立てたいという「ヘソ」もあった。
台本の趣旨を変えた「ヘソ」
「ヘソ」を思い付けば、台本の趣旨を変えて撮ることもある。7年前に撮ったBSテレ東・ドラマデザイン社制作「山本周五郎時代劇 武士の魂~大将首」を例に説明しよう。「大将首」とは足軽でも敵の大将の首を取れば、豊臣秀吉のように天下人になるほど出世できるという話だ。
主人公の池藤六郎兵衛(石黒賢)はさる藩の剣術指南役だったが、事情があって長く浪々生活を送っていた。妻女・文江(笛木優子)と共に士官先を求めて全国を流浪したが果たさず、東海道沿いのある藩の城下町に流れ着く。そこで知己を得た足軽組頭・植村弥兵衛(蛍雪次郎)に士官の口を頼む。弥兵衛は士官の口は無いが「足軽の口ならある」と答える。六郎兵衛はれっきとした武士とは言えぬ足軽になることを躊躇する。
その帰り道。六郎兵衛はいきなり若い浪人者に斬り付けられる。簡単に浪人の刀を叩き落とした六郎兵衛は「なぜ狙った」と問う。浪人・佐藤主計(大迫一平)は答えた。「金が欲しかったんだ。3日も何も食っていない」。六郎兵衛は主計の所業のバカバカしさに思わず笑ってしまう。そして、貧乏浪人の己の懐を狙った主計の困窮振りに同情してしまう。
六郎兵衛は主計を連れて住いに帰る。廃墟に毛の生えたような住いだ。六郎兵衛の貧困振りが窺える。内職をしていた妻の文江が出迎える。六郎兵衛は主計の窮乏振りを話し、「酒と飯でも出してやってくれ」と簡単にいう。文江は驚くが「すぐに用意しますから、奥でお待ちになって」と明るく言う。
さて問題はここからだ。台本では2ページ半に渡って六郎兵衛と主計の会話が続く。会話の内容は、六郎兵衛の剣術の腕前の話。お互いの士官の口を求めての苦しい浪々生活振り。そして、足軽の口ならいくらでもあるが、戦国の世も遠くなった今では大将首を取ることができないので、一度足軽の身分に落ちると這い上がるのが不可能になるという愚痴、それに対して、「どんな世でも才覚があれば道は開けるのでは」という六郎兵衛の希望・決意が語られる。そして、その後に台所との仕切り戸が開くのだ。その隙間から酒と料理を乗せた膳が差し出される。そして、「あなた、どうぞこれを」と文江の声だけが聞こえる。不審に思った六郎兵衛が台所を覗くと、髪を切った文江が隠れるように立っている。文江は酒と料理を用意するために、女の命である黒髪を売ったのだ。そう悟って愕然とする六郎兵衛。という筋書きだった。
BSテレ東・ドラマデザイン社制作「山本周五郎時代劇 武士の魂~大将首」筆者のコンテ1。
読みにくいでしょうが参考に。
台本の趣旨を変えたコンテ
私は、六郎兵衛と主計の長い会話を延々と画にして見せるのは難しいと思った。2人の会話の内容は、二人の性格と置かれた境遇を知るためや、後に展開するストーリーの伏線として必要な情報ではあった。しかし、芝居で見せるほど面白い内容なのだろうかと疑問を持った。そこで考え付いたのは、二人の会話の中盤は声だけ聞かせて、画は台本上には描かれていない文江の側を見せてはどうだろうということだ。文江は「主計を酒と料理でもてなしてくれ」という夫の無理な注文に困惑する。視聴者は「文江はどうするのか?」という思いを抱いている。その文江側を描いてみせるのだ。それもミステリアスな映像で。それがその時私が辿り着いた「ヘソ」だった。
ミステリアスさを強調するためと、ここで髪を切ったことをバラスわけにはいかないので、文江の顔は一切見せない長いカットを考えた。六郎兵衛と主計の映像での芝居が約半ページほどあった後、2人の会話はOFFで続くが、映像は薄暗い台所で酒の燗をする文江の手元になる。そしてそのまま、お銚子と盃を載せたお盆の動きを、台所の土間から部屋への上がり框までフォローする。文江の手がそのまま引き戸を開けて、奥の部屋で語り合う2人を遠景で見せる。床に置かれるお盆。そして、「あなた、どうぞ」と画面の外から文江が声をかけ、そのまま台所に下がる。六郎兵衛は銚子と盃を載せた盆を取りに手前に来るが、文江の様子に不審なものを感じて台所を覗き込む。だが、暗くて良く見えないのでそのまま盆を持って奥の部屋に戻り、主計に「ささ、一献」と酒を勧める。2人の会話はテーマに関わる足軽と「大将首」の話に差し掛かる。ここまで台本では約1ページ分を1カットで描いた。この後映像は、六郎兵衛と主計の大将首の芝居に戻り、文江が髪を切ったことを六郎兵衛が知る件へと進む。
台本(脚本家)の趣旨は六郎兵衛と主計の2ページ半の会話をしっかり芝居でみせることだったと思う。しかし、私は思い付いた「ヘソ」に従って、会話の中盤の1ページ分を音声だけにして文江側の動きを撮った。視聴者は「お金のない文江がどうやって酒と料理を用意するのか」ということに興味がある。そして、文江が髪を切って売ったことを知らない。視聴者はどうして文江の顔を写さないのか疑問に思う。「え、どうなったの?」「どういうこと?」。こういう視聴者の思いを利用して、ミステリアスな雰囲気を作ろう狙ったコンテだった。上記に、その時の台本とコンテの写しを掲載した。読みにくくて恐縮だが、興味のある方はご覧頂きたい。
「ヘソ」を思い付くために山手線を1周
「ヘソ」を思い付くと、そのシーンなりシークエンスはそう苦労することなくコンテが創れた。だが「ヘソ」を思い付けない時は苦しむことになる。そんな時は電車やバスに乗って考えたり、安い喫茶店をハシゴした。ドトールにはコーヒーを飲むためではなく、コンテを考えるためによく行った。比較的効果があったのは電車だった。普段は車内では本を読むのが習慣だったが、「ヘソ」が思い付かない時は、つり革に掴まって考えに耽った。東京では山手線を一周したこともある。地下鉄の場合は丸の内線で池袋まで行って引き返したりした。私のドラマ創りの「ヘソ」は、コンテの「ヘソ」を考えることだった。
【Episode16】 The End
※【Episode17】は来週水曜日(7月17日)アップ予定
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経



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