【Episode18】
助監督になる、その後
──京都映画での日々
その1
初めての京都映画作品「サスペンスシリーズ」
1973年7月京都映画で毎日放送(MBS)・松竹制作「サスペンスシリーズ~怪談・同棲殺人事件」と「同、怪談同棲・落とし穴」の2作に助監督サードで付くことになった。それまでの経緯は【Episode12】
で書いた。この「サスペンスシリーズ」は、当時からえらく急に湧き上がった企画のように感じられていたが、今回少し調べてみてその経緯が分かった。
「サスペンスシリーズ」というのは、元々MBSが内外の名作を元に「追いつめられた者の異常心理を描く」ドラマとして企画したものだった。制作方式はスタジオドラマ。第1作は原作ウィリアム・マッギバーン「ゆがんだ罠」で、脚本が隆巴、出演が仲代達也、田村亮、村松英子。第2作は原作がコーネル・ウールリッチ「恐怖」、脚本迫間健、出演は田村正和、丘みつ子、吉田日出子だから相当に気合が入っている企画だったようだ。演出は瀬木宏康、西前允男などMBSのディレクターが務めた。原作も私は読んだことはないが、アメリカでは有名な人気作家だったらしい。
このMBSのように、このころはまだ関西のテレビ局もドラマ制作に前向きだった。朝日放送は「必殺シリーズ」以外にもレギュラーの自社制作スタジオドラマを制作していたし、「東芝日曜劇場」、「部長刑事」なども制作していた。関西テレビやよみうりテレビも自社制作のドラマがあって、話題作も生み出したりして、けっこう活況を呈していた。
スタジオドラマからフィルム作品へ
だが、「サスペンスシリーズ」は視聴率が上がらなかった。10本撮った後、解決策として松竹や東映などに外注に出すことになった。当時のVTRはクリア過ぎて、サスペンスの雰囲気を上手く伝えることができなかったのかもしれない。今度は撮影所なので、フィルムでの制作だ。外注の5本のうち2本が松竹制作だが、どうも大船ではスタッフやセット繰りがつかず急遽京都映画で入ることになったらしい。
脚本は2本とも石森史郎。当時、「約束」「旅の重さ」「同棲時代」など話題作を連発していたが、正直2本ともシナリオはそんなに良いとは感じられなかった。演出も2本ともに貞永方久監督。「黒の斜面」「嫉妬」「影の爪」など、女の情念を描いたサスペンスドラマを得意とする、松竹気鋭の監督だった。元々松竹京都撮影所に所属していたが、閉鎖になり大船に移動したという経歴を私たちに話してくれた。その頃は日活も撮影を再開しており、日活へ移った助監督もいたらしい。松尾昭典や神代辰巳などがそうだという。
もう一つ面白い話をしてくれた。貞永さんが入社したころ、松竹は助監督の採用試験を演出部がやっていたらしい。貞永さんは筆記試験には合格したが、過去に結核を患ったことがあったので健康診断に不安を感じていた。そこで先に入社していた九州大学先輩の梅津明治郎さんに頼んで、梅津さんのレントゲン写真を松竹に提出して合格したという。当時大人気の助監督試験でもそんなことがまかり通っていたとは驚きだった。
チーフ助監督は東京の人だった。残念ながら名前を失念してしまった。Aさんとしておこう。準備の記憶はほとんどない。多分、クランクイン直前に私は採用されたのだと思う。セカンドは京都映画の人だということだったが、準備には間に合わなかった。多分Aさんが一人で準備をしていたのではないだろうか。Aさんとの担当パートの引継ぎも記憶にない。そんな状態で撮影初日を迎えた。
都築一興(イッコウ)との出会い
撮影初日は八瀬の遊園地ロケだった。水槽のある水族館みたいな施設の中が最初の現場だった。そこで初めてセカンドの都築一興を見た。ロケバスには乗らずに、小道具のトラックに乗って来たらしい。小柄で極めて細身、薄いサングラスを掛けた私と同年配の男だった。彼は京都映画のスタッフからは「イッコウ」と呼ばれていた。撮影中は水槽の魚を撮影に都合の良い位置に集める仕事に集中していた。妙に魚が彼の指示に従った。正直、「へんな奴だな―」と思っていた。
