第1回 
      皆元洋之助
        1947 年広島県生まれ。大学卒業後松竹芸能を経て1973年京都映
画の契約助監督。
        1980 年監督昇格。以後 40 年以上ドラマの監督を続けている。


はじめに
 昨年(2022 年)春、高鳥都さんというライターから「必殺シリーズ」や京都映画の回想録を作るということでインタビューを受けた。「必殺シリーズ」のことだけではなく、京都映画で製作した他の作品のこと、私が付いた有名監督や 型破り監督のこと、個性あり過ぎるスタッフのこと、撮影所で起こった信じられ ない出来事、私の助監督時代の失敗談、監督になってからのことなど問われるままにいろいろと話した。インタビューは結構長時間に及んだが、高鳥さんは面白 がってくれた。そのせいか、「昭和 39 年の俺たち」という雑誌に私のインタビ ュー記事が 2 号にわたって掲載された(注1)。この経験が私を目覚めさせた。「俺の活動屋人生って、意外と面白いやん」。このまま埋らせてしまうのはおしいと思い、書き始めた。文章のプロではないので拙い文だと思うが、興味のある方は しばしお付き合いください。(注1:私の記事は令和4年 5 月号、7 月号に掲載された。 勿論、他の関係者のインタビュー記事も「必殺シリーズ深堀インタビュー」として前後で連載された。この連載は好評で、同年 9 月単行本「必殺シリーズ秘史~50年目の告白録」として立東舎から出版された。続編も翌年「必殺シリーズ異聞~27人の回想録」のタイトルで出版され た)

【episode1】「ある日突然、監督に」その1
大作が来たぞー!
 まずは監督に昇格した経緯から語ろう。嘘のような本当の話だ。1980 年(昭和55年)、私は松竹の子会社・京都映画の契約助監督だった。なぜ契 約かというと、この頃は映画会社の経営は左前になっており、助監督の社員採用は絶えて久しく無くなっていたからだ。助監督になって7年目、チーフ 助監督になっても2年ぐらい経ったころだ。日本テレビ(以下日テレ)・京都映画共同制作(注2) の木曜ゴールデンドラマ「赤い稲妻」を、私たちのチームが撮影することに なった。
 「赤い稲妻」は2時間のアクション時代活劇で、主演に松方弘樹、共演に志穂美悦子、横内正、小林稔侍、藤木悠、本郷直樹、岩井友美、丹波哲郎とそうそうたるメンバーが揃ったなかなかの大作だった。
 監督は日テレ制作局次長Aさんの推薦でB監督。東京を中心に活躍しているベテラン監 督だが、京都映画は初めてだった。(注2:[制作」と「製作」。なぜかテレビ局関係は「制作」、撮影所関係は「製作」を使う習慣がある。本稿はその習慣に従った)
IMG_20231106_0002
木曜ゴールデンドラマ「赤い稲妻」日テレ・京都映画制作(1981 年3月5日放送)
   左から小林稔侍 志穂美悦子 横内正 松方弘樹 本郷直樹 藤木悠(牧野譲撮影)


クランクインはしたけれど

 5月の連休明けにクランク・インした。最初の3日間はロケ中心の撮影だった。何しろ出演者は人気俳優ばかり、私はロケには同行できず撮影所に残ってスケジュールのやりくりや準備に忙殺された。
 3日目の夜、ロケで音が録れない分のアフレコ(注3)をやった。アフレコを仕切るのは助監督チーフの 役割だ。通称「金魚鉢」と言われる録音ルーム後方の小部屋。最前列で私が指揮をとり、後ろで見ていたB監督に OK をとりながら進めた。予定の半ばあたりでB監督が何も言わずに部屋を出て行った。「トイレかな?」と思ってアフレコを進めた。しかし監督はなかなか帰ってこない。酒の好きな人だったので「製作部で飲んでるのかな」と思った。
 アフレコが終わっ て製作部に戻った。B監督はいない。製作主任の”黒ちゃん”に「監督は?」と訊 くと「戻って来てないで」という。「あのまま直接ホテルに戻って飲んでんのかいな。この時間だったら酔っ払っているに違いないな」と思った。翌日から2日間は撮休だ。「連絡は明日でもええか」と考えて帰った。(注3:アフレコとはアフターレコーディングの略。ロケなどで同時録音出来ない時、編集したフィルムに 合せて声を録る作業のこと)

