Episode18
  助監督になるその後

      ──京都映画での日々

    その21

 

火野正平のこと

 火野正平が亡くなった。私と同世代の俳優としては、イヤ「俳優」と呼ぶのは火野正平の場合しっくりこない。「役者」と呼ぶ方ことにする。呼び名もそうだ。私の方が2つ年上だが、私が助監督サードで始めて出会った頃、彼はすでにスターの仲間入りを果たしていた。だから「正平さん」さんとか「正平ちゃん(実際はそう呼んでいた)」とか書くべきなのだろうが、「正平」と書くほうがどうもしっくりする。従って、「正平」と書いていく。

前置きが長くなった。正平は私と同世代の役者の中では、最も元気だと思っていた。NHKBS「日本列島こころ旅」は、2011年というから正平が60歳を過ぎてから始めた番組だ。しかも、自転車に乗って全国を走り回るという非常にアクティブな番組だ。それを70代半ばの、つい最近まで続けていたのだから、ピンピンしているものとばかり思っていた。「腰を痛めて収録を中断している」と聞いても、すぐに回復して戻って来るものと思っていた。それでなくても、「殺しても死なない奴」とずっと思っていたのだ。だから訃報を聞いた時は、本当にびっくりした。

 

正平との出会い

正平と初めて出会ったのは。1975年朝日放送・松竹制作近藤正臣主演の「斬り抜ける」だった。その時私は28歳。助監督になって3年目のサードだった。正平はその2年前に、NHK大河ドラマ「国盗り物語」で木下藤吉郎役に抜擢され、一躍全国区の役者になっていた。それまでは、大阪・京都ではそこそこ知られてはいたが、スターというにはほど遠い役者だったことは、私も松竹芸能にいたのでよく知っている。その頃の正平について少し触れておきたい。

正平は子役の頃から大阪のテレビ局や京都の撮影所で活躍していた。1966年の「わんぱく砦」で人気者になったが、その後ヒット作には恵まれていなかったらしい。その頃私は、正平とは一緒に仕事をしたこともなかったし、面識も無かったのだが、正平のことはある程度耳に入っていた。

1971~2年頃の所属事務所である大阪の冬木事務所のマネージャー冬木さんが、よく正平の当時の芸名(本名も同じ)「二瓶康一」の名を口にしていたのを記憶している。その口ぶりから、「冬木さんは二瓶康一という役者を大事にしているんだな」と感じていた。ある時、冬木さんが憤懣やるかたなき表情で言った。「二瓶を星野事務所に引き抜かれた」。だがその話は、「引き抜かれた」のか「穏当に移籍した」のかは別として、私はすでに知っていた。

私が所属していた松竹芸能には、当時大阪にあった星野事務所のマネージャー真木勝宏さんがよく遊びに来ていた。真木さんはその雰囲気から「グズラ」というニックネームで呼ばれていた。グズラは私の上司だった加藤哲也さんや、京都映画に入る時にもお世話になった佐久間博さんの、麻雀や競馬の仲間だったのだ。私はそのグズラの口から、二瓶康一が星野事務所に移籍することは聞いていた。グズラの口ぶりでは金銭トレードみたいなことだったらしい。それ以外にも、近藤正臣や桜木健一などがスターになったことで、星野事務所が東京に移転すること。二瓶康一が「国盗り物語」に木下藤吉郎役で抜擢されたこと。それを機に火野正平に芸名を変えたことなども聞いていたのだ。

また、正平の女性遍歴についても、私が松竹芸伊能に在籍中、すでに小鹿みきとの恋愛話は週刊誌やテレビの芸能ニュースなどで報じられていた。

 

「斬り抜ける」の正平

さて、「斬り抜ける」だ。正平は主役でこそなかったが、すでに「国盗り物語」や「人間の歌シリーズ」によって、スターの仲間入りを果たしていた。私といえば、ぺーぺーのサードの助監督だ。だが正平は、他のベテランスタッフと分け隔てなく接してくれた。というか正平はそのころから、年上や立場が上の監督や俳優にも、平気でタメ口をきいていたと言った方が、正確かもしれない。誰とでも同じように喋り、接していたのだ。

「斬り抜ける」の頃は、妻帯していたスタッフが私や都築一興(イッコウ)や藤原三郎キャメラマン(サブちゃん)のために、弁当を作ってきてくれていたことはすでに何度か書いた。正平はその食事の輪の中に、「オレにもおくれ」とまったく自然体で飛び込んできていた。彼は子役の頃から、京都映画に出入りしていた。だから、スタッフも正平をスター扱いすることなく、お互いに仲間意識を持っていたのではないだろうか。

