【Episode18】
助監督になるその後
──京都映画での日々
その16
「朝ごはんぬき?」追加
前号の投稿後に高鳥都さんからメールを頂いた。高鳥さんは第49回(10月16日投稿)でも触れたが、このたび立東舎から出版された「必殺シリーズ談義~仕掛けて仕損じなし」の筆者だ。このブログでも度々助言を頂いている。今度のメールで高鳥さんに教えて頂いた。私は前号で「『朝ごはん抜き』の脚本家と、大槻義一監督、磯見忠彦監督、家喜俊彦監督以外の監督の名前を思い出せない」と書いた。それについて「脚本家は松田暢子、もう一人の監督は尾中洋一ではないか」と。ビンゴ~~!二人の名前には記憶あった。
さっそくテレビドラマデータベースで、「松田暢子」を検索してみた。あった。彼女の作品記録の中に、「朝ごはんぬき?」と確かに書いてある。「朝ごはん抜き?」で検索した特は、脚本家の名前は出ていなかったが、こっちでは確りと載っていた。松田暢子は当時、田辺聖子の原作ドラマを度々執筆していた、かなりの売れっ子脚本家だったと記憶している。
さて、尾中洋一監督だ。先ほど「記憶にある」と書いたが。記憶にあるどころではない。どうしてこの名前を、この監督を忘れていたのか、不思議に思うほど印象に残っている監督だった。
わざわざ、45年前のラジオ・テレビ欄を調べて教えて頂いた、高鳥さんにはこの場を借りて感謝申し上げたい。
尾中洋一監督との出会い
「朝ごはんぬき?」が始まる前の1978年暮れに、チーフ助監督だった私は佐々木プロデューサー(以下P)に命じられて、準備のため1人で上京した。前号では「年が明けてから準備を始めた」と書いたが、高鳥さんに尾中洋一監督のことを教えて頂いたことで、年末に東京へ準備のために出張したことを思い出した次第だ。東京では第1週目担当の大槻義一監督と、セットデザインの打ち合わせなどを行った。美術デザイナーから預かったセットの図面を基に、大槻監督の要望などを聞いたのだ。
その後、2週目を担当する尾中洋一監督と、どこかのホテルのロビーで逢った。尾中監督は40歳ぐらいだったが、若々しい印象だった。佐々木Pからは、監督としてよりも脚本家の仕事が多いと教えられていた。私は2週目の台本が完成する日程の見通し、撮影・仕上げのスケジュール、キャスティングの進み具合、セットに対する大槻監督の要望などを説明した。尾中監督が担当する分の台本は、まだできていなかったので、あまり打ち合わせすることはなかった。
尾中監督は手帳を開いた。自分のスケジュールを見て言った。「この日に台本が完成すると、台本直しに3日しか当てられないな。ちょっときついな」。びっくりした。尾中監督は台本を読んでもいないのに、直す気満々でその日数を気にしている。3日で足りないというのは、プロの脚本家でもある尾中監督にとっては、相当な分量を直すということだ。最初から人の書いた台本を信用していないということになる。
今まで就いた監督の中には台本を書き直してくる監督は当然いた。セリフ直しなどはしょっちゅうあった。工藤栄一監督などは、すっくり全部書き直してしまったこともある。だが、それはあくまで台本を読んだ上で、それを元に都合の悪いところ、面白くないところ、もっと良くなるところを直す作業だ。ホンが出来上がる前から、ホンを読む前から直すことを前提にスケジュールを立てる監督はこれまでいなかった。なにかトラブルの予感がした。
大直しの台本
翌年、大槻監督担当分の撮影が終わって、尾中監督担当分の打ち合わせをした。台本のことがあったので、少し早く京都に来てもらうように佐々木Pには頼んでいたのだが、尾中監督自身のスケジュールの都合で、前夜遅く京都に入ることになってしまった。
打ち合わせが始まると、尾中監督は台本の変更点の説明を始めた。心配した通りかなりの分量の変更だった。設定や段取りの変更だけでなく、セリフも大幅に変更されていた。私は打ち合わせの後、急いで監督の台本を借りてコピーした。尾中組の撮影は翌日から始まる。台本の変更を早く俳優に知らせないと、現場が混乱してしまう。特に、主役の園佳也子はセリフの分量が多いので、セリフの変更には神経質になっていた。コピーした台本をすぐに、ホテルまでタクシーで送った。
尾中演出は?
