【Episode18】
助監督になるその後
──京都映画での日々
その3
「おしどり右京」から「斬り抜ける」へ……でも
「おしどり右京捕物車」の後は、直結の後番組「斬り抜ける」に付いた。私の記憶では「おしどり右京」2クール26本全部に付いたと思っていたが、どうもそうではないような気がしてきた。26本の監督ラインナップを見ると、西村大介監督3本、S監督3本とある。西村大介さんは最初の1本に付いた記憶があるが、3本も付いた記憶がない。せいぜい2本だ。Sさんにいたっては、次の「斬り抜ける!」の1本目が最初だった気がするのだ。その1本目は、後で書くが強烈な印象が残っているからだ。
とすると、西村組の1本目(10話)に付いた後、「助け人走る!」の後番組「暗闇仕留人」のパイロット版に付いたのではないのだろうか。ちなみに、パイロット版というのは本来は試験的に作り、あとで追加撮影もして修正版を出すということだったらしい。だが、その当時は撮影所も追加で撮影するような余裕はないので、正真正銘の第1話目ということだ。「おしどり右京」の10話ということはクランクインしてから約3ヵ月後だ。クランクインは2月6日だから5月の初旬か中旬だ。「助け人走る!」の後番組「暗闇仕留人」の第1回目放送は6月29日だった。5月の初旬か中旬にパイロット版を作るというのは時期的にも合っている。「必殺」チームは、「助け人走る!」を担当するA班とは別に、新番組「暗闇仕留人」を担当するB班を編成したのだろう。多分私は「暗闇仕留人」に数本付いてから、「おしどり右京」に戻ったに違いない。
「斬り抜ける」とは
さて「斬り抜ける」だ。ABC・松竹制作。出演は近藤正臣、和泉雅子、火野正平、佐藤慶、岸田森、岡本崇(子役)。監督はS氏、太田昭和、松野宏軌、工藤栄一、大熊邦也など。スタッフは「おしどり右京」とほぼ同じだが、製作主任は後に歌舞伎座テレビ室のPになる沢克純に変わる。
ストリーはこうだ。作州津山松平藩の藩士楢井俊平(近藤正臣)は藩命により、親友の森千之助を討つ。だが、それには汚い裏事情が隠されていた。藩主松平丹波守(菅貫太郎)が千之助の妻・菊(和泉雅子)に横恋慕し、側室に差し出すよう千之助に迫った。敢然と断った千之助を真相を隠して俊平に討たせたのだ。直後に真相を知った俊平は、丹波守の手から菊と息子の太一郎(岡本崇)を守るため、2人を連れて脱藩する。津山松平藩は俊平と菊を、不義密通のうえ夫を殺害して脱藩した重罪人として後を追う。追うのは千之助の父・森嘉兵衛(佐藤慶)と異母弟の森伝八郎(岸田森)。俊平たちが目指すは江戸。丹波守の非道を幕府に訴えるためだ。俊平ら3人は、道中知り合ったよろずやの弥吉(火野正平)の助けを借りながら、追手の網を掻い潜って旅を続ける。いつしか、俊平と菊の間に愛が芽生えてくる。しかし、一行の行く手には全国松平藩の秘密組織「松平くずし」が待っていた。

「斬り抜ける」完成記念写真。前列右から2番目が藤原三郎(サブちゃん)、4番目が沢克純(沢ちゃん)、5番目が都築一興(イッコウ)、6番目が岡本崇、7番目が近藤正臣、9番目が火野正平、10番目が広瀬浩一(ワカ)、左端が藤井哲也(てっちゃん)。2列目右から5番目が大熊邦也監督、10番目眼鏡の人が家喜俊彦。筆者は岡本崇の後方2人目。その後ろが星野事務所マネージャー・真木勝宏。最後列右端が染川広義。
座長・近藤正臣
主演の近藤正臣はいや、私の感覚では「近藤さん」なのでこれからそう呼ぶ。近藤さんは当時、最も脂の乗り切った若手俳優の1人だった。私より5歳年上だから、その頃32歳。1970年「柔道一直線」で頭角をあらわし、1973年「人間の歌シリーズ」や大河ドラマ「国盗り物語」の明智光秀役で人気を不動のものにした。
そんな大人気スターだったが、現場ではいたって気さくな人だった。京都生まれで、売れていない頃から京都映画にはよく出演していたということもあり、京都弁を駆使してスタッフと明るくやりとりしていた。今から考えると、「初座長」ということを意識していたのかもしれない。明るくやや三枚目風を演じて現場を和ませていた。そういう心使いができる人だったと思う。
