【Episode18】
助監督になるその後
──京都映画での日々
その14
東映に出稼ぎに行く
1978年秋、小生31歳。帯ドラマ「浪花おこし」の後は、私たちのチームには仕事がなかった。月決め契約という性格上、その月に仕事が無ければ、給与は基本的にゼロだ。当時の京都の撮影スタッフは、東映以外はそういった不安定な身分だった。東映は常に7~8本のテレビ映画と劇場映画を製作していたので、ある程度の数のスタッフは確保しておく必要があったのだろう。従って、社員以外のスタッフも年間契約が多かったと思う。京都映画や大映系の製作会社はテレビ映画1~2本という不安定な受注状態だったので、スタッフとの契約も月ごとにせざるを得なかったのだ。
もっとも、私たち京都映画や大映系の助監督たちの大半は、そういった不安定な身分だったからこそ、撮影所に潜り込めたというのが正直なところだ。昔の映画界のように、東大・京大の秀才たちが群れをなして撮影所の助監督試験に押し掛けるという時代には、到底助監督にはなれなかったはずだ。ある意味、不安定な助監督身分様様という面もあったので、一概に不安定さが不満とは言えないところだ。
しかし、仕事が無ければ干上がってしまう。だが、我らには強い味方がいた。京都映画小島次長だ。その時も小島次長の口利きで、私は東映の本編制作に出稼ぎに行くことができた。東映から出るギャラは私たちが直接もらった。京都映画はまったくピンハネしなかった。それでも私たちの仕事を探してくれた小島次長には、足を向けて寝れなかった。
当時、東映には3つの事業所があった。「水戸黄門」「大岡越前」などを製作している東映京都制作所(後の太秦映像)、「銭形平次」「桃太郎侍」などを製作している東映京都テレビプロダクション、そしてその時私が行くことになった、劇場用映画やテレビドラマ「暴れん坊将軍」などを製作している東映京都撮影所(本編製作)だ。
テレビ版「宇宙からのメッセージ」に就く
東映では「宇宙からのメッセージ・銀河大戦」という、30分の特撮戦隊番組にセカンドで就いた。実は「宇宙からのメッセージ・銀河大戦」は、その年の4月に公開された東映の大作映画「宇宙からのメッセージ(監督深作欣二)」のテレビ版だった。映画「宇宙からのメッセージ」は、10億円という当時の日本映画としては、かなりの巨費を投じて製作された話題の作品だった。だが、そもそもその映画自体が、前年に大ヒットした米映画「スターウォーズ」の焼き直しといっていい作品だった。「スターウォーズ」っぽい仕立てだが、ストーリーの下敷きが里見八犬伝というのは、まことに東映らしい発想だ。あの深作欣二が、そういったコンセプトの映画を撮ることをOKしたのが不思議だが、Wikipediaによると、意外にも大乗り気でやったらしい。
そのテレビ版「宇宙からのメッセージ・銀河大戦」は、映画版の100年後の設定だった。東映としては、大枚叩いて作ってコケタ(注1)映画「宇宙からのメッセ―ジ」のセットや宇宙船、小道具などをそのまま利用できる企画があるなら御の字ということだったろう。(注1:「宇宙からのメッセージ」の国内の営業成績はボロボロだったが、海外にある程度売れたので、収支はトントンということだったらしい。だが、映画会社の営業成績の発表はあてにならない。「寅さん」の末期は前後の映画の観客数を「寅さん」にぶち込んで、首脳陣だか偉い人だかの責任を回避したと言われている)
「宇宙からのメッセージ・銀河大戦」とは
主演は、いま「ショウグン」で注目されている真田広之だった。当時、まだ18歳の高校生。大人しくて非常に素直な少年で、スタッフみんなに愛されていた。共演は織田あきら、秋谷陽子など。
大まかなストーリーはこうだ。恒星間国家太陽系連邦の植民星である第15太陽系の惑星アナリスは、ガバナス帝国に侵攻される。アナリス星ゲン一族は甚大な被害を被る。族長の息子ハヤト(真田広之)は、星間輸送業者のリュウ(織田あきら)と猿人バルー(西田良)と共に、虐殺された家族の復讐とアナリス星奪還を目指して、ガバナス軍と戦う。ガバナス軍に返り討ちに遭ったハヤトは宇宙帆船プレアスターに乗った謎の美女ソフィア(秋谷陽子)に救出される。そして約100年前に、ガバナスの脅威から宇宙を救った伝説の宇宙船リアベ号(リアベスペシャル)と、2機の宇宙戦闘機、コメットファイヤーとギャラクシーランナーをソフィアから託される。ハヤトは、父から同じく格闘術を学んでいたリュウや猿人バルーらの協力も得て、宇宙忍者「まぼろし」を名乗って、ガバナス帝国との戦いを決意する。だが、太陽系連邦はガバナス帝国との全面戦争を恐れ、アナリスを見捨てることを決定する。それでもハヤトたちは、第15太陽系の民を救うべく、レジスタンス活動に身を投じるのだ。