翌日、撮影が始まった。だが、どうも現場の雰囲気が良くない。尾中監督は張り切って現場を仕切ろうとしていたが、スタッフも俳優もシラケぎみだった。監督だけが空回りしている印象だ。肝心の主役・園佳也子が不機嫌な顔をしている。それだけではなく、いつもは明るい井原千寿子もピリピリしていた。尾中監督の指示になんども「こうするんですね!?」と確認していた。そのギクシャク感は最後まで取れなかった。
テレビドラマは通常、プロデューサーと脚本家が作った台本で、別の監督が撮影する。したがって撮影現場は、台本を間に挟んで俳優やスタッフと監督がどう折り合いを付けるかということで進行していく。台本を読んだ俳優やスタッフには、それぞれの解釈や思いや感性・生理がある。また監督は、台本を元に自身の解釈や感性や美意識によって演出プランを立てる。当然、その間にはずれが生じる。それを話し合ったり、感じ合ったり、あるいは力関係によって左右されながらも、落とし処を探り合って撮影していくのだ。
だが尾中監督の場合、脚本家でもあるということから、台本を大幅に書き直すことによって、台本=監督ということになってしまった。従って、現場では折り合いどころを見つけるという作業を飛び越えて、全面的に俳優やスタッフを、自分の方に引き寄せようとしていたのではないだろうか。私にはそこらあたりにギクシャク感の原因があったように思われる。
尾中監督その後
さいわい大きなトラブルはなかったが、俳優陣もスタッフも乗り切れないまま尾中組は終わってしまった。これはひとえに、チーフ助監督の私の力が足りなかったためだ。チーフ助監督は、監督とスタッフや俳優が上手くいかない時は、その間を取り持って、妥協点を探るのが仕事だ。その時はそれが上手くいかなかった。私のチーフとしての経験・力量が足らなかったためだ。
尾中組のオールラッシュを見たプロデューサーたちの評価も、芳しいものではなかったようだった。当初の佐々木Pの心積りでは、その後も尾中さんに監督をお願いする予定だったと思うが、その機会は無かった。
その直後、尾中監督は「必殺仕事人」の脚本陣に名を連ねるようになった。かなり評価が高い台本だったようだが、4本だけで終わってしまった。噂では主役の藤田まことと意見が合わなかったようだ。佐々木Pの作品にはその後も脚本を担当した。火曜サスペンス劇場「京都連続殺人事件」やテレビ東京・歌舞伎座テレビ室制作「夫婦ねずみ今夜が勝負」などだ。「朝ごはんぬき?」の後は、もっぱら脚本家として活躍していたが、監督としては殆ど名前を見ることがなかった。テレビドラマの世界では、他人が書いた台本を上手く生かして演出するのが、長生きのコツだと知ったのが私のとっての教訓だった。
「日本名作怪談劇場」に就く
1979年6月、「朝ごはんぬき?」が終わったあと、すぐに東京12チャンネル(現・テレビ東京)・歌舞伎座テレビ室制作の「日本名作怪談劇場」に就いた。私は32歳になる直前で、助監督になってから6年目だった。
「日本名作怪談劇場」とは
「日本名作怪談劇場」はその名の通り、「四ツ谷怪談」「怪談累ヶ淵」「牡丹灯篭」などの有名な怪談話を毎週1話づつ放送する1時間番組だった。怪談だから当然夏場(6月~9月)だけの放送となる。原作を落語や歌舞伎、小説などから採っていたが、昔話を題材に採ってオリジナルで作った話もあった。実は同じ東京12チャンネルと歌舞伎座テレビ室制作で1970年夏に「日本怪談劇場」という番組を作っていた(京都映画で撮影したわけではないようだが)。怪談といえばお決まりの、「四ツ谷怪談」や「牡丹灯篭」はその時も制作していた。多分、そのシリーズがヒットしたのだろう。夢よもう一度というか、柳の下にドジョウは数匹いるのが、この業界の常識というわけだ。