後年、近藤さんといろいろと仕事をすることになって初めて知った。近藤さんの父方の曽祖父は幕末に活躍した尊王攘夷運動の志士だったのだ。有名な僧・月照を庇って牢内で壮絶な自死を遂げたという近藤正慎だ。清水寺境内には顕彰碑もある。それだけではない。叔父に近藤悠三という人間国宝の陶芸家もいる。「斬り抜ける」の時はそんな素振りをまったく見せなかった。どちらかと言えば、京都で小料理屋を営むという母親のイメージを意識して纏っていたような気がする。
和泉雅子については【Episode5】で書いたのでそちらを参照して頂きたい。
自然児・火野正平
火野正平は近藤さんと同じ星野事務所に所属していた。かれも大阪育ちだったので、子役時代(二瓶康一)から京都映画にはよく出演していたらしい。元々、星野事務所も大阪にあったのだが、近藤さんが人気スターになったことで、東京に移転したという経緯があった。その前後に、二瓶康一は別の事務所から星野事務所に移籍したのだ。ちょうど星野事務社が東京に移転するとき、1972年だったと思うが星野事務所の女性事務員が、私がいた松竹芸能に移籍して来たのでよく覚えている。
近藤さんが「国盗り物語」に明智光秀役で出演が決まった時に、NHKは木下藤吉郎役を探していた。それを聞いた星野事務所のマネージャーが、たまたま「うちにもサルはいますよ」と言ったので、火野正平にチャンスが転がり込んできたという話だ。それをきっかけに芸名を「火野正平」に変えたらしい。
「斬り抜ける」はその翌年だから、火野正平は全国区の俳優に成りたてのホヤホヤということになる。現場では「二瓶」と呼ぶスタッフもいたくらいだ。私やイッコウは「正平ちゃん」と呼んでいたが、ここではそれからの長い関係の親近感を込めて正平と呼びたい。
「斬り抜ける」での、正平の近藤さんへの対抗心は、ケッコウ凄まじかった。2人だけの芝居になると、本番でテストとは違う演技をしたりして、近藤さんに挑戦した。
セットでの井戸端のシーンだった。近藤さん扮する俊平が、止める正平扮する弥吉を振り払って出かけるという芝居だったと思う。そのカットの途中まではテスト通りの芝居だった。本番ラスト近くになって、正平が止めようとして近藤さんの腕に手を掛けた。近藤さんが正平の手を振り払う。と、振り払われた正平がもの凄い勢いで、頭から井戸に突っ込んだ。慌てて抱き止める近藤さん。半身を井戸に突っ込んで足をバタバタさせる正平。やっとのことで正平を引きずり上げる近藤さん。途中から正平の仕組んだサプライズだと分かったようだが、根が真面目な人なので、「カット」が掛かるまで演技をちゃんと続けていた。「あー、ビックリした―!」と驚いてみせる近藤さん。「セットの井戸やで。落ちても胴までやんか」とニヤ付く正平。油断も隙も無い役者バカ振りだった。
酒豪・佐藤慶
佐藤慶さんは私の好きな俳優さんだったが、酒豪だった。出番を待たせるとその間に飲むのだ。ある時、衣装部で待っている慶さんに「お待たせして申し訳ありません」と詫びを言ったら、「待つのは良いけど、これ以上待つと知らないよ」と、呂律の回らない口調で言われた。ヤバイ!現場にとって返して監督に話して、出番を早くして貰った。しかし、慶さんは現場に出るとシャンとするのだ。セリフもロレらない。ひょっとして、衣装部では酔った風の演技をしていたのか?海千山千のベテラン俳優だ。助監督のサードを騙すぐらい朝飯前に違いない。その時からは、出来るだけ慶さんを待たせないように気を付けた。
凝り性の岸田森さん
岸田森さんは映画やドラマでの演技を見ると、無口で陰湿な役が多く、気難しいのかなと思ってしまう。だが実際の森さんは、結構おしゃべりな明るい人だった。ただ役作りには人一倍熱心だった。凝り性と言える。異常な執念を燃やして俊平と菊を追い詰めるという役だったが、どうやったら異常に見えるかを日々追及していた印象がある。最初の方の話で、俊平に額を浅く切られるという設定があった。イッコウがそのシーンの後、森さんに「これから、俊平や菊のことを考える時に、その額の傷口を撫でたらどうでしょう」と提案すると、凄く喜んで、最終回まで傷を残し、その芝居を続けた。
