Episode21
 監督に復帰する

    ──さらに京都映画での日々

    その1

 

「斬り捨て御免Ⅱ」スタート

突然の監督指名や助監督修行やり直しなど、目まぐるしく激動した年が明けた1981年。私は映画界に入ってから、そろそろ丸8年を迎えようとする33歳だった。年明けから歌舞伎座テレビ・東京12チャンネル制作「斬り捨て御免!」第2シリーズの準備が始まった。第1シリーズ好評につき、若干登場人物と設定を変えての続編というわけだ。出演は三十六番所頭取花房出雲に中村吉右衛門、番士関大助に長門勇、宇部伝十郎に川崎公明、大沢数馬に市川百々丸。小料理屋千扇の女将初音に岩井友見、瓦版屋勘兵衛に小島三児、白河楽翁(元老中松平定信の隠居名)の孫娘・早苗に歌手の岩崎良美等々だった。歌舞伎座テレビも、力を入れた。第1回目と最終回には、中村吉右衛門の実父ですでに人間国宝となっていた八代目松本幸四郎(その年の10月に松本白鷗襲名)を、白河楽翁役で特別出演させたのだ。

 

助監督修行から再び監督に

私は第1シリーズに引き続き助監督修行やり直しということで、チーフ助監督(タイトル上では「監督補」)で準備から就いた。第1話は2時間枠の特別編だった。その第1話と森一生監督のことは【Episode14】で書いた。その後、南野梅雄、家喜俊彦、唐順棋などの監督のチーフ助監督を務めた。 
 【Episode20】でも書いたが、この助監督再修行の期間が、助監督として最も充実していたのではないだろうか。なんだか、ノビノビとチーフの仕事をこなしていたような気がするのだ。

 そして、第2シリーズも順調に軌道に乗ったという判断だったのか、第11話の監督を任されることになった。多分、京都映画サイドの佐々木康之プロデューサー(以降P)と、歌舞伎座テレビの沢克純Pの推挙があったに違いない。沢Pとは「斬り抜ける」を始め、「必殺シリーズ」や「日本怪談劇場」、「斬り捨て御免Ⅰ」などで、一緒にやって来た私たちのチームの一員だった。
 だが、1話分の監督を任されたからといって、監督身分に昇格したということではない。佐々木Pはそんなに甘くはない。助監督身分のままで、他の監督の作品ではチーフを務めながら1本撮らしてやるということだ。その証拠に、私にはしばらくの間、助監督としてのギャラも京都映画から支払われていた。歌舞伎座にとっても、私のような助監督身分の監督には、一人前の演出料を払う必要がないので、悪い話ではない。スタートしてからの数本は番組の勢いをつけるために、大物のゲストを呼ぶなどしてキャスト費などの経費が膨らむものだ。私を監督に起用すればその経費を少しでも回収できるというわけだ。だからといって、佐々木Pや沢Pが私にとって恩人だということに変わりない。そういうことを口実のひとつとして、私を監督として使い続けてくれたということだ。ともかくここからしばらくは、私は監督と助監督の二足のワラジを履くことになる。

 

監督復帰第一作

最初の監督作品は、サブタイトルが「忍びよる恐怖の影」。ゲストは田島玲子だった。当時の田島玲子は、多くの作品に出演していた売れっ子の実力派女優だった。ストーリーはこうだ。女(田島玲子)は病気の子供の高額な治療費を得るために、船宿で商人に身を任せる。その商人が船宿の2階から暗殺現場を目撃するが、暗殺者に顔を見られてしまう。船宿から逃げた商人は、暗殺者に殺害される。暗殺事件と商人殺害事件を探索する三十六番所は、二つの事件に関連があると睨む。そして女の存在を知り、行方を探す。女と子に暗殺者の魔の手が迫る。

 

濡れ場の演出

 当時の東京12チャンネルのドラマは、濡れ場が付き物だった。テレビ朝日「土曜ワイド劇場」などと並んで、それを売り物のひとつにしていたと言ってもいいかもしれない。そのころ青春時代を送っていた男性から、「親に隠れて見ていた」という話をよく聞く。そんなわけで、「忍び寄る恐怖の影」にも濡れ場はあった。冒頭の女(田島玲子)と商人の船宿での情交シーンだ。

私は元々そういうシーンは好きではなかった。嘘ではない。助監督時代にそういうシーンの現場に就いていても、なんだか退屈するのだ。濡れ場自体はドラマチックでも無いし、感動的でもないと思っていた。未熟にして、「濡れ場に演出的な面白さを見いだせなかった」と、言った方が良いかもしれない。だから後年、「土曜ワイド劇場」の監督をするようになって、ある時期からそういった「濡れ場」や女性の裸のシーンが無くなってホッとしたものだ。