イッコウと1作ごとに交代でチーフ
私がチーフ助監督で就く前にすでに撮影は始まっており、数本分は撮り終わっていた。チーフは親友の都築一興(イッコウ)だった。私が加わってイッコウと1話づつ交代でチーフを務めることになった。「日本名作怪談劇場(以下『怪談劇場』)」は色々と仕掛けがあり、衣装、カツラ、小道具にも準備期間が必要だったので、この交代シフトは助かった。
テレビドラマデータべ-スを見ると、私は第4話の「怪談 吸血鬼紫検校」からチーフ助監督に名を連ねている。だが、この作品に就いた記憶が私にはない。監督は私がそれまで就いたことのない柴田敏行と記録にある。実は柴田監督とは、この年の暮れに「花かぶら」で一緒になった。その時に、「初めての監督だ」と思った記憶がある。不思議なことにこの文章を書いていると、なんだか主役の倉石功や石田信之、曾我廼家明蝶の顔も朧気ながら浮かんできた。また、「柴田監督は初めての監督だ」と思ったのは、この作品だったのではないかとも思えてきて、自信がなくなった。だが、撮影内容はまったく思い出せないので、このブロブに書くことはない。
「怪談 玉菊灯篭」の監督は、あの倉田準二!
よく記憶にあるのは次の「怪談 玉菊灯篭」だ。監督は私たちと曰く因縁のあった、あの倉田準二監督だった(【Episode5】個性的過ぎるスタッフたち─その2+【Episode18】京都映画での日々─その6参照 )。あの倉田監督のチーフだ。助監督にとっても厳しく、時代考証や美術・小道具に超うるさい監督。しかも、今度はなんと吉原が舞台だった。
舞台は難物「吉原」
それまで私は、吉原遊郭をまともに扱った作品に就いたことがない。必殺シリーズや他の作品に出て来たのは、大抵は江戸の岡場所や宿場の女郎屋などの無許可の安私娼街だった。れっきとした幕府公認の最高格式を持つ吉原遊郭を扱うのは初めてだった。しかも「怪談 玉菊灯篭」というのは、吉原の遊女・玉菊が主役の話だ。
ストーリーと配役はこうだ。踊りの師匠お美代(結城しのぶ)は、身分違いの恋人・樫山主水正(江木俊夫)と心中するが、お美代だけが生き残ってしまう。心中者の片割れとして吉原の妓楼・巴屋に遊女として下げ渡され、玉菊と名乗ることになる。だが、上客の奈良屋茂左衛門(西山嘉孝)を客に取らない玉菊は、楼主の徳兵衛(玉村駿太郎)と女将(西岡慶子)に折檻され、地獄のような日々を送る。そんな中、主水正の弟源吾(江木俊夫2役)が玉菊の前に現れる。なんと、源吾は兄とそっくりだった。2人は引かれ合うようになる。それを妬んだ奈良屋は、同心・斎藤(西田良)を使って源吾を無実の罪に落とし、殺害してしまう。それを知った玉菊は、深い恨みを胸に抱いて自害する。やがて、玉菊の亡霊は奈良屋たちへの復讐を始める。
吉原遊郭とは
こんなストーリーなのだから、ほとんどが吉原の中が舞台ということになる。吉原には、一般の江戸の街とは異なる、様々なしきたりや規則、習慣がいっぱいあった。例えば、武士は吉原の中に刀を持って入ることは禁止されており、大門に入ったところの引手茶屋に預けなければならない。また、吉原はおはぐろどぶで周囲を囲まれており、出入りは大門に限られていた。その大門は夜四つ(午後10時)には閉まってしまうこと。その時、「大引けでござーい」という触れを、木戸番が拍子木とともに触れて回っていた。遊女たちがいる妓楼=見世にはそれぞれ格式があったこと。一番格式が高いのは、土間の朱い格子が天井まである惣籬(そうまがき)の大見世。次は朱格子が4分3の半籬の中見世。その次は朱格子が下半分の惣半籬の小見世だった。以上の3見世は2階建ての豪壮な建物だったが、一番下層の見世は時間制の切見世で長屋作りだった。