彼は彼で、私の仕事振りを見て、「あ、コイツは素人や」と瞬時に思ったらしい。俳優のアップサイズの撮影でカチンコを打つ時、カチンコが震えていたらしいのだ。それまでの東映ではアフレコ作品が多く、シンクロでカチンコを打った経験が乏しかったのだ。実は松竹芸能の佐久間博さんが私を京都映画に紹介するとき、「東京でバリバリやっていた助監督」と大ボラを吹いたらしい。おかげで私は京都映画で仕事にありつけたのだが、ここで一挙に化けの皮が剥がれてしまったわけだ。

その当時の都築一興
だが、私とイッコウはすぐに仲良くなった。都築一興は昭和23年3月四国の八幡浜の生まれ。私とは同学年だ。大学は立命館。現役で入学したが、ご丁寧に6年間も掛けて卒業していた。大学時代は映画研究部に所属していたという映画青年だ。彼の住む東映京都撮影所北側・常磐のアパートの大家が、偶然にも大映の大部屋俳優さんだったという幸運に恵まれた。重ねて俳優さんの二人の息子がシナリオライターとキャメラマンという幸運にも恵まれた。その縁で立命館に入ってすぐにキャメラ助手のアルバイトを始める。あの大作「トラトラトラ」の撮影にも、キャメラ助手で付いたというから、私から見れば百戦錬磨の大ベテランだった。だが、本人は一向にそんな素振りをみせない。仲良く遊んだり仕事をしながら、私は仕事を覚えるという幸運に浴した。なんと、イッコウの弟も京都映画にいた。雅人だ。その頃、必殺の撮影部チーフをしていた。後にキャメラマンに昇格し、東映に移ってからは大変な売れっ子キャメラマンになった。
首吊りの態勢でウトウト
さて「怪談・同棲殺人事件」だ。狭いアパートで新藤恵美と同棲している水谷豊が、バイト先の幽霊屋敷で女(川村真樹)の首吊り死体を発見するという筋立てだった。タイトルに「怪談」と付くだけあって、ナイトシーンが多かった。さらに、準備したものが監督の気に入らず、撮影待ちが多かった。徹夜になることもしばしばで、スタッフはヘトヘトだった。私はなにも分かっていないサードだ。訳も分からず待つほど疲れることはない。
川村真樹という女優の首吊りシーンだった。夜中の2時か3時ごろだった。幽霊屋敷の暗がりの中。私は川村真樹の乗る踏み台を抑え、イッコウは二重の足場の上で川村真樹の首に掛けたロープを握っていた。何かが足らなくて取りに行っていた待ち時間だったと思う。その体勢のまま、私はついウトウトした。フッと気が付くと、足場の上でイッコウもロープを握ったままウトウトしている。「イッコウ」と小さく呼びかけた。ハッと目を覚ますイッコウ。2人の間では、川村真樹が恐怖の目で私を睨んでいた。
貞永監督は小道具に拘った。重要な小道具はなかなかOKが出なかった。「重要な小道具は、セット一杯に匹敵する」が口癖だった。ただ、具体的な指示が無いのには困った。また、ものすごく考え込むタイプだった。しばしば「ちょっと待って」と現場でも考え込んだ。監督の作る作品に心酔しているスタッフなら良いが、そうでない場合は現場の雰囲気が悪くなる。この経験は、後々監督になった時の教訓になった。
私は現場には必ずコンテを作って臨んだ。「ABどちらが良いか?」と迷うことがあっても、「今回はA」「Bは次回」と割り切るようにした。これは、たまたま私が監督に昇格した後も、監督機会が途絶えなかったという幸運に恵まれたので、できたことなのだが。もっとも、Bを使う次回が来ることは無かった。リメークでもしない限り、映画の場面がまったく同じということは無いのだから。
不機嫌だった中野良子
「怪談同棲・落とし穴」は中野良子・中野誠也・荻島真一などが出演していた。中野良子は当時の若手の売れっ子女優だった。私もイッコウも彼女に会うのを楽しみにしていた。彼女の出番は京都ではなかった。すべてが東京若しくは大船だった。