ブスの子太一郎
森太一郎役の子役・岡本崇クンは可愛かった。5歳ぐらいだったと思う。セリフ回しもまだ十分ではなかったが、それがまた可愛かった。「太一郎は武士の子です」というところを「太一郎はブスの子です」と言って、大受けした。母親役は和泉雅子なのだが……。
子役には助監督の1人が専属で面倒をみる。その役はイッコウだった。監督の演出意図をかみ砕いて説明し、演技を付ける。子役や新人俳優の扱いでイッコウに勝る助監督はいなかった。

「斬り抜ける」大阪城ロケ記念撮影。前列右端が藤原三郎、2番目が染川広義、3番目が筆者。後列右端が火野正平、3番目が南所登(南ちゃん)、6番目が都築一興、7番目が太田昭和監督、10番目が藤井哲也、左から2番目が近藤正臣。
チームワークを高めた弁当
スタッフは「斬り抜ける」という番組を通してチームワークを高めて行った。【Episode5】でも触れたが、「斬り抜ける」はロケの多い作品だった。追手の目を隠れて逃げるのだから、どうしても人里離れた裏街道を進むということになる。その結果、食堂やレストランが近くにないロケ場所が多いということになるのだ。そんな日は「弁当持参」とスケジュール表に書いてある。
スタッフの中で、一人者は私とイッコウとサブちゃんだった。南ちゃんは「おしどり右京」の前に、てっちゃんは「斬り抜ける」のクランクイン直後にそれぞれ結婚していた。撮影所前の「つたや」で弁当も頼めるのだが、どちらかと言えば、俳優さん向けの弁当だったので、助監督という最低の薄給の身には毎回はつらい。すると、いつの頃からかてっちゃんや家喜さん、南ちゃん、ワカが多めに弁当を持って来てくれるようになった。私とイッコウとサブちゃんはそれを遠慮なく頂いた。正平も「オレにもチョウダイ」とそれを摘まむようになった。その絆が現場にも反映するようになったのだと思う。奥さんたちには大変な迷惑を掛けたと思うが。
そのチームワークが最高潮に達したのが、家喜組だった。これも【Episode5】で触れたので参照して頂きたい。スタッフ全員と俳優さんに協力して貰って、素晴らしいラストシーンを撮り上げることができたのだ。良い画を撮りたいと思うのはスタッフの業のようなものだが、その我儘に近藤さんも敦夫さんも正平も協力してくれた。特に近藤さんは私たち若手のスタッフたちには兄貴分のような存在だったのだ。
監督に「そんなことも分からんのか」と言うキャメラマン
先ほど書いた強烈な印象のエピソードとはこうだ。1、2話を担当したS監督は東映出身の監督だった。そのS組でのことだ。セット撮影だった。出演者が誰だったか忘れたが、武家屋敷の場面だった。庭に面した廊下だ。テスト前の段取りの時だ。監督の考えたコンテに従って、俳優さんに動いて貰って、撮り方を検討するわけだ。廊下に出て来たその屋敷の主人に、配下の者が報告に来た。互いに立ったままだ。
第1カットはロングだった。次にS監督は2ショットを撮ると言った。そこで、Nキャメラマンがクレームを付けた。松竹の頃からのベテランキャメラマンだ。「2ショットは撮れない」という。怪訝な表情のS監督。「廊下に立っている人物と、下の地面に立っている人物の2ショットは撮れん言うとるんや。そんなことも分からんのか」とNさん。現場に緊張が走った。若い経験のない監督ならまだしも、相手はNさんと同年配の監督だ。「真剣勝負の撮影現場とは言え、監督にあの言い方はどうなの」そう思った。確かに、廊下の上と下で50cmぐらいの高低差がある。50cmの高低差で2ショットを撮れば、かなりのルーズなサイズの2ショットになる。当時の京都映画はそんな甘いサイズの2ショットは撮っていなかった。
だが、S監督はNキャメラマンに対して「いいから撮れ」とは言わなかった。何となく自信無げな態度だった。映像に自信が無かったのかもしれない。画はキャメラマンに任せるというタイプの監督だったのかもしれない。結局、S監督は廊下の武士がカット1でしゃがんだところで第2カットの2ショットに変えるという演出に切り替えてその場を凌いだような気がする。
