【Episode18】
助監督になるその後
──京都映画での日々
その2
「おしどり」チームの結成
1974年2月ABC・松竹制作「おしどり右京捕物車(放送1974年4月4日~9月26日)」に付いた。主演は「木枯らし紋次郎」で一躍トップスターに躍り出た中村敦夫。妻役は青春ドラマなどで活躍していたジュディ・オング。それに与力役に「男はつらいよ」の前田吟。小坊主役の下条アトムなど。
物語はこうだ。悪をお縄にするためには手段を選ばない北町奉行所与力神谷右京(中村敦夫)は、ワルの罠に嵌って下半身不随になってしまう。一時は自暴自棄に陥るが、妻・はな(ジュディ・オング)の献身的な励ましとライバルだった与力秋山左之助(前田吟)の友情に支えられ、立ち直る。左之助の依頼により、言わば奉行所の下請けとして犯罪と対決することになる。右京は小坊主観念(下条アトム)が作った手押し車に乗り、ワル退治に乗り出していく。手押し車を押すのは、もちろん愛妻・はなだ。
スタッフも後のチームになるメンバーが揃ってきた。キャメラマンが藤原三郎(サブちゃん)。撮影部チーフに藤井哲也(てっちゃん)。セカンドに喜多野彰。照明技師が染川広義。助手に南所登(南ちゃん)。録音部助手に広瀬浩一(ワカ)と田原綱重。助監督チーフが家喜俊彦、セカンドが都築一興(イッコウ)、サードが私。いよいよ私たちのチームの門出だ。
小島清文のこと
テレビドラマデータベースを見て驚いた。「おしどり右京」の制作主任が小島清文となっていた。私もイッコウも大変にお世話になった人だ。この後、製作部次長になる。管理職には珍しく、常にスタッフ側に立ってくれる人だった。撮影所は入る仕事のタイミングによって、1~2ヵ月仕事が無くなることがある。私たちは月決め契約だったので、そんな時は失業することになるのだ。それでも小島さんはいろんな理由を付けて給料を払ってくれた。イッコウは「オープンセットの整理」の名目で給料を貰ったという。私などは、小島さんの斡旋で東映や大映に何度か応援に行くことができた。おかげで、京都映画しか知らない他の助監督に比べて、東映や大映にも人脈が広がり、後々役に立った。小島さんは佐々木康之Pとも仲が良かった。これ以降2人は、私にとってチームのメンバーと並んで大恩人となる。

「おしどり右京捕物車」のロケスナップ。右端が筆者。その左隣りで立っているのが藤井哲也。その手前キャメラを覗いているのが藤原三郎。その左が喜多野彰。乳母車に乗っているのが中村敦夫。その左がジュディ・オング。馬に乗っているのが前田吟。
さて「おしどり右京」は監督陣も三隅研次、工藤栄一、蔵原惟繕など錚々たるメンバーだった。三隅監督や工藤監督の演出振りは【Episode9】や【Episode4】で書いたので、そちらを参照して頂きたい。
風雲児中村敦夫
主演の中村敦夫さんは、俳優座造反グループのリーダーだった。造反グループには原田芳雄、市原悦子なども加わっていたのだから凄い。「おしどり右京」の数年前に、造反グループが主張した「はんらん狂騒曲」の上演を巡って劇団上層部と対立し、自主公演を強行した。その後、原田芳雄や市原悦子らとともに、俳優座を退団した。そういう意味では私やイッコウの価値観に近かった。私たちはすぐに中村敦夫ファンになった。
北海道で大西部劇!