カントク降板!
 翌日早朝、自宅の電話が鳴った。京都映画の佐々木康之プロデューサー(以後 P) からだった。佐々木Pは我々チームのボスで、なにかあったら私にすぐに電話してくる。開口一番「監督がやめたいと言うとる」。「はあ!?」。何のこっち ゃ?「さっき、日テレ制作局次長のAさんから電話があった。『B監督が撮り上げる自信がないから降板したいと言っている』と。何か心当たりないか?」。昨夜 のことを話したが、それ以外に心当たりはない。
 「で、監督はいまどこに?」 「東京。昨日のうちに帰ったそうや」。へッ!?アフレコルームからホテ ルに寄ってそのまま東京に帰ったってことかいな。「とにかく撮影所へすぐ来い」。監督がや めたいて、そんなアホな!それでのうても主演の松方弘樹のスケジュールが 後10日ちょっとしかない。その後は海外へ行ってしまう。共演者のスケジュ ールもややこしい。えーらいこっちゃ!!どないすんねん!!

                           to be continued

                    続編は来週水曜日更新予定

 
 第2回

                            皆元洋之助

【episode1】
  「
ある日突然、監督に」
その2
           (前号からの続き)


コンテおもろないな

京都映画に行くと、佐々木Pが「日テレのA局次長がB監督は諦めた方がえ言うとる。日テレと手分けして新しい監督を当たるわ」と言う。
 3日間現場にい
た助監督セカンドの木下くんに「何があった?」と訊いた。カメラマンの藤原三郎さん(”サブちゃん”)がB監督のコンテ(撮影プラン)を「おもろないな」とコトゴクひっくり返したらしい。京都映画では珍しくもないことだが、初めての監督──特に東京育ちの監督──にはショックだったかもしれない。

サブちゃんVSいっさん

実はこうなることには伏線があったのだ。当時、京都映画にはふたつのスタッフチームがあった。ひとつは主にABC(朝日放送)の人気番組「必殺シリーズ」を担当する石原興カメラマン(”いっさん”)を中心としたチーム。もう一つは我々の藤原三郎カメラマンを中心としたチームだ。後者は主に歌舞伎座テレビ室やABCの必殺以外の番組を担当していた。
 いっさんチームは少し前から始まった2時間番組「土曜ワイド劇場」を
それまで数本撮っていた。この番組はテレフィーチャーと呼ばれ、本編映画(注1)並みの予算で大物スターや劇場用映画を撮っている監督で制作するという触れ込みの評判番組だった。サブちゃんチームはまだ2時間番組を撮るチャンスに恵まれていなかった。サブちゃんはいっさんの一番弟子だが、その頃には「望遠の石原、ワイドの三郎」といわれるほどに評価を上げていた。口では言わなかったが、サブちゃんとしては悔しい思いをしていたに違いない。
 そこへ待ちに待った2時間
ドラマ「赤い稲妻」だ。サブちゃんは張り切ったと思う。ところが、B監督は職人的な監督だった。予算の範囲内で「そこそこのもの」を手早く撮り上げようとしていたのかもしれない。
 こういう職人的な早撮りの監督は撮影所では重宝された。意欲的で自己主張の強い作風の監督はテレビ局や世間には評価が高いが、時間や予算がオーバーしがちだ。また、意欲的なだけに作品的に当たりはずれも多い。それに反してB監督などの前者は、予算内でそこそこの出来の作品に仕上げてくれる。決してダメな監督ではない。だが、”サブちゃん”は「そこそ
こ」ではダメだったのだろう。いっさんを超えるものを撮らなければ意味がなかったのだと思う。

