Episode20】
 助監督修行やり直し

   ──まだまだ京都映画での日々

     その1

 

激動の1979年~1980

 小生32歳、助監督になって7年目。チーフ助監督になってから2年目のことだ。1979年初秋から1980年初夏に掛けての1年間。この1年間は私にとって、正しく激動の1年間だった。まず、京都映画初ビデオ作品準備のために、毎日放送(MBS)でのスタジオドラマの研修。そして、その成果をもとに、佐々木康之プロデューサー(以下P)の下でMBS・京都映画制作「花かぶら」の、2カメマルチビデオ収録チームを立ち上げた。鹿児島ロケハンとタイアップ交渉も経験した。初ビデオ作品でのこれまで経験したことのない現場、予備編集など貴重な体験を積んだ。そして、わがチーム初2時間ドラマである、日本テレビ・京都映画制作「赤い稲妻(19805月製作)」にチーフで就いた。そしてその作品での仰天の監督降板劇。さらに、500年前に兄弟だったと宣う拝み屋さんの活躍(?)で、なんと後継監督に指名された。その後、眼がくらむようなトラブルを乗り越えて、何とか完成に漕ぎ付けた。それは、チームやスタッフの見事な活躍に支えられたお陰だったことなどなどだ。本当に目まぐるしく動きの激しい1年だった。そのことは、すでに【Episode1ある日突然監督にその1~4】【Episode6ある日突然監督に・続編】【Episode18その19~23】で書いたので、興味のある方は参照して頂きたい。

 

助監督修行のやり直しへ

激動の一年じゃまだまだ続いた。「赤い稲妻」の放送は翌年だったが、完成試写などでの作品の評価は悪くはなかった。特に日本テレビのPたちは高く評価をしてくれた。だが、「赤い稲妻」は大幅な赤字を出してしまった。私は突然監督に指名されたので、完成させることを至上命題にして、経費のことはあまり考えずに撮影したためだ。その結果、私は京都映画の佐々木Pからこっぴどく叱られ、「助監督修行をやり直せ!」と命じられた。このこともすでに【Episode6】で書いた。

その頃、京都映画では「赤い稲妻」と並行して、東京12チャンネル・歌舞伎座テレビ制作の「斬り捨て御免!」を受注していた。歌舞伎人気俳優の中村吉右衛門が主演する時代劇だ。私たちのチームは「赤い稲妻」の撮影終りで、そのまま「斬り捨て御免!」を担当したが、私は「赤い稲妻」の仕上げ作業が終わってから、遅れて参加した。もちろん「助監督修行やり直し」のために、チーフ助監督として。

 

「斬り捨て御免!」とは

 「斬り捨て御免!」の原作は島田一男。時代は江戸時代後半の文化文政期。江戸三味線堀にある三十六番所が舞台だ。三十六番所は、江戸市中899ヵ所に設けられた武家番所の一つ。普段は巷の喧嘩や揉め事の仲裁、失せ物探しなどといった仕事を請け負いつつ、町人には親切、怠け気味ののんびり番所だ。だがその裏では、非道な悪を独自の権限で裁く「斬り捨て番所」としての厳しい一面を持つ。その新任の頭取が花房出雲(中村吉右衛門)だ。豪放磊落だが正義感は熱い。もちろん腕もめっぽう立つ。だが元は奥祐筆とあって、博識の頭脳派で教養も高い。暇な時は三味線を爪弾きながら小唄も唸るという洒脱な面も持っている。番士たちからは「大将」と呼ばれている。

 古株の番士が関大助(長門勇)。出雲がつけたあだ名は「とっつぁん」。女児ばかり5人の子持ちで呑兵衛。武術と体術の達人で主な得物は短槍だが、敵方の武器を奪ったりその場にある様々な物を使用するなど、変幻自在の戦い方をする。その他の番士に、松波蔵人(伊吹剛)と宇部伝十郎(川崎公明)。 三十六番所以外には、出雲にぞっこんの小料理屋「千扇」の女将初音(岩井友見)。出雲を三十六番所に送り込んだ、親友の大目付朝倉丹波(橋幸男)など。出雲を中心とした彼らの活躍を、11時間完結で描いていく。

