【Episode17】
ダンディズムと遊び心あふれた
アウトロー松本明
これまでもこのブログに度々登場している松本明さんについて書きたいと思う。松本明さんは2年前(2022年)の7月18日に他界された。明日は命日というわけだ。松本さんが亡くなって半月ばかり経って日本映画監督協会から私に連絡があった。協会の会報「映画監督」に、松本明さんの追悼文を書いて欲しいという申し入れだった。見廻してみると、松本さんと親交のあった協会員の監督たちは、私より年上はほとんどがすでに鬼籍に入っている。私が追悼文を書くしかないと思った。追悼文は「映画監督」2022年9月号に掲載された。今回はその追悼文に大幅に加筆訂正を加えたものだ。
追悼 松本明監督
ダンディズムと遊び心
あふれたアウトロー
1973年2月2日夜、私は「必殺仕掛人~おんな殺し」をボロアパートで見ていた。場面はラスト近くの茶室。緒形拳演じる梅安が元締(山村聰)に仕事の報告をするシーン。梅安が「仕掛けた女(加賀まりこ)は、生き別れた私の妹でした」と衝撃の事実を告げる。だが、元締はピクリとも表情を変えない。「ん!?驚かないのか!?」と私。端然と茶を点て終り、元締は茶筅を床の上に置いた。とその時、茶筅がクルクルと廻りパタリと倒れた。「ゲッ!」私の背筋に電流が走った。「なんと粋な!こういうものを作る世界に入りたい!」。スタッフタイトルの最後に「監督 松本明」とあった。半年後、私は「必殺」を製作していた京都映画の契約助監督になった。
そのまた数か月後、京都映画の駐車場にBMWの新車が止まった。坊主頭に長い揉み上げ、濃い髭剃り跡、サングラスに高価そうなゴルフウエアの男性が降り立った。BMWのキーをチャラチャラさせ、「おう、元気か?」と製作部に入ってくる。「誰?ヤーさん?」と私は先輩助監督に訊いた。「アホ、松本明さんや」「ゲッ!このヤクザの幹部かと見紛うオッサンが、あの松本明!?」。その後長~い付き合いとなる松本明監督との出会いだった。
当時の「必殺シリーズ」は深作欣二、三隅研次、貞永方久、工藤栄一、蔵原惟繕などの錚々たる映画監督たちが演出していた。その中で松本明監督は、朝日放送社員でスタジオドラマ出身であったが、独特の存在感を放っていた。一言で言えば、監督という枠をはみ出した存在だったのだ。
他のテレビドラマもそうだと思うが、「必殺」の場合も基本的に脚本はプロデューサー(以下P)と脚本家が作っていた。基本的に監督は台本が上がった段階でしか読むことができなかった。そのせいもあってか、「必殺」の現場は台本の変更が当たり前だった。台本通りに撮らない監督が多かったのだ。【Episode16】でも触れたが、「あの監督アホやで。台本通りに撮っとる」と、とんでもないことを言うスタッフもいた。
しかし松本監督の場合は全然違った。なんと、脚本家を指名し呼んできた。そしてゲストスターを自分で決め、その俳優に当て込んで台本を作ったのだ。そのゲストスターも「必殺」では呼ぶのが難しいような津川雅彦、三国連太郎、加賀まりこ、大谷直子など交友関係にある大物スターだった。さらに、彼らのイメージとは異なる悪役(殺される役)などを演じさせた。例えば親友津川雅彦には、それまでの正統派二枚目とはガラッと異なる色事師のワルなどを演じさせた。スターたちもそんな役を楽しんでいた。当り前だが、そんな松本組では台本の現場直しはほとんどなかった。
松本演出は「遊び心」にあふれていた。シリアスな場面でもそれを真正面からは描かず、小道具など使ってより一層インパクトが強くなるように描いた。先ほどの「茶筅クルクルパタン」もそうだ。元締めの表情やセリフで表現するよりも、はるかに雄弁に元締めの驚愕振りと、「仕掛け人」という生業の業の深さを表現していたと思う。
別の回では、ショックを受けた同心(伊藤雄之助)が呆然と街を徘徊する場面で、紐の先に付けた十手を引きずって歩かせた。その十手のカットは、伊藤雄之助の風貌・演技と相俟って、彼の心理状態を際立たせた。