「カントク途中降板」という事態は、東京と京都という撮影所文化の違いだけではなく、監督とスタッフの意気込みの擦れ違いがもたらした結果だったのかもしれない。(注1:本編映画とは劇場用映画のこと。これに対してテレビ放映用のフイルム作品はテレビ映画と呼ばれた。当時は主として本編映画は35mmフィルム、テレビ映画は16mmフイルムで撮影されていた)

 
助監督失格
 B監督の体調の問題もあったかもしれない。監督はかなり酒好きで、その頃は一旦飲み始めるとかなり深酒になるようだった。クランクイン数日前の昼過ぎ、撮影所で準備に忙しい私に東京のB監督から電話が掛かった。「皆元君、僕のホテルは取ってくれたかね?」。飲んでいるのか、ちょっとロレツが怪しい。「はい、東映前の『夢屋』を取っています」「そうか、ありがとう」。

しばらくしてまたB監督から電話。「洋之助クン、ぼくのホ~テルは取ってくれたか?」。かなり口調が乱れている。「はい、東映前の『夢屋』をちゃんと取っていますよ」「そうか、ありがとう」。
 一時間後、またまたB監督。「ヨーち
ゃん。ホ、ホテルはー?」。ベロベロだ。「先ほども言いましたように東映前の『夢屋』を間違いなく取ってますよ」「そうか」。ガチャ。

深酒のせいとばかりはいえないが、そのころB監督は体調も精神状態もあまり良くなかったのかもしれない。そうでなければ監督が途中で自ら降板するとは思えない。助監督とはまさしく監督を助けるのが仕事だ。監督の体調不良を見抜けずに充分サポートできなかったことは助監督失格だった。私が現場に出て監督とサブちゃんの間を上手く取り持っていれば、「監督降板」という最悪の事態は防げたかもしれなかったと、忸怩たる思いだった。

監督やーい

 佐々木
Pの監督選びも難航していた。松方弘樹さんのスケジュールの関係で、既に撮った3日分を撮り直すことは出来ない。明後日からとは言わないが、数日後には撮影を再開しなければならない。こういう条件をクリア出来る監督はなかなかいないようだった。

拝み屋は同姓?

 昼過ぎ、佐々木Pが「外出するので付いて来い」という。二人でタクシーに乗った。行き先を訊くと「二軒茶屋」という。二軒茶屋と云えば鞍馬の手前だ。「二軒茶屋の何処ですか?」「拝み屋のところや」。エーッ、拝み屋?。こんな切羽詰まった時に拝み屋!?
 そういえば、前年に撮影したテレビ東京・歌舞伎座制作の「日本怪談劇場」。佐々木Pが出演俳優の悪い背後霊を取り除いてもらうために、祈祷師のところに連れて行ったらしいという噂があったな。あれは祈祷師ではなくて拝み屋だったのか。
 それにしても、今なん
で拝み屋?「赤い稲妻」に憑いた悪い霊を払ってもらう?それとも、B監督の背後霊を何とかしてもらうの?

二軒茶屋の住宅街でタクシーを降りた。分譲住宅らしい民家だ。表札を見る。な、な、なんと「」!!。ゲッ、なんじゃこりゃ!?「さ、佐々木さん、これ?」。ニヤッと笑う佐々木P

 
                       to be continued

 

 ※続編は来週水曜日アップの予定
※操作ミスのため第2回を早く投稿してしまいました。
 第3回は11月29日水曜日に投稿する予定です。


 



 
第3回

                      皆元洋之助

episode1】
  「ある日突然、監督に」
その3

  (前号からの続き)

 

拝み屋皆本幹雄

 私と佐々木Pは「拝み屋」の家に入った。初老の「拝み屋」は「皆幹雄」と名乗った。なんと、「神さんの声が聞こえる」という。時々ブツブツ言うのは「神さんの言葉」が口をついて出てくるらしい。「助監督の皆です」と自己紹介をすると、拝み屋がフッと笑った。??なんだ、今の笑いは?