 

印象が薄い「斬り捨て御免!」第1シリーズ

正直言って「斬り捨て御免!」の第1シリーズはあまり印象にない。多分途中参加だったせいもあるのだろう。京都映画が歌舞伎座テレビの下請けとして受注した作品だが、半分ぐらいは大映系のスタッフによって大映の撮影所で撮っていたのだ。「赤い稲妻」が終わってから京都映画のスタッフに変わり、セットも京都映画に引っ越ししてきたわけだ。私の参加はさらに遅れた。担当したのは、たぶん3分の1ぐらいだったに違いない。助監督はやはり準備から参加しないと、愛着が湧きにくいのかもしれない。

 

主役だけの抜き撮り現場

 「斬り捨て御免!」は歌舞伎のトップスターが主演を務めるために、特殊な撮り方をしていた。中村吉右衛門はほぼ1ヶ月おきに舞台に出演していたのだ。そのため、京都にいる間の1ヶ月足らずで、1時間番組7~8話分の抜き撮りをしなければならなかった。吉右衛門=花房出雲が出ているシーンだけを抜いて撮るのだ。そして、残った出雲の出ていないシーンは、翌月に撮るという段取りだった。同じセットやロケ地でも、出雲が出ていないシーンは翌月回しになる。非効率だし、繋がりのセット、衣装、小道具、メイクなどを覚えておかなければならないスタッフの苦労は並大抵ではなかった。それでも、それが受注の条件なのでしかたがない。

 主役の中村吉右衛門は、後に人間国宝になるほどの名優だが、彼のことは私が準備から就き、監督も務めた「斬り捨て御免!」第2シリーズ、第3シリーズで書いてみたい。

 

ホン直し修行

 「斬り捨て御免!」の京都映画サイドのPは佐々木康之さんだった。佐々木さんにはよく撮影中も部屋に呼ばれてホン(脚本・シナリオ)を読まされた。そしてその場で意見を言わされ、それを翌日までに直して来るのだ。これは私がセカンドのころからの習慣になっていた。そのことはすでに【Episode18その12】で書いたが、「斬り捨て御免!」でもそれが続いたのだ。

 作家が鈴木生朗さんの場合は、佐々木さんが直接電話で私の意見を伝えることが多かった。鈴木生朗さんは元新聞記者で、京都在住のベテラン脚本家だった。佐々木さんとの仕事が多かったが、口の悪い佐々木さんは、名前を読み替えて「ナマロー」と呼んでいた。その影響か、撮影所のスタッフも「ナマロー」と呼ぶ始末だ。もちろん私はちゃんと「鈴木さん」と呼んでいた。

それまでも私の自宅に、鈴木さんからの電話は時々あったのだが、「斬り捨て御免!」が始まってからは、しょっちゅう電話が掛かって来るようになった。佐々木Pに述べた私の意見に対する問合わせもあったが、多かったのは「こんなシーンを撮れるロケ地はありますやろか?」という内容だった。話を聞いているとロケ地の話は口実で、どうも執筆に行き詰まると電話を掛けてくるようだった。「例えばこうするとか」と私がアイデアを出すと、「ほうほう、それからどうなりますやろ?」と訊いてくる。「うーん、思い切ってこんな展開にしたら」「なるほどなるほど、それで?」……結局、かなりの部分まで喋らされることになるのだ。最後は、「とにかく、面白いものを書いて下さい。そうしたら、現場はどんなことをしても撮りますから」と言って終わるのが常だった。

数日して完成した脚本を見て笑ってしまった。電話で話した個所の柱(脚本で各シーンの頭に「神社境内」とか「観音長屋・弥助の家」とか、そのシーンの場所設定が書かれる所)には、「とある場所1」「とある場所2」となっていたのだ。