 正平が、先輩で主役の近藤正臣さんに挑戦するように、挑み掛かっていたこともすでに書いた。私たちスタッフは、「次は何をやって近藤さんに挑むのか」と、2人の共演シーンを心待ちにしていた。この世界に長くいたが、こういった期待を抱かせる俳優はそうはいなかった。貴重な経験をさせてもらったと言える。
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「斬り抜ける」の大阪城ロケ記念写真。前列左から2人目が筆者、右端が藤原三郎。
後列左から2人目が近藤正臣、右端が火野正平、右から6人目が都築一興。

 

庶民の希望の星・火野正平

 「斬り抜ける」での正平は、「よろず屋の弥助」という役だった。不義密通の汚名を着せられて逃亡生活を送る、主人公・近藤正臣とその親友の妻・和泉雅子母子を、陰に陽に助けるという役どころだ。時代劇の御多分に漏れず、主人公は強固な正義感や倫理観・使命感に従って行動することになる。だが、弥助はそうではない。基本的に「どちらが儲かるか」「どう動くのが得か」という、損得勘定が行動基準となる役柄だ。主人公はある種超人的なヒーローだが、正平演じる弥助はそのドラマを見ている視聴者と同列の、平凡な庶民だ。正義感や倫理観・使命感で動きたくとも、様々なしがらみでついつい損得勘定に走ってしまう。だから弥助は、主人公たちに親近感を抱き、その正義感に心を動かされながらも、しばしば金のために主人公たちを裏切ろうとする。だが、ドラマはそこで、平凡な弱い庶民に救いを用意する。一旦は裏切った弥助は、最後の最後に欲を捨てて、主人公たちに味方をする。現実ではなかなかそうはできない庶民視聴者に、希望を与えるのだ。従って、正平演じる弥助は庶民の救いと希望を象徴する役ということになる。

 正平はこの後も、そういう役柄を演じ続けることになる。「必殺シリーズ」しかり、「眠狂四郎シリーズ」しかり、「長七郎江戸日記シリーズ」しかりだ。そういった正平のはまり役の最初が、「斬り抜ける」ということになる。

 

野生児・正平

 「斬り抜ける」の京都西山ロケで、馬が出てくるシーンがあった。馬屋の高岡のおっちゃんが、まだ鞍を載せていない裸馬を撮影現場に引いてきた。正平の乗馬のシーンではなかった。だが正平は、無造作に馬に近づくとクビ筋を優しく叩いた。馬が正平に首をすり寄せてくる。「馬好きなのかな」と私は思った。突然、正平はヒラリと馬に跨った。驚いた。鞍を載せていない裸馬だ。しかも正平は、下駄を履いたままだ。馬は平然としていた。「ちょっと駆けてええか?」。正平が高岡のおっちゃんに訊いた。「ええよ」とおっちゃん。正平は馬首を巡らせて駆け去った。あまりにも無造作で鮮やかな乗馬ぶりだった。おっちゃんが言った。「正平はすぐに、馬と友達になりよんねん」。野生児火野正平の面目躍如たる場面だった。

 

その後の正平と私

 「斬り抜ける」後の正平は、時代劇に現代劇に映画にテレビにと八面六臂の活躍を見せた。そして、197779年にかけて必殺シリーズのレギュラーになった。その頃の必殺シリーズに私は殆ど就いていなかった。従って、正平との接点はあまりなかった。正平は必殺シリーズに1シリーズおきに出演していたので、その隙間に私が就いていた「浪花おこし(1978年)」に出た。「浪花おこし」での、主演女優望月真理子と正平のことは、【Episode18その13】で書いた。

1980年に私は監督に昇格した。その後、東京12チャンネル(後のテレビ東京)・歌舞伎座テレビ制作中村吉右衛門主演の「斬り捨て御免!」が始まった。「斬り捨て御免Ⅱ」から私も監督陣の仲間入りをした。私はその後番組片岡孝夫主演の「お命頂戴!」、「斬り捨て御免Ⅲ」と順調に監督キャリアを積んでいった。もっとも、各シリーズの最初は監督補として準備を担い、順調に滑り出すと監督のお声が掛かるという感じだったが。そしていよいよ、1982年「眠狂四郎円月殺法」が始まった。主演は片岡孝夫、そして正平が「巾着切りの金八」役でレギュラー出演することになった。

 

正平との対立

私の出番は第2話からだった。主演の片岡孝夫(孝夫さん)とは、「お命頂戴!」でチーフを務め、監督も2本していたこともあって、スムーズな関係だった。松尾嘉代や小松方正、岸辺シロー、伊吹吾郎などともトラブルはなかった。