 さて「忍び寄る恐怖の影」だ。私は女と商人の情交シーンを、まともに撮りたくは無かった。男と女が絡み合って「アヘアへ」では、芸が無いと思ったのだ。「まともには撮らないけど、色っぽいシーン」に出来ないかと考えた。行きついた結論は、「全体は写さずに部分で撮る」ことだった。しかも、「美しく艶っぽい映像」で。意味ありげな艶めかしい部分だけを見せて、後は密やかな息使いで想像させるという方法だ。

「クゥーとのけぞる、女のアゴと首筋」「女のやや内向きになった足先に力が入る」「女のきつく閉じた唇が少し開く」「女の膝が持ち上がる」「女の手が逃げる、男の手が追って掴む」というようなコンテだったと思う。

 

ベテランキャメラマンと組む

そういう画を撮ってくれたのは、中村富哉(富さん)さんだった。松竹時代からのベテランキャメラマンで、私とは「必殺シリーズ」や「おしどり右京捕物車」「斬り抜ける」「宮本武蔵」「みれん橋」などの作品で一緒だった。一時、キャメラマンを辞めて、京都映画の東京事務所長として営業活動していたが、「斬り捨て御免!Ⅱ」からキャメラマンに復帰していた。

実は私は、助監督になった時から仲の良かった藤井哲也(てっちゃん)キャメラマンと組みたかった。だが佐々木康之Pは、若い者同士で組ませると暴走するかもしれないと心配したのだろう。ベテランの富さんと組むことになった。京都映画では30本近く監督したが、7~8割が富さんとだった。

いま思えば、ベテランキャメラマンと数多く組んだのは、私の監督人生を顧みて悪いことではなかったと思う。相手がベテランなので、こちらもそれなりに説得力のある演出プランを作らなければならない。一方富さんの方は、「お目付け役」を兼ねて組まされていることを承知しているので、私のコンテにはより慎重に向き合うことになる。京都映画ではよく、キャメラマンがPに怒鳴られるのを聞いた。「お前が就いていながら、なんで監督にあんな馬鹿なこととをさせたんや!」と。監督を決めたのはPなのだから、無茶振りといえば無茶振り、責任転嫁といえば責任転嫁なのだが、それがまかり通っていたのが撮影所だ。

そういう意味で身構えている富さんに対して、無難なコンテにしろ、思い切ったコンテにしろ、とにかく納得させなければ現場はスムーズには進まない。監督がキャメラマンと揉めて現場がストップしてしまうようでは、監督としての力量が問われることになるのだ。キャメラマンだけではない。ほとんどのメインキャストは、私より年上のベテランだった。そのうるさがたの俳優さんたちを納得させるためには、まずキャメラマンを味方に付けなければ話にならない。

その後の京都映画での数年間で、私はそういった修行を、みっちり積ませて貰った。その経験は、その後の監督人生で大変役にたったと思う。若い監督は若いキャメラマンと組みたがるものだ。若い者同士で意気投合してイケイケで撮るのも悪くはないが、ベテランとガッツリ組んで苦労しながら撮るのも、修行という意味では一定の効果があるのではないだろうか。昨今は「修行」というものに、あまり価値を置かなくなったような気がする。もう少し見直しても良いのではないだろうか。

 

台本から入る美術・太田誠一

 「斬り捨て御免!」から美術が太田誠一さんになった。太田さんは大映京都撮影所出身のベテラン美術監督だった。1952年から「座頭市シリーズ」「悪名シリーズ」「若親分シリーズ」「忍びの者シリーズ」「薄桜記」などで、市川雷蔵や勝新太郎主演映画の美術監督を務めた。資料を見ると、時代劇を中心に王朝物から現代劇まで幅広く活躍してきたことが分かる。

 助監督の間は、それほど親しく言葉を交わす仲ではなかったが、「斬り捨て御免!Ⅱ」で監督をするようになってから、私は太田さんから様々なことを学んだ。まず、私が担当する台本ができると、美術の部屋に呼ばれた。開口一番太田さんが言う。「洋ちゃん、こんなホンで撮るんか?」。まず、ホン=脚本の話から始まった。こんな美術監督は、京都映画には今までいなかった。私は、台本の欠点や気に入らないところを挙げて、その解決方=直す方向を説明した。「分かった。それならええやろ。このシーンやけどな」。やっと美術の話になった。

「台本では座敷になっとるけど、畳に襖や障子の部屋ではおもろないやろ。板敷きの部屋にせーへんか?縁甲板張って、奥は障子付の格子窓にするんや。格子窓から逆のライトを利かして縁甲板光らせたらおもろい画になるん違うか」。台本の設定を変えてしまう美術監督も初めてだった。光線の使い方や映像の面白さを常に考えているのだ。

 

民家が荒れ寺に

太田さんはアングルを限定しての画作りの提案もしてくれた。「荒れ寺の表のシーンな、どうするつもりや?」「亀岡あたりで探してみようと思ってますけど」「こんな設定の場所、ロケではないやろう」。太田さんはロケ場所には滅法詳しい。京都市内はもちろんのこと、亀岡などの近郊も自分の庭のように詳しいのだ。太田さんが言うのだから、探してもないということだ。