大船での初日、彼女は1時間遅れて現場に来た。遅れたにもかかわらず、スタッフに謝るでもなく車から出てもこない。私たちはイライラした。開始時間から2時間遅れでやっと車から出て来た。詫びの言葉もない。不機嫌な表情のままだった。その態度に、私もイッコウもムカムカした。当代きっての人気美人女優だったが、熱はいっぺんに冷めた。
このドラマ以後、長く彼女とは仕事を一緒にすることはなかった。その後、彼女は「君よ憤怒の河を渡れ」に出演して国際的な女優になった。何十年も経った2005年頃、私の監督する毎日放送帯ドラマ「デザイナー」に出演することになった。私はやや警戒して現場に臨んだ。37年前のことを忘れていなかったからだ。だが、杞憂に終わった。彼女は非常に気さくで素敵なおばさんに変身していた。「嘘だろう」というぐらいの豹変ぶりだった。きっと37年前の彼女は疲れて疲れ果てていたに違いない。私はそう思った。
散々だった京都映画第2作
「怪談同棲・落とし穴」は私とイッコウには頭にくることがいっぱいあった。カメラマンが私たちを人間扱いしてくれなかったからだ。東京青山1丁目のショッピングセンター表での撮影だった。キャメラマンは俯瞰で雨降らしの歩道を撮るという。何故かチーフのAさんは不在でイッコウと私で走り回った。なにしろ不案内な土地だ。私たちはロケハンもさせて貰っていない。水汲み場もどこにあるか分からない状況で、キャメラマンに怒鳴られ続けた。「雨が足りない」「エキストラを通せ」。エキストラなんか呼んでなかった。急遽、通行人の女性に出演して貰うように頼んだ。なん度かテストして水もなくなり、私とイッコウは大きなバケツを持って、水汲み場へ走った。水の入った重いバケツを抱えて現場に戻ったら、すでに撮影は終了していた。濡れた道路のままで雨降らしをせずに本番にいったという。頭にきたイッコウと私は、ショッピングセンターの二階から、歩道に向けて水の入ったバケツを放り投げた。
てっちゃんとの出会い
「サスペンスシリーズ」の後、ポツンと暇ができた。7月末のことだった。キャメラ助手藤井哲也(てっちゃん)の車でイッコウと3人で信州に行った。てっちゃんは180cm以上の長身で、役者にしたいぐらいの美男子だった。女優だけではない。三輪明宏にも可愛がられるというモテモテぶりだった。我々助監督と違って、撮影部のチーフだから泥まみれになることもない(助監督なのにイッコウだけはいつも小奇麗な恰好をしていたが)。計測器だけを胸から下げて、こわもての照明部にも、「(光量を)もっとくれ」と遠慮なく要求していた。持てないわけがない。でも、てっちゃんの撮影知識は京都映画でピカイチだった。必殺のレジェンド石原興キャメラマンよりも正確で詳しかった。元々日産の整備士だったというから、メカには強かったのだろう。

信州旅行中のスナップ。左側の足の長い男が藤井哲也。右が筆者。
元々イッコウとてっちゃんは仲が良かった。方やスタッフ1の長身、一方は女性物のシャツがピッタリ似合う華奢な男。凸凹コンビはてっちゃんの車でいろんなところへ行っていたらしい。しかしその夏から、私を交えた3人組が出来上がった。てっちゃんとの出会いは、いろんな意味で私の活動屋人生に影響を与えていった。
切っ掛けはなんだったか忘れた。とにかく「行こう」と誰かが言い、すでに夜になっていたが出発した。行き先は誰言うともなく「信州」だった。夏なら北海道か信州と相場が決まっている。徹夜で走り、南アルプスあたりで夜明け近くなった。助手席でウトウトした。フト気が付くと、車が蛇行している。運転席を見るとてっちゃんがウトウトしていた。私が叫び声を上げて事なきを得た。木曽駒高原だったと思うが、車を止めて車中で仮眠を取った。
翌日は雨だった。白樺湖も菅平も霧で何にも見えなかった。でも、何にも束縛されない私たちの旅は楽しかった。北陸に抜けて、もう1泊ロッジかなんかに泊まって京都に帰った。50年後の今でも妙に鮮明に覚えている夏旅だった。

信州旅行中、雨中のスナップ。右側がイッコウ、左側が筆者