 佐々木Pや鈴木さんとのこうした台本に関してのやりとりは、6~7年ぐらい続いたと思う。今から考えれば、私にとってはホン作りやホン直しの良いトレーニングになったと思う。そのトレーニングのお陰で、「赤い稲妻」のホン直しにも参加でき、それが日本テレビのPたちの信用も得ることになって、初監督抜擢にも繋がったに違いない。こういった経験は、後の監督人生にも役に立った。ホンに対してちゃんと意見を言い、ホンの欠点を補う方法を提案し、場合によると自分で直すことができるのは、Pから信頼を得るための武器になるのだ。そういった武器を身に付けさせて貰った佐々木Pには、感謝してもしきれないほどの恩義を感じている。また、監督としても使い続けてもらった。その感謝をちゃんと伝えないまま佐々木Pは亡くなってしまった。

 

「木曜ゴールデンドラマ」次回作

 「斬り捨て御免!」第1シリーズのチーフ助監督を務める傍ら、日テレ「木曜ゴールデンドラマ」次回作の準備も進めていた。「勇者に翼ありて」という原作を基にしたドラマだ。

この原作は、「赤い稲妻」の準備でその時はまだチーフ助監督だった私が大阪に行った時に、たまたま梅田地下街の書店で見つけた。なぜ手に取ったのか?私の母校・関西学院大学のアメリカンフットボール部の話だったからだ。関学という大学に対してはさほど思い入れはない。しかし、関学が強かったアメリカンフットボールは好きで、当時サンテレビで放送されていた、米大学アメフトのテレビ中継をよく見ていた。

「勇者に翼ありて」の内容はこうだ。関学エースQBS氏が試合中に頸椎損傷という大怪我を負った。その結果、下半身不随になり車椅子生活を送らざるを得なくなる。そのS氏の栄光と挫折、そして立ち直る過程の感動のドキュメンタリーだった。

 その本を読んでから数か月後の1980年5月末、「赤い稲妻」のオールラッシュ(注1)が京都映画であった。日テレからチーフPの野崎元晴制作局次長、保坂武孝P、三沢紳一P3氏が出席した。オールラッシュ終了後、野崎氏が言った。「面白い。いい出来だ。しかし、『赤い稲妻』の放送は来年1月(8ヶ月後)になる。その前に別企画を1本やってはどうか」。突然の次回作の提案だった。「赤い稲妻」のオールラッシュを見て「これは相当な赤字だろう」と感じ、その穴埋めに仕事を作ってやろうという意図だったと思う。保坂、三沢の両Pの口添えもあったのかもしれない。

 京都映画としては願ってもいない提案だった。だが、佐々木Pはあまりに突然の提案に答えが出て来ない。当時、「斬り捨て御免!」の撮影が進んでおり、その対応で手一杯だったのだ。佐々木Pが言った。「ヨウノスケ、何かないのか?」。え!?こっちに振る!?「えーと……」。その時、フト閃いた。「現代劇……です、けど……」「いいよ。現代劇でも」と、保坂Pが助け船を出してくれた。

 私は、「勇者に翼ありて」の内容を掻い摘んで話した。野崎チーフPが言った。「次回作はそれにしよう」。制作局次長がOKを出したのだ。企画はあっけなく決まった。そのころ、「木曜ゴールデンドラマ」の主流が「医療モノ」「難病モノ」になっていたのも後押ししたようだった。「助監督から修行しなおせ!」という佐々木Pの命令があったので、私は「斬り捨て御免!」のチーフ助監督業務と併行して、AP兼助監督チーフとして準備を始めた。(注1オールラッシュ:演出意図通りに編集されたフィルムをプロデューサー、監督、スタッフなどの立ち合いで試写すること。通常は音楽や効果音は入れていない。)

 