「必殺仕置人」では、捕まった念仏の鉄(山崎勉)が番屋に吊り下げられ拷問を受ける場面。なんと!同心が鉄の坊主頭にキセルの火をポンと載せた!「ギャー」と喚く鉄。モクモクと上がる煙。見ていて思わず笑ってしまったが、水責めや竹刀の叩きよりも遥かに「熱そう!痛そう!」と感じられた。
等々枚挙にいとまがないが、こういった松本演出は友人スターを起用するキャスティングやそれを当て込んでのホン作りと一体になっており、その全てを貫くものが「遊び心」だったのではないだろうか。
ただ、私が京都映画で松本明監督の下で助監督を務めた回数は多くない。ぺーぺーのサードの頃に、ほんの1~2本だったと思う。その後、私はABC以外の作品を担当することが多くなった。同じ撮影所で仕事はしていたが、別作品だったので、すれ違う時に挨拶をする程度の接点しかなかった。
松本監督はその後、Pとしても「裸の大将」「土曜ワイド劇場」「水曜ミステリー9」など多数の作品を手掛けられた。私が京都映画を辞めてからは、ますます松本さんとの接点は遠のいていた。1994年になって、突然「裸の大将」の監督に呼ばれた。驚いた。助監督としても1~2度しか仕事をしたことのない私に、なぜ監督の指名が?
私はその数年前からテレビ番組制作会社東通企画の専属契約になっており、ABC「部長刑事」の演出を担当していた。その美術部長としてお世話になっていたのが北條信之さんだった。北條さんは元々がカメラマンで、実は松本さんとは長くコンビを組んでいた仲だった。その縁で私を推薦してくれたらしい。思いもかけないできごとだった。
「裸の大将」は正しく松本明が大将だった。すべてが松本さんの考えや手の内で行われていた。だからと言って、松本さんが口うるさく指示するわけではない。制作局・関西テレビや主演の芦屋雁之助の意向、ロケ受け入れ自治体の要望など全てを踏まえたホン作りをしていた。予算や日程、自治体に対する協力要請など大きなところはしっかり押さえた上で、後は部下やスタッフに自由にやらせた。他所のプロダクションのようにチーフPが、ロケ現場に張り付くことはなかった。
後に、ザ・ワークスの社長となる霜田一寿(元東通企画社員Pで私とは入社直後に5本の2時間ドラマを作った仲だった)や東阪企画でPとして大活躍した土橋覚や内丸摂子は、松本明さんに「Pの何たるか」を叩き込まれたに違いないと思う。私には「裸の大将」はプロダクションのひとつの理想型に見えた。
私が松本明さんとちゃんと向き合ったのは、それが初めてだった。「必殺」の現場での、助監督サードのペーペーと監督とでは、まともな会話も成り立たなかったからだ。だが、「裸の大将」では、松本Pは演出には全然口を出さなかった。自由にやらせてもらった。私は張り切っていたのだろう、台本以外にいろいろとアイデアを出した。打ち合わせで私のアイデアに異を唱えたのは、スタッフだった。「清はそんなことはしない」。これが彼らの口癖だった。「清」と言うが、「芦屋雁之助(スタッフたちは『師匠』と呼んでいた)はそんなことはしないよ」ということだ。実際、現場で私のアイデアは、「清はそんなことはしない」と、雁之助さんに結構跳ね付けられた。それでも、松本さんは黙って私の挑戦を見ていてくれた。
「裸の大将」の後、松本明さんから電話が掛かるようになった。「昼飯を食いに行こう」「お茶でも飲むか」。5分後にBMWが東通企画の入っているビルの玄関に横付けされた。ほとんどが特別な用事はなかった。世間話をするだけだった。時折、仕事を振られた。「〇〇プロの若い役者に芝居を教えに行ったってくれ」「えー、芝居なんか教えたことありませんよ」「現場で役者に演技指導しとるやないか。あれでええねん」。こういうことが2~3度あったが、いい経験をさせてもらったと思う。