これまで書いたことは吉原の風習のほんの一部だが、こういうことを知っておかなければ、倉田監督の餌食になるに違いない。そう思った私は大学受験以来の猛勉強をした。1週間で吉原に関する本を2冊読んだ。1冊はたしか「吉原図説」みたいなタイトルが付いた、画で吉原の風俗・風習などを解説した本だった。この本は大変役に立った。画で見せてくれるというのは、すごく分かりやすかったからだ。分からないことは、ベテラン装飾部・稲川さんなどに訊いた。このころはまだ撮影所内に、時代劇の生き字引のようなスタッフが、数は少なくなったが残っていた。
高札場で倉田監督と対決
「怪談 玉菊灯篭」撮影が始まった。さっそく倉田監督がオープンセットで叫んだ。「助監督さ―ん、どうして高札場がないんですか―!?」。場所は美術が建てた吉原の大門前だ。打ち合わせで、監督がサラッと言ったことを思い出した。「このシーンは大門の外で撮ります。大門は……」と、大門の規模について美術とやり取りしたり、大門前での撮影の段取りを色々説明する中で、確かに「高札場」という言葉は聞いた。だが、それは芝居を絡めた説明でもなく、画に高札場を入れたいという話でもなかった。その後も「高札場」についての言及は一切なかった。だから美術は後で出てくる根拠もあって、高札場を作らなかったし、私も当日オープンセットの出来上がりを事前に確認した時にも、高札場がないことを気にしなかった。
その場に美術はいなかったが、私は倉田監督に説明した。「時代考証の資料では、高札場は大門の50間(90m)手前の衣紋坂の入り口のあったとあります。従って、大門の横には作りませんでした」。倉田監督の表情がちょっと変わった。怒鳴られるのか?それとも意地悪く問い糺されるのか?
これまでは、助監督が「忘れました」とか「知りませんでした」とかで謝っていたことが多かった。そして「すぐ用意します。ちょっとお持ちください」と言うと、嵩にかかって「待ちまっすよー、朝までまちますよー」と言っていた倉田監督だ。私の説明にどう応えるのか。少し間を置いて、倉田監督が口を開いた。「時代考証的には君の言う通りです。だけど、大門を本物みたいに大きなものが作れないので、その替りに高札場で賑やかにしたいんです。在りものの高札を全部建てて下さい」。そう穏やかに言った。いつもの雰囲気とは違っていた。「分かりました」と、私は装飾部屋に向かって駆け出した。
吉原をキャバレーのように
次は大見世の前だった。暮れ六つ(午後6時)になると清掻き(すががき)が鳴り響き、張見世(格子の内側)に遊女がズラリと並ぶ。格子外の通りから遊び客が、格子内の遊女を品定めしたり、冷やかしたりする。通りでは鑓り手婆が喧しく客を呼び込む。吉原の最も活気のあるシーンだ。私はセカンドやサードを指揮して、俳優や遊女のエキストラたちを、格子の中に配置した。遊び客にも、動きと芝居を付けて配置した。そこへ、倉田監督が来て言った。「遊女を全部外に出してください」。驚いた。吉原の遊女が外で客引きをするのは見たことが無い。資料でもすべて朱格子の内にいると書いてある。遊女が建物の外に出るのは、妓楼から引手茶屋に向かう花魁道中などか、客を見送る後朝(きぬぎぬ)の分かれの時以外にはない。私は「遊女を外に出すのはまずくありませんか?」と、監督に訊いた。倉田監督はニヤリと笑って言った。「時代考証的には無いことかもしれませんが、エキストラをたくさん使えないので、遊女をキャバレーの開店のように、表にズラリと並べます。暮れ六つ限定の行事と考えて下さい」「分かりました」。私はすぐに小道具に履物を用意するように頼んで、遊女全員を妓楼の前にズラリと並べた。撮影所に伝えられた言葉があった。「知らないで犯す間違いは許されないが、分かってやる嘘は許される」。その場面だと私は判断したのだ。