あの「必殺仕置人」に付く
旅行から帰るとすぐに、私とイッコウはあの傑作「必殺仕置人」の助監督に付けられた。B班が立てられ、その中に入れられたのだ。イッコウがセカンドで私がなんとフォースだ。私の「必殺」デビューだった。てっちゃんはA班に付いた。
1時間ドラマの製作は実数で平均6日ほど掛かっていた。それに1本ごとに打ち合わせ・ロケハン・準備の1日と休みの1日を加えると、どうしても放送に追われしまうことになる。おまけにその頃は、一人「仕置=殺し」をするたびに徹夜をしていた。それが3人分だから、1話で少なくとも3回徹夜することになる。とにかく「仕置=殺し」は台本通りには撮らなかった。スタッフも俳優も「ああしたら」「こうしたら」とアイデアを出すものだから、時間が掛かって仕方がないのだ。それだけ「仕置=殺し」のシーンに力を入れていたということだ。

傑作「必殺仕置人」完成記念写真。前列右端が津坂匡章、2人目が野川由美子、3人目が沖雅也、4人目が藤田まこと、5人目が山崎努、6人目が照明助手中山利夫。2列目左端が都築一興、二人目が撮影助手セカンド喜多野彰、3人目が撮影助手チーフ都築雅人、4人目が工藤栄一監督。3列目左から2人目が筆者。最後尾左端が照明技師の中島利男、2人目がキャメラマン小辻昭三、3人目がチーフ助監督高坂光幸。
濃密な「必殺」現場
「必殺仕事人」の現場はいままでのどんな現場とも違った。とにかく濃かった。スタッフ間の緊密度。俳優さんとスタッフの距離の近さ。監督の演出に対するスタッフや俳優の遠慮のなさ。どれもが息詰まるほど濃密だった。「大ヒット作を作り続けているとこうなるのか」と思った。スタッフが「俺たちは新しいことをやっているんだ」という気概に溢れていた。その筆頭がキャメラマンの石原興だった。驚くほど若かった。そのころ33歳。とにかく口八丁手八丁。アイデアがどんどん湧いてくる。大概の監督は私たちの目から見ても負けていた。
スタッフは平気で芝居に口を出した。芝居の段取りをスタッフでやることもあった。「こうか?」と照明助手の中山利夫がやってみせる。驚くほど上手かった。撮影や照明的なポイントを抑えつつ、きっちり芝居もこなしていた。スタッフは監督の演出に納得しないと動かなかった。「必殺仕置人」では3人の監督に付いたが、スタッフが無条件で従ったのは工藤栄一監督だけだった。
工藤さんはとにかくエネルギッシュだった。俳優さんを動かすのではない。自分が動いてみせるのだ。「ええか、見とけよ!こうやるんや!」。そう言って抜き身を振り回して(竹光デス!)セットやオープンを走り回った。その間に絡む連中に指示を飛ばす。とにかく段取りっぽいことが大嫌いだった。「ああ斬って、こう避けて」と言うような手順は、殺陣師が喋り始めるや否や「そんなもん、アカン」と一蹴された。あとは工藤さんの独壇場だった。
私たちも走り回った。疲れたが撮影は楽しかった。工藤演出に目を見張り、唸り続けた。とにかく工藤組は時間が経つのが速かった。気が付いたら夜が白々と明けていたということもシバシバだった。
後退した必殺シリーズ
非常に濃い濃い「必殺仕置人」の現場に付いた後、1973年9月新番組「助け人走る!」のサードに付いた。この企画は端から腰砕けの企画だった。「必殺仕置人」の第7話(工藤栄一監督)で放送を見ていた男が殺人を犯すという事件が起こった。それをマスコミが「TV『必殺仕置人』に興奮 若い女性を殺す」などと報道した。その後も番組を非難する報道が相次ぎ、ネットを組んでいたTBSは放送中止を申し入れるという騒ぎになった。傑作「必殺仕置人」は計画していた放送延長を断念し、ABCと松竹は批判の矛先を躱す新企画を立ちあげた。「助け人走る!」というタイトルからして腰が引けていた。まことに意気の上がらない企画だったが、私は2~3本で離れることになった。
家喜さんとの出会い