車に同乗していてある時間帯になると、電話が掛かってくる。松本さんは車を走らせたまま、「えい、えい、えい」と、メモをとる。2~3分それが続くのだ。どうも証券会社からの株式市況の報告らしい。横に乗っていて危なかしいが、邪魔くさがりの松本さんは、決して車を止めなかった。
1993年のことだった。例によって電話がありBMWに乗ると、松本さんが言った。「よみうりテレビで吉本のタレントを使って、単発ドラマを作ることになった。オレがやる予定やったが、『裸の大将』と被った。君が撮れ。よみうりテレビの今岡Pとは話をつけてある」。松本明さんの話はいつも急だった。他の仕事を整理してとにかく間に合わせた。それにしても、松本さんの顔の広さには驚いた。関西民放の各局に人脈を張り巡らしていた。

何かのパーティで。前列左から1人目が筆者、2人目が松本明さん
そして、松本さんとの初めての出会いから26年後の1998年、【Episode13】で書いた経緯で東通企画の共同Pとして「土曜ワイド劇場」を制作することになった(私は監督兼任)。それから約10年間、松本Pとの仕事は大変楽しかった。脚本家選びから、キャスティングやホン作り、ロケハンなどの諸準備、赤字にならない予算組み、撮影現場、仕上げ、トラブル対処まで、普通なら面倒と思う制作全過程をPD兼任の私自身が楽しめた。それは、その10間松本Pに叩き込まれた「遊び心」の賜物だと思う。
脚本家選びの基準は、驚いたことに「良いホンを書く脚本家」ではなかった。「いかに一緒にホンを作ってくれるか」だった。N氏は花吹雪シリーズを何本も書いているベテラン作家だったが、「ホンを直したがらない」とO氏に変更した。ホン作りを作家に任せるのではなく、全過程に積極的に関わろう=楽しもうという姿勢だった。
トラブルがあると、すぐに動いた。俳優のスケジュールが突然数日NGになったことがあった。もともと不安を感じていた担当マネージャーのミスだった。だが、対応がはかばかしくない。2人で東京の俳優事務所に押し掛けた。打ち合わせをしたわけでもないのに、どういうわけか2人の役割分担ができていた。口火を切ったのは私だった。私は口調激しく抗議した。「約束が違う。これではスケジュールを組めない。スケジュールミスはこれが初めてじゃない。どういう積りだ。番組を潰す気か!」。その間、松本さんはあの風貌でだまって見ている。相当不気味だったに違いない。最後に松本さんが「まあまあ、それぐらいで」と私を止めて言った。「それで、誠意はどう見せてくれるのかな?」。凄い迫力と貫禄だった。スケジュールの差し戻しとギャラの減額を事務所が申し出た。
これも、俳優のスケジュールがNGになった一件。「花吹雪美人スリ三姉妹」で、三女役の辺見えみりの事務所社長が駆けこんで来た。明日で都内ロケを終え、明後日は伊豆に向けて出発するという日だった。「えみりが掛け持ちしている番組が悪天候で撮り切れなかった。明後日夕方までスケジュールが欲しいと言っている。何とかならないだろうか?」。松本さんが言った。「なんとか考えたろか」。2人で考えた。台本上は3姉妹揃って東京を出発し、列車で伊豆の伊東まで行き。謎の手掛かりを探しながらホテルに宿泊するということになっていた。
まず、東京のえみりのアパート。長女の萬田久子と次女・杉本彩が、伊豆旅行に同行しようとするえみりに「大学の授業をちゃんと受けてからいらっしゃい」と、別行動にする。これは、明日撮ればいい。だが、このまま遅れてえみりが夜に伊東の旅館に合流したのでは、芸がない。そこで、長女と次女の部屋に悪が忍び込み、二人が「あわや!」という事態になるサスペンスシーンを新しく作った。その「あわや!」に登場して二人を助けるのが、勿論えみりだ。お陰で、ちょっと中だるみの感があった、そのシークエンスが引き締まった。転んでも唯では起きない。苦境を利用してプラスに転化するイズムが私たちにはあった。ある意味、ピンチを楽しむしたたかさが松本さんのお陰で身に付いた。以来、スタッフが言うようになった。「皆元さんは、トラブルと俄然張り切りますね」