用件は電話で告げていたのだろう、佐々木Pはいきなり「赤い稲妻」の台本を取り出した。そして、印刷してあるB監督の名前を指差して言った。「センセ、この監督どうでっか?」。えー、拝み屋に監督のことを訊くんかい!?
 ジッとB監督の名前を見ていた拝み屋が目を瞑った。やがて口がブツブツ。そして目を静かに開いて、言う。「ダメですね。神さんがこの監督は自信をすっかり失っていると言うてます」。「そうでっか、やっぱり駄目でっか」と佐々木P。え、えー!?こんなんで諦めるの!?

こいつはどうでっか?

続いて佐々木Pは一枚の紙を取り出した。後任監督のリストだ。見知った名前の監督名がズラリと並んでいる。大物監督・有名監督の名前もある。京都映画で撮ったことのない監督の名前も挙がっているが、日テレの推薦だろう。

一番上の名前を指さして「この監督どうでっか?」と訊く。アクション物が得意な私の好きな監督だ。拝み屋が目を瞑る、ブツブツ、開く「ダメです。断るだろうと言うてます」。そ、そんなんまで判るんや!?

二番目、映画もいっぱい撮っている人気監督だ。目を瞑る、ブツブツ、開く「体調を壊しています」。?ホンマに!?

三番目……「京都映画は嫌だと言うてます」。京都映画の悪い評判(注1)は神さんにも伝わっているのか!?……

リストにある監督は全部ダメだった。いきなり佐々木Pが私を指さし言う。「こいつ、ヨウノスケはどうでっか?」

 

 神さんのお告げは?

びっくりした。オ、オレ!?オレが監督!?……チーフになって2年。確かに、あまり才気が感じられない監督に付くと、「これぐらいだったら俺でも撮れるか」と思うこともあった。だが、元々そんなに強く監督になりたいと思って撮影所に入ったわけではない。撮影現場の緊張感や高揚感が好きで、その現場にいたいというのが助監督志望の第一だった。「いずれは」と漠然と思ってはいたが、監督になりたいという思いはまだそんなに強くはなっていなかった。そもそも京都映画という撮影所は松竹や歌舞伎座テレビ室の下請け製作がほとんどだったので、助監督は必要だが監督は必ずしも必要としていなかった。監督指名の権限は松竹や歌舞伎座やテレビ局にあり、彼らが好きな監督を外部から呼べばよかったのだ。だから、京都映画出身の監督はほとんどいなかった。ただすこし前から、助監督先輩の家喜さんや高坂さんが時々監督を任されるようになっており、少しは道が開こうとしていた。しかし、自分はまだまだ先のことだと思っていたのだ。

でも、この思いがけない展開には、正直ドキドキした。拝み屋がもし「皆元でいける」と言ったらどうなる?それで監督になれるとしたら……いやー、いやー、それは……。
 拝み屋が、いや皆本センセーがジッ
と私を見る。ど、どんな顔をすればええんや?センセーが目を瞑る。いま、神さんの言葉を聞いているんや!そして、唇が何事か呟く。何と云ったのか?目を開く。ゴクリ唾を飲む私。「神さんは……」。何と云った?何と云った?「……2~3年は無理だろうと言うてます」。!!!
                     to be continued

(注1:「東京の監督の間で京都映画の評判が悪い」という噂が、当時京都映画にも伝わっていた。「必殺シリーズ」に呼ばれた東京の監督のなかに「思うように撮らせてくれない」「スタッフが言うことをきかない」と不満を漏らす監督がいたらしい。たしかに京都映画、特に「必殺シリーズ」には、「必殺はこうあるべきだ」というポリシーみたいなものがあって、それから外れた演出にスタッフが抵抗する雰囲気があったことも事実だ。それに、石原興(いっさん)という超優秀なカメラマンの存在があった。私が助監督で付いていたときにも、監督の演出プランよりもいっさんのアイデアの方が面白いと感じる場面が多々あった。京都の監督はいっさんの力を上手く利用していたと思うが、東京から来た監督の中にはそういう事態を「屈辱」と感じた人もいたかもしれない。そこらあたりが噂の原因ではないかと私は思っている)
                             