「ちょっと付いといで」そう言って、太田さんは私をオープンセットに連れていった。立ち止まったのは町家の端にある仕舞屋の前だった。板張り屋根が剥がれて柱も傾いでいる。「普通の民家ですやん。寺には見えませんよ」と私。太田さんがニヤリと笑った。「見とけ」太田さんは持ってきたスケッチブックに、鉛筆でサラサラと立体図を書き始めた。覗き込む私。書きながら説明していく太田さん。「まず、手前に崩れた土塀を置く」「うちに崩れた土塀なんてありませんよ」「ほれ、あそこに置いてある作りもんの土塀を加工するんや」。なるほど。「次に奥の家の屋根に、こうやって割れた瓦や草を載せるんや。崩れかけた寺の屋根にみえるやろ」。なるほど、なるほど。「それから、入口の板戸の代わりに寺の格子戸を入れて、片方を外して斜めに立てかける。壁には障子紙の破れた火灯窓を嵌めるんや。最後は、土塀と本堂の間に斜めに傾いだ木(ボク)やススキを植える。どや、これで」。驚いた。目の前の民家が、スケッチブックでは完璧な「荒れ寺」に化けていた。「そのかわり、ドンデン(180度逆向きのカット)はあかんぞ。一方押しで撮らなあかん」。一方押しの撮影は、京都映画のお手のもので慣れていた。太田さんは台本の内容から、ドンデンの画は必要ないと判断したのだ。

 

美術監督・太田誠一

私だけではない。他のスタッフも太田さんを頼りにした。照明の南所登はライティングの狙いを説明して、建具や壁の高さなどの相談をしていた。そして「照明は美術しだい」を口にするようになった。キャメラマンの藤井哲也は「京都映画のオープンセットが使いやすくなったのは、太田さんが来てから」と言っていた。私はそれまでは美術担当者を、単にセットやオープンセットを作るデザイナーと思っていたが、西岡善信さんと太田誠一さん二人の大映出身美術さんと出会うことで、美術監督という名称がピッタリだと感じるようになった。撮影することに責任を負うのが撮影監督なら、撮影するものに責任を負うのが美術監督ではないかと思う。まさに美術監督は、撮影の両輪のひとつということになる。

 

カバ狩りプロデューサー

「斬り捨て御免!」に就いて驚いたのは、東京12チャンネルプロデューサーK氏の所業だった。夏場ということもあったのか、上下白のサファリファッションでやって来た。もちろんサファリハット・半ズボンにハイソックスだ。親友の都築一興(イッコウ)は、K氏のことを彼の体型も含めて「カバ狩りのオッサン」と呼んでいた。

K氏がやってくるのは決まって午前11時頃だ。まず、1本オールラッシュ(注1)を見る。もちろん監督や佐々木P、沢克純P、そして編集の園井浩一さん同席だ。しばらくすると、低くイビキが聞こえてきた。目を凝らしてみると、K氏だ。ラッシュが終わって試写室が明るくなる。K氏がカバッと……元へ、ガバッと立ち上がって言い放つ。「ウン、面白かった。OA(放送)を早めよう」。

その後、沢Pや監督と昼食に出かける。驚いたことに昼からビールを飲んでいた。昼食後、今度は別の話の初号試写に臨む。佐々木Pと沢Pそれに監督も同席する。今度は始まってすぐにイビキが聞こえ始める。イビキはどんどん高くなる。試写が終わって場内が明るくなる。またもカバッと立ち上がるK氏。「ウン、面白かった。OAを早めよう」。
 K氏は私が監督した作品の試写でも、イビキをかいて寝ていた。無性に腹が立った。「このカバ、殴ったろか」コブシを握りしめた。試写が終わってバカが……元へカバが言った。「ウン、面白かった。OAを早めよう」「ありがとうございます」私はそう言ってニッコリ笑った。

 夕方になると、K氏はそわそわし始める。「沢くん、そろそろ行こうか」。私も沢Pに誘われて同行したことがある。行先は河原町の韓国クラブだった。K氏は韓国クラブに目がなかった。入ってすぐおしぼりを持ったボーイがやってくる。「ご指名は?」。K氏が言う。「本物の韓国人ホステスを頼む」「かしこまりました」。ボーイが立ち去ると、K氏は店内を見渡して言った。「この店には、本物は3人しかいないな」。なんと一目で本物の韓国人ホステスかどうか見分ける眼力があるようだった。そんな眼力よりも、作品の善し悪しを見極める眼力を養って欲しいものだと、私は思った。もっとも居眠りしていては、眼力があっても作品の善し悪しは分からないが。(注1オールラッシュ:演出意図通りに編集されたフィルムをプロデューサー、監督、スタッフなどの立ち合いで試写すること。通常は音楽や効果音は入れていない)

 

      【Episode21】To Be Continued   

 


※次回は来週水曜日(2025年2月26日)に投稿予定




お知らせ

 スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 

照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 

受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 

是故空中 無色 無受想行識 

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界  無無明 

亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

般若心経