「はばたけ愛の翼」

 まず、原作者草鹿宏に連絡しドラマ化の許可を取った。キャストはその頃、「サード」や「十八歳、海へ」など話題作に立て続けに主演していた、若手俳優・永島敏行をキャスティングすることができた。恋人役はそれらの映画でも共演していた森下愛子。父母役には加藤武と草笛光子というまずまずの顔ぶれとなった。

 意外に難行したのが、関学S氏サイドの了解と関西学生アメリカンフットボール協会の協力だった。S氏本人に逢って説得したが、本名を使わせてもらうことの了解は得られなかった。協会としてもアメフトが危険なスポーツと受け取られることを危惧して協力は断られた。仕方がないので、S氏の本名は使わないこと、大学名も架空の名前にすることで、フィクションドラマとして制作することにした。タイトルは「はばたけ愛の翼」となった。

はばたけ愛の翼3

「はばたけ愛の翼」完成記念写真。前列右端が佐々木康之P、右から2番目が草笛光子、3番目が永島敏行、4番目が加藤武。2列目右端が照明・南所登、3番目が制作主任・黒田満重、4番目(サングラス)が録音技師広瀬浩一、6番目がキャメラマン・藤井哲也、左から2番目が監督・大槻義一。筆者はなぜか写っていない。

 

赤字の穴埋めに奮闘

 「はばたけ愛の翼」は1980年秋にクランクインした。監督は松竹木下恵介門下の大槻義一。私はとにかくお金を使わないように心掛けた。少しでも「赤い稲妻」の赤字を取り戻すためだ。主人公がアメフト選手なので、当然アメフトの試合や練習シーンが出てくる。事故が起こる試合の場面は、球技場全体が写るカットはよみうりテレビのゲーム映像を借りた。かなりの観客がスタンドに入っている映像だった。ゲームの場面では空抜き映像や地面バックの映像ばかり撮るわけにはいかないので、やはりある程度はスタンドに観客が必要だ。また、スタンドには主人公の両親や妹が見に来ているという設定なので、その周囲の観客も必要だった。ギャラが発生するエキストラをできるだけ少なくするために、知り合いみんなに声をかけて大津市王子競技場に来てもらった。佐々木Pの奥さん(藤井キャメラマンの実姉)が大活躍して、お友達をたくさん集めてくれた。

 アメフトの選手役も必要だ。本当はこっちの方が大問題だった。少しぐらいはアメフト経験が無ければ話にならない。また大学アメフトは部員が多い。どのチームも100名近くいる。関西学生アメフト協会に協力を断られていたので、関西の大学に頼むわけにもいかない。窮地に陥った。

この大問題は思わぬところから解決した。偶然にも、京都映画営業部門Pの白坂さんの息子さんが、日大アメフト部のOBだったことが分かったのだ。20代なので現役選手と言ってもおかしくない。彼に声を掛けてもらってアメフト経験者を集めてもらった。当時の大学アメフトでは、東の日大と西の関学がしのぎを削っていた。宿敵日大のOBたちが関学(ドラマでは架空の大学名を使った)の選手に扮してくれたわけだ。

アメフトのゲームや練習のシーン、また重要な主人公が負傷する場面などは、大槻監督がまったくアメフトのことを知らなかったので、私が撮ることになった。アメフトが盛んな関学大生だったことと、テレビでアメフトのゲームをよく観ていたことが役に立った。さいわいキャメラマンが、高校時代にラグビーをやっていた藤井哲也だったので、二人で相談しながら撮った。もちろん白坂君のアドバイスを受けながら。

 

こうして「はばたけ愛の翼」は完成した。総予算は2700万ぐらいだったが、500万ぐらい浮いたそうだ。「赤い稲妻」は7800万の赤字だったので、3分の2ぐらいは取り返したことになる。助監督修行はまだまだ続く。


                     To Be Continued  

 


※次回は来週水曜日(2025年2月5日)に投稿予定。



お知らせ

 スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 

照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 

受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 

是故空中 無色 無受想行識 

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界  無無明 

亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

般若心経