 ※続編は来週水曜日アップの予定です




第4回(2023年12月6日)
                                 皆元洋之助

【episode1】

  「ある日突然、監督に」その4 
        (前号からの続き)
初監督は夢と……

拝み屋が言った。「神さんが監督になるのは2~3年は無理だろうと言うています」。がっかりもしたが、ほっともした。初監督作品を準備期間もほとんどなしに、しかもこんな大作で撮るのは大変だ。大変を通り越して無茶だ。
 「赤い
稲妻」は、サブタイトルが「将軍吉宗の母を救え!影の忍者軍団決死の戦」とあるように、大チャンバラ活劇なのだ。「七人の侍」「荒野の7人」まがいのメンバースカウト劇、ハングライダーでの天守閣降下作戦、断崖と断崖の間にロープを張っての集団忍び込み、集団と集団の城中大チャンバラ、ロープを使っての脱出作戦とロープ上の死闘、保津川急流での船と船との追っかけ、船上での大殺陣等々、本編映画もビックリのアクションの連続だ。しかも主演はバリバリの大スター松方弘樹。おまけに一筋縄ではいかないスタッフたち。

拝み屋と5百年前に兄弟!?

「そうでっか」と私の初監督案をあっさり引っ込める佐々木P。もう諦めるんかい!私の監督話はいかにも「ついでに云ってみた」という感じだ。「こいつはセンセと同じ広島出身なんですわ」。「ほう」と、また目を瞑る皆本氏。ブツブツ。「私とあなたはおよそ5、6百年前15~6代前に,5人の兄弟から別れたと神さんが云っています」。ホンマに!?「皆本・皆元や皆川など皆の字が付いた姓、水本や水上などの水の字が付いた姓は、水や海に関係のある仕事をしていました。あなたと私の先祖は、海賊でした」。ゲッ、当たっているかも。「母方の祖母は越智姓で、先祖は瀬戸内海の大三島の海賊だったそうです。皆元家はその隣の島で船大工をしていました」「船は海賊にとって商売道具ですからね」と、にこやかにシンセキの皆本氏。「こいつは、いまヨメハンと上手いこといってませんねん」。オッサン、急になんちゅうこと言うねん!「佐々木さん、ちょっとケンカしてるだけやないですか。いらんこと言わんといて下さい」と、抗議したが、「ヨウノスケさん、さっきあなたが自己紹介した時に私が笑ったのを覚えてますか?」と皆本氏。「あ、はい」「あれは、いま佐々木さんが言ったことを、神さんが教えてくれたんですよ。それで、つい……」。!!!参ったな。

撮影所に怪しい動きが
 撮影所に帰ったが、後任監督が決まらないことにはやることがない。だがしばらくして、佐々木Pのおかしな動きに気が付いた。カメラマンのサブちゃん、照明の染川さん、録音の広瀬さん(”ワカ”)、助監督セカンドの木下君などを次々に自室に呼んで、何かこそこそと話している。ありえないことだった。チーフ助監督の私を抜きにして進む話などないはずだ。ピンときた。「ひょっとして……」。どうする?どうする?準備期間もなしに出来るんか?神さんも2~3年は無理て云うてたやろう。しかし、こんなどさくさの機会でもないと、オレみたいな雑草にチャンスはないで。だけど、でも、やっぱり…………ええい!覚悟を決めた!!

佐々木Pを別室に呼び出した。「もしかしたら、僕に監督をやらせようと思うてます?」「そうやな。みんなに『ヨウノスケは監督をやれると思うか?』と訊いてるとこや」「で?」「『出来るやろう』と言うてるな」「そうですか……どうしても僕がやらんといかんのやったら、いま言うて下さい。いまやったら撮影再開までに1日半あって、何とかなります。明日言われても出来ませんよ」「分かった。日テレも『皆元クンだったら良いんじゃない』と言うてくれとる。お前が、監督やれ」。