「スターウォーズ」と時代劇の忍者ものを足して2で割ったような、いや、2で割るのは「スターウォーズ」に対して失礼なので、10か20で割ったような企画だった。ガバナス帝国のアナリス侵略軍の団長の名前がコーガ―(甲賀)で副長がイーガー(伊賀)というネーミングからして、相当に安易な発想だったのではないだろうか。
ロケは荒涼とした所ばかり
撮影は特撮撮影とそれ以外の撮影に完全に分かれていた。インする前に、その話の担当監督と特撮監督・矢島信男とが打ち合わせをして、特撮部分を特撮班に依頼するというシステムだった。だから、私たち現場のスタッフは殆ど特撮部分には携わらなかった。一度だけ、たぶん特撮班に依頼されて、撮ったカットがある。宇治市役所の南方の山に、荒涼とした場所があった。草木が全く生えていない、土が剝き出しの広い窪地で、雨水に穿たれて迷路のような深い溝がいくつも形成されていた。地球以外のどこかの惑星と見えなくもない風景だった。その深さが2~4mもある溝の中では、十分にアクションなどが撮影できた。どうも番組のレギュラー撮影地のようで、何話かに1回はそこを使うようだった。特撮というのは、その荒れ地の小高いところに宇宙船の模型を置いて、後ろに窪地の荒涼たる景色を見せれば、どこかの惑星に宇宙船が着陸しているという風景になるというわけだ。
ロケは作品の設定上、どうしても無機質で荒涼とした場所が選ばれた。先述の荒れ地以外には、伏見区の鳥羽下水処理場に行った記憶がある。コンクリートむき出しの貯水タンクを、侵略軍の軍事基地に見立てて撮影したのではなかったろうか。宇宙船の中や、ソフィアの住い(宮殿?)などはセットだった。
アクションはジャックで
アクションシーンの多い作品だった。アクション場面では何故か全員被りものを被っていた。そしてその被り物を被ってアクションを演じるのは、その役の俳優ではなくジャパン・アクション・クラブ(ジャック)のスタントマンたちだった。彼らはトランポリンやマットを使って、飛んだり跳ねたり、高いところから飛び降りたりの派手なアクションを演じた。そしてその前後の被り物のない場面では、俳優が演技をするという段取りだった。普通の撮影ではスタントマンを使う場面でも、1カットか2カット、多くても数カットだが、こういった特撮物の撮影では、そのシーンの大部分となる、数十カットを吹替のスタントマンを使って撮っていた。
ユニークな若林監督
私が就いた監督は若林幹。東映東京撮影所の監督だ。色々と型破りなところがある監督だった。まず経歴が面白いというか凄まじかった。これは本人から直接聞いた話だ。映画人としての経歴は東映京都撮影所助監督からだったという。ある時若林助監督は、東映名物のオールスター時代劇に就いていた。オールスター時代劇というのは、昭和30年代に盆休みや正月休みを当て込んで企画されたもので、東映トップスターの片岡千恵蔵・市川右太衛門を始め、大友柳太朗・中村錦之助、東千代之助、大川橋蔵など錚々たるスターが総出演するお祭りのような作品だ。大体が江戸時代の任侠もので、「勢揃い東海道」とか「任侠清水港」とかのタイトルが付いていた。撮影は佳境に入っていた。片岡千恵蔵・市川右太衛門両大スターが一緒に出演するシーンを迎えた。現場は2人以外のスターたちや子分たち、さらにはそれらの取り巻きたちでごった返していた。そこで事件は起こった。
撮影現場で指揮を執っていた若林助監督は大声で言った。「はーい、千恵蔵組は東山方向、右太衛門組は嵐山方向に別れて下さーい」。的確な指示だ。話を聞いた私はそう思った。だが、その指示が問題になった。「両御大を呼び捨てにした。ケシカラン!」。実は当時、片岡千恵蔵は東映の重役を兼ねた大スターで、東映の山の手である嵯峨野に住んでいたので、「山の御大」と呼ばれていた。対する市川右太衛門も重役スターだった。北大路に住んでいたことから「北の御大」と呼ばれていたのだ。
今から考えればバカバカしい話だが、当時の東映の常識では、若林助監督は「山の御大組は東山の方向、北の御大組は嵐山の方向に別れて下さーい!」と言うべきだったのだろう。しかし、普通に考えればその程度のミスは、「アホ!気ぃ付けんかい!」と、一喝されて済むものだ。だが、その時の東映首脳部が執った解決策は、若林助監督を京都撮影所から東京撮影所に配置転換するというものだった。実質的な左遷だ。それだけ東映ではスターの力が強く、会社首脳陣さえ何らかの懲罰措置を取らざるを得なかったのだろう。それにしても、戦後10年以上も経った頃の話だ。東映に組合もあっただろう。なのに、その程度のことで助監督が東京に飛ばされるのをムザムザ許すとは、東映のスターシステムの弊害は「ここに極まれり」という気がする。東映ではその事件から、現場で俳優を呼ぶときには、役名で呼ぶようになったということだ。
ちなみにその頃の東映では、両御大が一緒に出演しているシーンでは、取り巻きの俳優たちが、両御大それぞれのカットのサイズやカット数までチェックしていたらしい。
ロケバスでセリフをブツブツ