私はショックを受けた。私たち助監督にとってある意味、監督は絶対的な存在だった。それまでの京都映画での経験で、多少はその思いは揺らいではいたが、こうまではっきりと監督の権威を否定されると複雑な気持ちになった。
S監督は東大卒ということだった。太平洋戦争直後から「斬り抜ける」の10年ぐらい前までは映画各社の助監督は東大・京大が多数を占めていた。助監督試験は新聞社の入社試験よりも難しいと言われていたのだ。撮影所ではエリートと目されていた。
松竹で面白いエピソードがある。1960年代前半の松竹、若い監督たちが斬新な作品を次々と発表して注目を集めた。フランスのヌーベルバーグになぞって松竹ヌーベルバーグと呼ばれた。その旗手と目されていたのが、大島渚、吉田喜重、篠田正浩、石堂淑朗、田村孟、高橋治、森川英太郎の7人だ。彼らが仲間の篠田正浩の撮った作品を観て驚いたという。「私大出身者でもこんな凄い映画が撮れるのか!」。ちなみに、森川英太郎は慶大卒だが、大島渚は京大、吉田喜重・石堂淑朗・田村孟・高橋治は東大出身だ。件の篠田正浩は早稲田大学卒。まったくバカバカしい感想だが、当時の映画界はそういう価値観・感覚が幅を利かせていたのだ。
さて「斬り抜ける」だ。私はそういう価値観が多少は残っている撮影所で、監督がしかも東大出の監督が、高校出の(もしかすると中学を卒業してすぐに撮影所に入ったかもしれない)キャメラマンに、あからさまに罵倒されるような言い方をされ、なおかつそれに対して毅然とした態度を取れないという場面を目撃したのだ。「映画は学歴は何の役にも立たない。力が強い者が勝つ」。そう実感した瞬間だった。もっとも私はそういった学歴至上主義が崩れて、社員助監督は採用しないという撮影所斜陽時代だからこそ、助監督に潜りこめたのだが。私がいたころの京都映画では、助監督はエリートでも何でもなかった。
近藤正臣という俳優
さてさて、私は「斬り抜ける」以降も近藤さんとの付き合いは続くのだが、常々私が感じていた「近藤正臣観」がある。私は近藤正臣という俳優が好きだし、尊敬もしている。その上での「近藤正臣観」だ。
「斬り抜ける」の近藤さんは、立派な座長だった。俳優さんたちだけではなく、我々スタッフも含めたリーダーといってもいい。だが、近藤さんはどちらかと言えば本来は「気にしい」だったのではないだろうか。そういう自分の性格を自覚し克服しようとしてきた。その努力が実って、いかにも男らしい磊落な性格が次第に本性になって行ったのではないだろうか。
「斬り抜ける」はその過渡期に当たっていたと思う。先ほどの正平との井戸端の芝居もそうだ。一瞬、近藤さんは正平に不満をぶつけようとしたように私は感じた。その瞬間、近藤さんは切り替えた。「自分は座長だ。他の俳優から挑戦を受け、それを受け止める立場だ」と。そう思い直したのではないだろうか。だから、冗談めかしてビックリしてみせたのではないか。その一瞬の切り替えの場面を、私は何度か目撃したような気がする。
「斬り抜ける」から十数年経って、近藤さんと一緒に仕事をする機会があった。ABCの「ゆらり海游記」だ。水中撮影が売り物の旅番組だった。スキューバダイビングが得意の近藤さんがレギュラー出演した。久しぶりで逢った近藤さんは、すでに数々の主演ドラマをこなしたトップスターだった。生まれついてのスターらしさをすでに身に付けていた。努力で性格を変えることに成功したのだと思う。
「斬り抜ける」の打ち上げは近藤さんが費用を全額出してくれて、スタッフ全員で北陸の温泉に一泊旅行した。50年この世界にいるが、こんなことは後にも先にもないことだった。その旅行に近藤さんは参加しなかった。仕事だということだったが、照れ臭かったのかもしれない。
To Be Continued
※次回は来週使用日(7月14日)投稿予定
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
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