やっぱり神さんが……

こうして私は監督になった。この後の「赤い稲妻」初監督奮闘話はすこし時間を置いて語るとして、皆本幹雄氏との後日談がある。
 それからしばらくして、皆本幹雄さんに会う機会があっ
た。京都駅前のホテルだった。そのホテルに「お化けが出る」と噂になり、ホテルに憑いた悪霊を払って欲しいと依頼があったそうだ。「2~3年は監督になるのは無理と言われましたが、その日に監督になりました」と言ってみた。そしたら、遠い遠いシンセキの拝み屋は、ニッコリ笑って言った。「お祈りの効果が現れましたね」

                         episode1】 THE END      

 
少し長いあとがき
 episode1】を書き終えてふと気付いたことがある。あんなに切羽詰まった状況で佐々木Pはなぜ私などを皆本幹雄氏のところに連れていったのか?プロデューサーが監督の人選を拝み屋に頼るなど話としては面白いが、ふだん結構厳しいところもある佐々木Pにしては行動が突飛すぎないか?もし本当に拝み屋に頼っていたとしたら、なぜ「2~3年は無理だ」と言われた直後に私を監督にする行動に出たのか?そんな疑問が44年も経ったいま、ふっと湧き上がったのだ。
 後で聞いた話だが、当時皆本幹雄氏と日本テレビのA制作局次長は面識があったらしい。皆本氏が日本テレビの昼のワイドショーに何度か「霊媒師」として出演してしていたのだ。A局次長がご自分の運気上昇祈願を皆本氏に依頼したという噂も聞いた。
 一方、佐々木Pは以前から皆本氏を世に出すプロデュースをしていたふしがある。もしかすると、日テレに皆本氏を売り込んだのは佐々木Pだったのかもしれない。これらにことをひっくるめて考えた私の推理はこうだ。
 B監督が降板を申し出た日の午前中、佐々木Pは後任監督の交渉を必死に進めていたはずだ。しかし、撮り直しが出来ないことやスケジュールが厳しいことこなど、難しい条件をクリア出来る監督はいなかった。その日の昼の時点で佐々木Pは「ちゃんとした監督を探すのは不可能だ」と感じたのではないだろうか。そして、助監督チーフの私を監督にするしかないと決断した。
 さいわい私はA局次長の部下である現場プロデューサーのCさんとDさんの信頼を得ていた。実は、「赤い稲妻」クランクイン前に台本検討会議があった。出席メンバーは日テレのCさんとDさん、佐々木P、B監督、台本直しのシナリオライター鈴木生朗さん、そして私の6人だ。その席上、私は結構発言しアイデアも出していたと思う。結果、台本直しをDさんと鈴木さん、それに私の3人でやることになった。藤田ホテルの一室を借り、3人で徹夜で直した。
 そんな経緯があったので、佐々木PはまずCさんDさんに「皆元でいくしかない」と相談し了解を得たのではないか。問題は私のことをあまり知らないA局次長だ。そこで佐々木Pは皆本氏を利用もしくは協力してもらうことを思いついた。私を皆本氏に合わせ、A局次長には「皆本センセは皆元でいけると言ってました」と報告し、皆本氏を信頼しているAさんを説得した。あるいは「皆本センセに皆元で成功するように祈祷してもらいます」と言ったのか。言ってみれば、あの奇妙な行動は「皆元を監督に据える『拝み屋』大作戦」だったのではないか?
 44年を経た疑問は、上記のように考えるとストンと腑に落ちるのだ。佐々木Pは、上司として私の活動屋人生を支えて頂いた恩人である。だがそれだけでなく、私の人生の最大の節目である「監督昇格」の場面でも、決定的な役割りを演じてくれていたに違いない。私のために信じられないような奇手を使って……。
 
迂闊にも私は今日に至るまで、あの日の佐々木Pの行動の意味を考えることはなかった。だが、あの時の真相をもう佐々木さんに訊くことは出来ない。感謝の意を伝えることもできない。数年前に惜しくも他界されたのだ。このブログをもっと早く書いていればと思うと残念でならない

※ご感想・ご意見などありましたら、是非とも下のコメント欄にお願いします。
※来週水曜日からは【episode2】です。私の操作ミスがなければ【episode2】は【episode1】の上に出るはずです。