だがそれまで一番付き合いが多かった、身内ともいえるはずの正平は、なぜか違った。私の演出方針にことごとく反対するのだ。例えば、台本通りでは面白くないと考えて書き換えたシーンでは、私の説明を聞いた後に首を捻ってボソっと言う。「台本通りの方がええんちゃうか」。別のシーンでは台本通り撮ろうとすると、皮肉な表情を浮かべて「台本通りやないか。おもろないな」と挑発する。動きに関しての私の指示も、素直に聞かない。しばしば無視して動く。とにかく、気持ちよく演出させてくれないのだ。当然現場で対立することになった。怒鳴り合いになることもあった。

いま思えば、当時の私はかなり肩肘張っていたと思う。7年間様々なタイプの監督の下で働いていた。俳優やスタッフの前でこんな惨めな姿を晒したくないという監督もいた。考えてきたコンテ(撮り方)を、打ち合わせや撮影現場で突っ込まれて、うまく対応できずに立ち往生する姿だ。

そうでなくてもこちらは新人監督だ。だから、台本を受け取った後に必死で準備した。台本のマズイところや面白くない部分を、時間が許す限り書き直した。これは佐々木康之プロデューサー(以下P)に鍛えられた、本直し修行のお陰だ。コンテもできるだけキッチリ作った。登場人物の動きや動く切っ掛け、体の向きや表情、キャメラワークなどもかなり克明に作った。

もちろんこういった作業は、作品を良くしよう、面白くしようという想いから出ていることは当然だ。それが監督という仕事なのだから。だが一方、打ち合わせや現場で立ち往生する無様な姿を見せたくないという、脅迫観念みたいなものもあったと思う。

そういう気持ちを持っていたせいか、それとも性格の故なのか、台本や撮り方に異論が出てくると、必要以上に反発していたような気がする。正平は、そういう私の鯱張った振る舞いを見ていて、目を覚まそうと水をぶっかけてきたのかもしれない。

 

別れた女たちに小忠実な正平

現場で対立した直後でも、正平は何事もなかったように私のいる部屋にやってきた。その部屋というのは佐々木Pの部屋で、しばしば佐々木PAPの仕事をしていた私も使わせてもらっていた部屋だ。佐々木Pがいないのを確かめて正平は言った。「電話借りるで」。そして私の横に座って、電話相手と延々と話をするのだ。どうも、相手は決まって女のようだった。一日に何度もやってきて電話を掛けるのだが、その度に相手が違うようだった。

私は台本を直したりコンテを作る作業をしているのだが、すぐ横で喋っているので、自然と会話が耳に入って来る。「誰と喋ってるの?」と訊いた。「さっきは〇〇、いまは△△」。驚いた。正平が付き合ってきた女優の名前だ。しかもマスコミ情報では、すでに別れたことになっている女優たちだ。正平はまたダイヤルを回し始めて言った。「次はヨメハン」。なんと、とっくに別れたことになっている、最初の奥さんだ。正平はこれまで噂のあったほとんどすべての女優や歌手に、毎日セッセと電話を掛けまくった。驚いたことに、誰も正平の電話を拒絶しない様子だった。話す口調も相手によって変えることはなかった。私たちと喋るのと一緒だ。「この小忠実(こまめ)さ、それが正平のモテル秘密だ」。そう思った。

正平が電話を切って私に言った。「今の誰やと思う?」「そんなん分からん」と、私。「✖✖や」。若手有名女優の名前だった。「マスコミはまだ嗅ぎつけてへん。内緒な」と正平。私の知る限りその女優の名前は、正平の相手としてマスコミに一度も登場しなかった。

次の「眠狂四郎 無頼控え」も含めて、私は13本演出したが、毎回のように正平とバトルを繰り返した。そしてその間ずっと、正平と彼の付き合って来た女優との会話を、間近で聞かされ続けたのであった。

 

「事務所に内緒で出演してくれ」

1986年、私は初めて劇場用映画を撮ることになった。「舞妓物語」だ。その経緯はすでに【Episode8】で書いた。その中に、主人公の舞妓がお座敷に上がることになり、客を接待するシーンがあった。その客とのやり取りを通して、舞妓としての適性が優れており、頭の回転の良さも表現するシーンだった。そのシーンは、後に強烈な悲劇が控えており、楽しいシーンにすることが必要だった。問題はその相手役だった。1シーンしか出ていない役だ。あまり高い出演料は払えない。だが、そのシーンを面白くしようとすれば、かなりの演技力と明るい雰囲気の俳優が必要だった。そこで私は、正平に目を付けた。

正平は無類の博奕好きだった。競輪・競艇・麻雀となんでも来いだった。そして、その博奕の借金が嵩んだ。所属していた星野事務所が、その借金の肩代わりをすることになった。その代わりにギャラは全て事務所に没収され、月々決まった給料をもらうという状態になっていた。