敦夫さんとは撮影の合間にいろんな話をした。びっくりしたのはある企画だった。敦夫さんが私とイッコウに話したのは、北海道で五稜郭の残党が馬車に御用金を乗せて脱走する。それを新政府軍の騎馬隊が追うという西部劇紛いの企画だった。明日からそのシナハンの為に映像京都のスタッフたちと北海道にシナハンに行くという話だった。私とイッコウはその企画が実現したら是非スタッフに加えて欲しいと頼んだ。敦夫さんは快諾し、北海道へ旅立った。
10日後、敦夫さんが戻ってきた。「どうでした?」と私たちは期待を込めて訊いた。敦夫さんの表情は冴えなかった。敦夫さんによるとその企画は真っ赤な詐欺で、詐欺師に敦夫さんも映像京都も騙されたという話だった。私とイッコウはキツネにつままれた思いだった。こうして蝦夷大西部劇の夢はあえなく消えた。
蝦夷大西部劇詐欺事件の顛末
実はこの話は、それから20年後にひょんなことから詳しい顛末を聞かされることになった。私が京都映画を離れて東通企画の契約になってからだ。1994年、私はABC・東通企画制作「花吹雪女スリ三姉妹」のシナハンで山形県に行った。シナリオライターは中村勝行さんだった。勝行さんは中村敦夫さんの弟だ。「必殺シリーズ」や「土曜ワイド劇場」などの売れっ子脚本家だった。シナハン初日の夕食の時だった。何かで詐欺師の話が出て、そこから思い出したように勝行さんが言った。「実は20年前に敦夫と私、それに映像京都のスタッフが詐欺にあったことがある」と話し出した。敦夫さんが私たちに話した一件だ。
勝行さんの話では、プロデューサーを名乗る男が映画のプロットを持って現れたという。映像京都に先に現れたか中村敦夫さんの事務所に現れたのかは聞き漏らした。とにかく、そのプロットはこうだ。明治維新初年の函館戦争末期、五稜郭の残党が幕府軍の軍資金をもって馬車で北海道原野を逃走、共和国樹立を目指す。それを追う新政府軍の騎馬隊や盗賊団と西部劇のような活劇を繰り広げる。こういった内容だったらしい。
話はとんとん拍子に進み、その某Pの提案で敦夫さんを筆頭に映像京都のスタッフが北海道にシナハンに行くことになった。勝行さんも同行した。費用は某P持ちだった。敦夫さん一行は「紋次郎」人気もあって、各地で大歓迎を受けたらしい。毎晩歓迎会が開かれ敦夫さんたちはたらふくご馳走になった。そして、シナハンの最終日の朝、その某Pはホテルから姿を消した。敦夫さんたちは不審に思いながらも、「先に帰ったんだろう」とあまり気にしなかったらしい。東京に帰って数日後、北海道の現地の人々から敦夫さんの事務所に連絡があった。某Pから「東京へ帰ったらすぐに連絡すると言われたが、連絡がない。どうなっているのか?」。よくよく事情を訊くと、その人たちは歓迎会で某Pから映画への出資を持ち掛けられ、結構な金額を某Pに渡していたらしい。敦夫さんや映像京都サイドの被害は無かった。
結局、敦夫さんや映像京都のスタッフたちは、某Pの詐欺の広告塔に使われたことになる。勝行さんがしみじみ言った。「いま思っても某Pの企画は面白かった。彼自身ある段階までは、本気でその映画を作る気ではなかったのだろうか?金が集まり過ぎて最後の最後に逃げることにしたような気がする」。犯人はいまだに捕まっていないそうだ。
俳優の枠をはみ出す敦夫さん
ある時、敦夫さんが私たちにある作品を観て欲しいと言った。京都映画で観るのは差し障りがあるということなので、太秦の録音スタジオを借りて観た。かなり乱暴なラッシュフィルムだった。内容はかなり過激。実は「おしどり右京」の1年前に、敦夫さんは関西テレビの「追跡」という作品の主演を務めていた。その作品の15話「汚れた天使」が突然放送中止になった。制作会社「CAL」・「仕事」にも監督の唐十郎にも無断の処置だった。内容が過激すぎるという理由だった。制作会社や唐十郎はもちろん、主演の敦夫さんも抗議したが関西テレビは応じなかった。「追跡」はその2週間後で打ち切られた。敦夫さんたちは関西テレビの横暴を訴えるために、「汚れた天使」のラッシュフィルムを持ち出し、編集して心ある観客に見せるという活動をしていたのだ。敦夫さんはあのころから、俳優という枠にはまりきらない人だった。
どんなストーリーなの?