その後若林監督は東撮で監督に昇格し、特撮戦隊ものをたくさん撮っていたようだ。そのせいか、カットが細かかった。ロケ地に向かうロケバスで、たまたま隣に座ることがあった。私は疲れていたのだろう。すぐに居眠りを始めた。途中で目が覚めた。隣で若林監督がブツブツ言っていた。台本のセリフだった。何気なく監督の台本を見た。驚いた。1行のセリフを3本の線が区切っていた。1行のセリフを3カットに分けて撮ろうというコンテだった。開いているページは殆どがそういう感じのコンテだった。また、その台本に引かれた線が凄まじかった。最初は鉛筆で書いたのだろう。それを何度も消して書き直しているうちに、表面がふやけてきて普通の鉛筆では書けなくなっていた。次はその上から赤鉛筆で書き直されていた。さらに私が見た時は、青鉛筆を持って直していた。自分でセリフを喋りながら、しっくりこないと直していたに違いない。私はそのセリフで目が覚めたのだ。
良い役は右、悪役は左
それ以外でも、若林監督は独特のルールを持っていた。ハヤトたちレジスタンス側の俳優が登場するときは画面の右側から、反対に侵略者側が登場するときは左側から登場することに拘った。理由を聞いたら答えはこうだった。江戸時代の歌舞伎の頃から、身分が高かったり良い役は舞台の右側(上手)から登場し、反対に身分の低い役や悪役は左(下手)から登場する習わしだったそうだ。だから自分もそうすると。最初に良い役と思わせておいて、実は悪役だったという時はどうするのだろうと思ったが、残念ながらそういう役はその時は登場しなかった。
究極のコーヒー作法
仕事以外でも拘りがあった。ある日スタッフルームで私は若林監督と2人きりになった。監督が言った。「皆元くん、コーヒーを飲むか?」。躊躇なく答えた。「頂きます」。監督に「飲むか?」「食べるか?」と訊かれたら、ご馳走してくれるということだ。「どこか喫茶店に行きますか?」と私は訊いた。「いや、ぼくは京都では『みどり屋』のコーヒーしか飲まない」そう言って、自分で電話を掛け始めた。「みどり屋」というのは、東映京撮正門の前にあるコーヒー専門店だ。コーヒー専門店といっても洒落た店構えのコーヒーショップではない。古めかしい店構えの地味な店だ。だが、古い俳優さんやスタッフがよく使うコーヒー店だった。
現在の東映京都撮影所正門。建物の感じは当時とあまり変わっていない。左の建物が本編製作の製作部やスタッフルームがあった建物。カメラの左後ろ20mぐらいのところに「みどり屋」があった。
やがて「みどり屋」からコーヒが出前されてきた。皿付のオーソドックスなコーヒーカップに、濃い目のコーヒーが入っていた。私は「頂きます」と言って、皿に添えてある金属の小さな器を取り上げた。コーヒーフレッシュのカップだ。私はいつも通り、一気にフレッシュをコーヒーカップに入れようとした。「待ちなさい」。若林監督の声だ。「ミルク(当時はフレッシュのことをそう呼んだ)はそっと入れなさい。こういうふうに」。監督はフレッシュのカップを持ち上げると、コーヒーカップの淵から垂らすように、そぉ―と入れ始めた。そして、グルリと淵を一周させると、次はその内側に円を描くように入れていく。そうしてコーヒーがフレッシュで覆われて隠れるようになった。私は見様見真似で監督と同じようにフレッシュを垂らした。「飲む時は、こうして飲むんだ」。監督はコーヒーカップを持ち上げて、淵に唇を付けて静かに飲み始めた。それは、飲むというよりはススルといった方が良いような飲み方だった。監督の唇はコーヒーとフレッシュを静かにすすり上げていく。それはどこか宗教儀式にも似た、ある種の厳粛さを伴った行為のように思われた。「こうして飲めば、コーヒーの香りをフレッシュで閉じ込めて、最後まで香を味わうことができるんだ」。そう監督は厳かに言った。私は監督の言う通りにやってみた。味はどうだったのか?……私はそれから、一度もそういう飲み方をしたことがない。
フランスで大ヒット
Wikipediaによると「宇宙からのメッセージ・銀河大戦」は、同じような特撮物の番組予算が、500万ぐらいだったのに対して1000万という破格の高予算番組だった。しかし、視聴率的には苦戦したらしい。私の現場での印象でも、ヒットしそうな雰囲気はあまりなかった。設定の大層さに比べて、実際の内容はかなり貧相だったような気がする。一桁の半ばという視聴率は結構問題になったようだ。
だが、不思議なことにフランスで人気を得た。「サン・クー・カイ」というタイトルで放送され、大ヒットしたそうだ。そのため日本国内よりも早く、全話収録のDVD―BOXがフランスで発売されたらしい。
To Be Continued
※次回は来週水曜日(10月30日)に投稿予定。
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

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