私は正平のマネージャー真木勝宏(グズラ)に電話した。松竹芸能時代からの付き合いだ。私はグズラに言った。「正平は小遣いに困っているやろ。10万本人に直接払うから、俺の映画に1シーン出てくれへんか?事務所に内緒で」。まことに厚かましい申し出だった。普通に払えば1シーンといえども、50万ぐらいは請求される役者だ。怒鳴られてもおかしくない、非常識なお願いだった。グズラは言った。「ええよ。ヨウノスケの本編初監督祝いや。事務所には内緒にしとく」。交渉成立。正平は期待通り、面白いシーンにしてくれた。

ちなみに真木さんは変なというか、面白いマネージャーだった。その「グズラ」という仇名が表す通り「味のある」風貌だった。そのキャラクターを面白がったスタッフのアイデアで、「新・必殺仕置人」ではなんとレギュラー出演した。ストーリーには絡まないが、赤フンドシ一丁で観音長屋の屋根に上って、釣り糸を垂らしているだけとういうヘンテコリンな役だ。台本にも「屋根上の男・マキ」とちゃんと書いてあった。その真木勝宏さんは偶然にも、正平の訃報が伝えられるほんの少し前に、亡くなった。私は京都映画時代にも、それ以降にもいろいろとお世話になった方だ。ご冥福を祈りたい。

 

正平の役者魂

さて、正平のことだ。それから数年経って、私は京都映画を離れて大阪の東通企画と契約を結んだ。私は2時間ドラマ「土曜ワイド劇場」や毎日放送の帯ドラマ、朝日放送の「部長刑事」などを演出するようになった。その「部長刑事」の私の監督回に、火野正平がゲスト出演することになった。「舞妓物語」から12年ほど経過していた。出会い頭に正平が言った。「長い間、呼んでくれへんかったな」「ごめん、なかなか正平ちゃんのイメージに合う役が無かったんや」「オレは役者やぞ。どんなイメージにも合わすことができるんや」。火野正平の役者魂は衰えていなかった。イッコウも現場に駆け付けた。イッコウも「部長刑事」の演出陣に入っていたのだ。旧交を温め合った後、正平がボソリと言った。「そやけど嬉しいな。京都映画育ちのお前やイッコウが、現役監督で残っていてくれて」。

 

「役者を信じてないのか!?

それからまた10年近く経って、土曜ワイド劇場「標高2500m!天空の殺意~北アルプス連続殺人ルート」を撮ることになった。犯人役に正平をキャスティングした。久し振りの再会に正平は喜んでくれた。都内ロケでは自分の車に私を乗せて、ロケ地まで一緒に行った。立山ロケでは正平は出番が少なかったので、料理を作って私たちがロケから戻って来るのを待ってくれた。そこから毎晩のように宴会が始まるのだ。

だが、撮影現場では昔のままだった。安曇野の旧家でのロケだった。主役の渡辺いっけいと正平との2ページちょっとのシーンだったと思う。私は正平の芝居をキッチリ捉えようと、5~6カットのコンテを作っていた。ドライ(段取り)が終わると正平が言った。「ヨウノスケ、お前役者を信じてないやろう」「そんなことない。なんでや?」「仰山カット割っとるやないか。役者を信じてない証拠や」。正平は昔と同じようにオレを挑発している。そう思った。どこか守りに入っているヨウノスケを感じて、敢えて挑発しているのだ。有難く挑発に乗ることにした。私は声を張り上げていった。「上等や!ドンブリで撮ったろうやないか!」。ドンブリとは撮影所用語で、シーンの頭から終りまでワンカットで撮ってしまうということだ。「よーし、ここからここまでレールひけ!ワンカットで撮るぞ!」。私と正平のやりとりを、固唾を呑んで見守っていたスタッフたちが、ドッと湧いた。一気に現場に活気が出た。役者が監督を挑発し、監督がそれに乗ってみせる。逆の場合でもいい。そういった緊張感溢れる「遊び」が、現場を活気付かせるのだ。久々に気持ちいい緊張感だった。

思えば京都映画での日々は、そういうものだったのではないだろうか。工藤栄一監督の組が面白かったのは、随所に工藤監督のスタッフや役者への挑発があったからだ。私たちが今でも京都映画を懐かしいと思うのは、そんな日々を懐かしいいと、今も感じているからではないのだろうか?

私にとって正平は、そういった挑発や緊張感を投げかけてくれる、貴重な役者だったのではないか。これは、正平が亡くなって、この追悼の文を書いていて、湧き上がってきた想いだ。私にとっては掛けがえのない役者だったのだ。それをいまになって気付かされるとは……。正平の冥福を祈る。


                     To Be Continued 

 

※次回は来週水曜日(12月25日)に投稿予定。



お知らせ

 スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 

照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 

受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 

是故空中 無色 無受想行識 

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界  無無明 

亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

般若心経