一方、敦夫さんの芝居に対する姿勢はややアバウトだった。クランクインから数本経つと、新しい話に入った時に敦夫さんは台本を読んでいなかった。そして私やイッコウに「どういうストーリーなのか?」と訊いた。私たちは衣装部からセットに向かう途中でストーリーの概要を話し、「いまからはそれのこの部分です」と台本を示した。それでも現場では問題なく芝居をこなしていた。敦夫さんのその後の活躍の幅を考えたら、役者として成功することにあまり重きを置いていなかったような気もする。
ムチ師イッコウ
敦夫さん演じる神谷右京の武器はムチだった。小道具の革のムチは腰がなく扱い難かった。ムチの操作はイッコウがやった。前のカットで敦夫さんがワルに向かってムチを振るう。次のカットで、画面外からイッコウが振るったムチがワルの刀を絡め取ったり、顔を打つという段取りになる。どういう訳か、殺陣師の美山晋八(しんぱっちゃん)よりもイッコウの方がムチ扱いが上手かった。そして、その練習台になるのが私だった。ワルの首にムチが巻き付くというカットでは、俳優さんにムチを振るう前に私が俳優さんの位置に立ち、顔を台本で覆って後ろ向けになる。イッコウは私の首に上手く巻き付くまで練習するのだ。
ジュディ・オングとのこと
中村敦夫とジュディ・オングは2人とも語学が達者だった。敦夫さんは元々東京外国語大学のインドネシア語科だし。ハワイにも留学していた。ジュディは台湾出身なので中国語・台湾語・英語が得意なのは予備知識として知っていた。2人が英語で話すのは日常から目にしていたが、ある日、聞いたことが無い言葉で喋っていた。何語なのか訊くとスペイン語だという。なんとも国際的な夫婦だった。
ジュディ・オングとも私たちは仲良くなった。ジュディ・オングは下半身不随になった夫を運ぶために、車椅子ならぬ手押し車を押すのが演技の重要な部分を占める。車輪は小さいし、敦夫さんは巨漢だ。ロケ現場は凸凹だったり、柔らか過ぎる場所だったりした。それでも手押し車を演出意図通りに動かさなければならない。ジュディの演技の手助けをし、どうやって手押し車を上手く動かすかを考え準備するのが、演出部の大きな仕事だった。どうしても撮影中、ジュディとの距離が近くなる。
私とイッコウはジュディを誘っててっちゃんの車でよく食事に行った。大体が北白川や北山通りの店だった。イッコウもてっちゃんもそういう店を良く知っていた。私と知り合う前に、2人でよく行っていたからだ。
ジュディはスターらしくない気さくな女の子だった。スタッフにも溶け込み、現場を明るくした。ジュディは手押し車を押したり、殺陣のシーンでは急に向きを変えて走ったりするような芝居もある。そういった毎日の力仕事で肩のあたりが逞しくなった。私たちは「ジュディ・コング」とか「ジュディコン」とか呼んで揶揄った。ジュディはそれにも笑って応えていた。
そんなジュディは、「おしどり右京」の後、「必殺からくり人」「新・必殺からくり人」にもレギュラー出演して、京都映画の常連俳優だった。だが、1979年「魅せられて」が大ヒットして歌手業が忙しくなり、しばらくはドラマから離れるという状況になった。
ホン待ち旅行~イッコウと2人でラブホテルに
イッコウの手帳によると、「おしどり右京」の撮影の合間に、2人で旅行したことが記してあった。1974年3月6日というから、クランクインして約1ヵ月後ということになる。思い出した。たしか、撮影所でホンを待っていると、夜になって「ホンができない。明日も撮休」の知らせが入った。ホンのできない撮休ほど気楽なものはない。ホンが無ければ準備のしようがないからだ。夕食を採った後、2人でアパートに向かっていた。私たちのアパートは東映撮影所の北と南にあったので、京都映画からは同じ方向に帰るわけだ。夜9時を回っていた。急にどちらからでもなく、「旅に出よう」と言い出した。
取り敢えずそのまま、2人で京都駅に向かった。その時間、東に向かう長距離列車は夜行列車しかなかった。信州行に飛び乗った。スキー客で一杯だった。雪山に行くには軽装過ぎたので、名古屋で降りた。時間は深夜の1時。駅裏の怪しげな街を二人で歩いた。ポン引きに声を掛けられた。とにかく泊まる所を探さなくてはいけない。目に付いたのはラブホテルだった。格安の値段だった。男2人でも泊めてくれるという。背に腹は代えられないので泊まることにした。シャワーは透明なガラス張りだし、当然ダブルベッドだ。枕元の板戸を開けると、驚いたことに鏡張りだった。なんだかおかしかった。2人で大笑いした。