松本さんは仕事そのものを作ることや、制作予算を獲得することにも手腕を発揮した。2006年春、突然電話があった。「旭川観光大使になった津川雅彦と旭川市長に逢っている。市長が旭川を舞台にテレビドラマが作れないかと言っている。旭山動物園のカバのプールに死体が浮いてもいいそうだ。すぐに企画書を作れ」。これが当時人気絶頂の旭山動物園を舞台にした、テレビ東京・東通企画制作「水曜ミステリー9~シロクマ園長命の事件簿」の発端だった。
さっそく脚本家・田子明弘さんと旭川に飛び、当時の小菅園長に取材して企画を作り、テレビ東京に提出した。主役は西郷輝彦。さすがに、カバのプールに死体は浮かべられなかったが、旭川市と旭山動物園の協力で、それまでにない異色のミステリーができたと思う。
「裸の大将」シリーズでの松本Pは、ロケ場所が決まると現地に乗り込み自治体と交渉したそうだ。「見所を織り込んだドラマを作るから臨時予算を組んでくれないか?」と。勿論、臨時予算は宿泊費などで現地に落ちるのだが、その分ロケの日程にも余裕が出来、主演の芦屋雁之助に無理をさせずにすんだという。全87本の殆どがそうやってできたというのだから、すごい行動力・交渉力だ。
ここで、松本明さんのアウトローぶりを示すエピソードを披露しよう。少し古い話だが、1969年松本さんがまだ若手ディレクターだった頃、朝日放送が「悪一代」を制作した。当初主演の勝新太郎はテレビスタッフが制作するスタジオドラマへの出演を頑なに拒んでいた。プロデューサーや重役が説得しても首を縦に振らない。そこで松本さんが交渉に赴いた。若手のディレクターでしかない松本さんが、勝新太郎の前で言った。「百万掛けて、一発勝負をしよう。俺が勝ったら出演してくれ」。何の「勝負」だったかは不明だが、会社の伸るか反るかの場面にも「遊び心」を持ち込むアウトロー松本明らしいエピソードだと思う。
一方で松本さんは大変に面倒見のいい人だった。仕事の途切れたスタッフに声を掛け、顔の広さを生かして仕事の世話をしていた。また、監修を引き受けた「部長刑事」では、後輩監督に気軽に感想を語り、アドバイスもよくしていた。
「裸の大将」後半の現場スタッフは、どこかの会社に依頼して集めたスタッフではなかった。松本さんの個人的な付き合いのあったスタッフを中心として編成されたものだった。キャメラマン・照明技師・録音技師は京都映画出身の藤井哲也・南所登・山口勉だった。美術は毎日舞台出身の山崎博。装飾は高津商会の中野勝。なんと、私の京都・大阪での仕事仲間ばかりだった。このメンバーが最後まで「裸の大将」のスタッフだった。
松本さんは最後まで自分の生活スタイルを崩さなかった。最新モデルのBMWを乗り続け、ヨットを所有し、最低週一度のゴルフを欠かさず、競馬に大金を注ぎ込むことをやめなかった。松本明にとってはそれらすべてをやり続け、監督やPも涼しい顔でやりきる。それが彼のダンディズムであり「遊び心」を満たす生き様だったのではなかろうか。
今年の4月に松本明さんの3回忌ということで、「裸の大将」のスタッフを中心に9名が京都に集まった。一昨年10月、京都での「松本明さんを勝手に偲ぶ会」には18名が参加した。それぞれの半数以上が東京から駆け付けた。いかに松本明さんが「裸の大将」のスタッフたちに敬愛されていたか分かる。
大先輩でもあり、我が師でもあり、よき仕事仲間でもあった松本明監督のご冥福をお祈りします。
【Episode17】The End
※【Episode18】は来週水曜日(7月24日)アップ予定
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
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