次に付いたのは、「真珠の詩(?)」というドラマだった。MBS・放送映画制作の大阪府同和対策事業で反部落差別の教育ドラマといった性格のドラマだ。大阪府の和泉市の同和地区に泊まり込みで撮影した。主演は柴田美保子、監督は貞永監督の先輩・梅津明治郎さん。チーフは家喜俊彦さんだった。家喜さんとの長い付き合いの始まりだった。この作品はドラマの出来そのものよりも、長期宿泊ロケというのが楽しかった。毎日撮影が終わると地元の人も参加しての酒盛りになった。家喜さんや大道具のおっちゃんにいろいろと教えて貰いながら楽しく飲んだ。

家喜俊彦さんのスナップ。当時の家喜さんの写真が殆ど残っていない。
筆者の後ろにいるのが家喜さんだが、これは大分後になってからの写真と思われる。
イッコウは「真珠の詩」には付かなかった。「サスペンスシリーズ」の装飾担当だった安田さんに誘われて、自主映画「16歳の戦争」に参加した。秋吉久美子の初主演作だ。助監督ではなく、小道具の助手としての参加だった。
「暗闇仕留人」と「おしどり右京捕物車」
次に付いた作品がなんだったかがはっきりしない。1974年6月29日スタートの「必殺シリーズ第4弾~暗闇仕留人」の頭1~2本に付いた記憶は確かにある。浅丘ルリ子と結婚して間がない石坂浩二が主演だったのでよく覚えている。ワルを仕留めるのに便所の床下から延び上がって顔を斬るという殺し方に、「天下の二枚目が出てくる場所が少し汚すぎるのでは」と思った記憶がある。
殆ど同時期(1974年4月4日)に放送が始まったのがABC・松竹制作「おしどり右京捕物車」だ。この作品には私は全話サードとして付いている。私の記憶では、「暗闇仕留人」を1~2本やってから「おしどり右京」に付いた筈なのだが、放送開始時期は「おしどり右京」の方が3ヵ月近く早い。Wikipediaによると、当初「必殺シリーズ第3弾~助け人走る!」の後番組は「おしどり右京」に決まっていたそうだ。例の殺人事件の影響なのか?「おしどり右京」は私にとって大変に思い出深く愛着のある作品だが、必殺シリーズのような反社会的反権力なインパクトのある作品ではない。おそらく、ABCは一旦はTBSの圧力に屈して必殺シリーズを諦めようとしたのではないだろうか。
Wikipediaにはこう書いてあった。ABCの山内Pが、中村主水をこのまま終わらせてしまうのが惜しいと、急遽「暗闇仕留人」を企画し、「助け人走る!」の後番組に押し込んだ。そのあおりで「おしどり右京」は別枠で放送することになったと。するとこういうことではないだろうか?我々は6月29日の放送に向けて、2月あたりから「おしどり右京」の撮影に取り掛かっていた。数本撮った後で、急遽「助け人走る!」の後番組が「暗闇仕留人」に変更になった。その頃、「助け人走る!」のスタッフはまだまだ撮影中だ。このままでは放送に間に合わなくなる。そこで、我々「おしどり右京」のスタッフが「暗闇仕留人」の1話2話を撮った。なんだかしっくりこないが。
「おしどり」チームの結成
さて「おしどり右京捕物車」だ。主演は「木枯らし紋次郎」の中村敦夫。妻役はジュディ・オング。それに与力役の前田吟。小坊主役の下条アトムなど。中村敦夫さんは、当時俳優座造反グループのリーダーと目されていた。そういう意味では私やイッコウの価値観と近かった。私たちはすぐに中村敦夫ファンになった。
スタッフも後の仲間となるメンバーが揃ってきた。キャメラマンが藤原三郎(サブちゃん)。撮影部チーフに藤井哲也(てっちゃん)。セカンドに喜多野彰。照明技師が染川広義。助手に南所登(南ちゃん)。録音部助手に広瀬浩一(ワカ)と田原綱重。助監督チーフが家喜俊彦。いよいよ私たちのチームの出発だ。
To Be Continued
※次回は来週水曜日(7月31日)アップ予定
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

コメント
コメント一覧 (1)
東通企画制作の作品を監督されていた方ですね!
ヨウちゃん
が
しました