翌日はイッコウが「16歳の戦争」で行った知多半島に向かった。常滑焼きの街を見学したりして楽しく過ごした。当時からイッコウは焼き物が好きだった。夕方京都映画に電話をした。ホンができるから帰って来いと言われて、帰京した。撮影所ではこういうホン待ちがしばしばあった。それを利用して若狭湾の小浜に泳ぎに行ったり、丹後半島の間人(たいざ)に泳ぎに行ったりした。そのメンバーは先ほど挙げた仲間たちだった。
小浜旅行。前列右がイッコウ。左がてっちゃん。後列右がワカ。真ん中が筆者。
天津敏のド迫力
「おしどり右京」のゲスト俳優で印象的だったのは3話工藤組の天津敏だった。それまで東映のヤクザ映画で散々見て来た悪役スターだ。ワルとしての迫力が違った。「これが本編の迫力か」と正直思った。最後に神谷右京に刺されて倒れる場面ではビックリした。オープンセットだった。天津敏本人が、立ったまま仰向けに地面に倒れると言うのだ。マットみたいなものは一切必要ないという。テストなしの本番だった。182cmの巨体が、膝も曲げずに、硬直したまま、真後ろに、ド―ッと倒れた。「地面が揺れた」と感じた。ものすごい迫力だった。私たちは圧倒された。工藤監督のカットが掛かった後、天津敏は自分の演技については一切語らなかった。
西村大介監督
「おしどり右京」には、ABCから西村大介さんが途中から見学に来ていた。10話目を監督するという。これまでABCでは「豆腐屋の四季」「お荷物小荷物」「白雪姫と七人の悪党たち」「怪刀乱麻」などのスタジオドラマを演出してきたディレクターだ。ABCには珍しく腰の低い紳士だった。
私とイッコウは西村組が入る2日ぐらい前から、ホテルに呼ばれた。初めてのフィルム演出なので、一緒にコンテを考えて欲しいという。私たちは西村さんの考えた演出プランを尊重しながら、1カメ撮影の特徴を生かしたアイデアを提案した。西村さんは【Episode16】
で書いたようなコンテを作れない監督ではない。自分の演出プランはしっかり作っていた。その上で、カメラ1台で撮るための有効なアイデアを私たちに求めたのだ。

「おしどり右京捕物車」もしくは「斬り抜ける」のロケスナップ。立っている右端が西村大介監督。2番目が家喜さん、3番目が殺陣師・美山晋八、4番目が筆者、5番目がイッコウ。しゃがんでいる右端がてっちゃん、2番目がサブちゃん、3番目が喜多野彰。
スタジオドラマは一連の芝居を、4~5台のカメラを切り替えながら収録する。従ってカット数が多くなっても収録に支障はない。スタジオドラマで俳優のアップサイズが多くなるのは、俳優を複雑に動かして長いカットを撮るよりも、あまり動かさないでカメラを切り替えながら撮る方が効率がいいからだ。だが、他のカメラがバレてしまうので、なかなか理想的なアングルに入るのは難しい。相当な演出力と演技力、そして緻密なリハーサルが要求される。少し乱暴な言い方だが、スタジオドラマは良い画を撮ることよりも、効率が優先してしまう傾向に陥るわけだ。
カメラ1台での撮影所の撮影の場合、スィッチングのようにたくさんカットを撮るよりも、面白い芝居、良い画、面白いい画を撮ることを優先する。もし、西村さんが「はい、最初にグループショット。そのまま次は右京ナメのはな。その次は切り返してはなナメの右京」みたいな単純なコンテを説明すると、すかさずスタッフから「おもろないな」の声が湧き上がるに違いない。私たちはそういう観点からアドバイスをした。言い換えると、出来るだけカットを割らないで済む、俳優の動きやキャメラワークを提案したのだと思う。
そうやって作った苦心のコンテだった。西村組初日を迎えた。糺の森ロケだったと思う。森の中でのシーンだった。西村監督がコンテを俳優さんやスタッフに説明した。私たちのアドバイスが効いたのか、俳優さんからもスタッフからもクレームはでなかった。わたしとイッコウはホッとした。段取りで動いてみることになった。西村監督が声を掛けた。「それではやってみましょう。5秒前、よーい、ポン」。「ゲッ」なんだこれは!?スタッフも俳優さんもあっけにとられている。スタジオドラマとフィルムをチャンポンにした掛け声だった。「ポン」はカチンコの積りらしい。イッコウと私は、「コンテの前に『ヨーイ、スタート』の掛け声を練習すべきやったな」と後悔したものだ。
西村監督は「おしどり右京」を3本。「斬り抜ける」を1本撮った後、またスタジオドラマに帰っていった。後に「土曜ワイド劇場」や「ザ・ハングマン」などのPになり、制作局長も務めた。私が東通企画の契約になってからは付き合いが再開して、いろいろとお世話になった。本当に温厚な方だった。
To Be Continued
※続編は来週水曜日(8月7日)投稿予定
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
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