その後の倉田監督
倉田監督とはその後は良好な関係を保てた。私が吉原のことを勉強し、逃げないで正面から立ち向かったことを評価してくれたらしい。この作品の後は一緒に仕事をする機会はなかったが、帷子ノ辻駅前のコーヒーショップ「スマート」で逢ったりすると、一緒の席に座れと勧められて話をするようになった。私が監督になった時は、映画監督協会に入るための推薦人になって頂いた。
倉田監督は加藤泰監督と親しく、また尊敬もしていたらしい。「宮本武蔵」や「お耳役秘帖」でも倉田監督作品は加藤泰が脚本を執筆していることが多かった。時間が少し飛ぶが、1985年に加藤泰監督が亡くなった。その直後、倉田監督と「スマート」で逢う機会があったが、明らかに様子がおかしかった。私と話をしながら、手提げバックの中身をテーブルの上にひとつづつ並べていくのだ。全部出し終わると、今度はそれらをバッグに詰めていった。詰め終わると、またひとつづつ出してテーブルの上に並べていく。この繰り返しだった。
数日後倉田監督に誘われて、守口市あたりの文化施設に行った。「加藤泰監督を偲んで」という趣旨のイベントが開かれたのだ。倉田監督は、映画評論家や加藤泰フアンと一緒に壇上にいた。「偲ぶ会」が始まると、倉田監督は言った。「私は聞いていますので、どうぞ話を進めて下さい」。そして、バッグから中身をひとつづつテーブルの上に並べ始めた。「スマート」でやったことを壇上でもやり始めたのだ。しばらくして、突然倉田監督が喋った。「そのことについて、ひとこと言わせてください」。そして加藤泰監督との思い出を、滔々と話し始めた。そしてついに、感極まって男泣きに泣き始めたのだ。
後で聞いた話だが、倉田監督は心臓病で長く苦しんでいたらしい。ちょうど加藤泰監督が亡くなるころに手術を受け、ペースメーカーを植え込んだ。それで、一気に心臓病の苦しさから解放されたそうだ。その肉体的・精神的な苦痛からの解放と、尊敬する加藤泰監督の死に直面した悲しみがぶつかり合って、精神が不安定になったということだった。
思えば、倉田監督は大変に純粋な人だったのかもしれない。ここでは詳しくは触れないが、【Episode5】や【Episode18】京都映画での日々─その6で書いた倉田監督のエピソードは、我々助監督の不勉強さやモノ作りの準備不足への苛立ち、また俳優に対する心使いよりも作品に対する責任感から出た行為だったのかもしれない。そういう意味では、モノ作りに対しては純粋な情熱を傾けていた監督ともいえる。純粋に一生懸命になり過ぎて、「まあこのくらいで」という大人の常識をはみ出してしまい、撮影現場でもトラブルを抱え込んでいたのかもしれない。私にとっては、記憶にも心にも残る特別な監督だった。
このブログは今日の投稿でちょうど1年を迎えました。読者の皆様は、私の拙い文を毎回我慢して読んで頂き、まことにありがとうございます。もう少し続けてみようと思っています。次回は、「日本名作怪談劇場」の続きから書く予定です。
To Be Continued
※次回は来週水曜日(11月13日)に投稿予定。
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
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