【Episode22】
京都映画での監督稼業
──まだまだ続く二足の草鞋
その2
前号からの続き
1982年春。資料によると「斬り捨て御免!Ⅲ」の第2話の後、引き続き第3話も私が演出していた。サブタイトルは「生か死か断崖に揺れる二人」。
ゲストにあの松坂慶子
ゲストは松坂慶子だった。松坂慶子といえば前年「青春の門」「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞などを取り、その年にも「蒲田行進曲」「道頓堀川」で2年連続最優秀主演女優賞を総なめした、当代NO1の超人気大物女優だった。よく、「斬り捨て御免!」に出てくれたと思うが、松竹所属だったので歌舞伎座との縁で特別にということだったのかもしれない。
脚本は和久田正明。私より2歳上だが「斬り捨て御免!」シリーズでは一番若手の脚本家だった。正常ではない親子関係のどろどろしたものが多い作家だった記憶がある。
「斬り捨て御免!Ⅲ」第3話
第3話のあらすじはこうだ。江戸でも有数の呉服問屋白木屋の上州出店は当主の娘おりは(松坂慶子)が切り盛りしていた。そのおりはの下女2人が、何者かにより惨殺される。三十六番所頭取花房出雲(中村吉右衛門)は、白河楽翁の指令により白木屋の身代が「翁の御前」一派に狙われていることを知り、関大助(長門勇)と平野与四郎(伊庭剛)に上州藤岡宿に向かうよう命じ、自らも上州藤岡宿に向かう。
白木屋上州出店は、紀州藩への絹布千疋納入期日を間近に控えていた。だが、出店に対する凶悪な事件が続出し、恐怖に駆られた雇人たちは店を辞めてしまう。加えて絹布を売り渋る業者が続出し、おりはは窮地に陥る。翁一味である上州代官(山口幸生)と翁配下の琵琶法師(石橋雅史)一味による妨害工作だったのだ。
そこへ押しかけの助っ人として出店に現れる出雲。ヤクザ者たちを叩きのめして白木屋の窮地を救い白木屋に住み着くが、おりは心を許さない。大助と与四郎は琵琶法師一味の妨害工作に逢い、藤岡宿に近づけない。出雲は桐生まで出向き、大量の絹布を調達してくる。白木屋は出雲の活躍で、何とか期日通りに紀州藩への絹布千疋納入を済ませることができた。出雲に感謝するおりは。
だが、上州代官は強引におりはを捕らえる。おりはを人質に取られた出雲も捕らわれ、2人は手鎖に繋がれて連行される。その道中、隙をみて出雲はおりはと共に逃亡する。追手を振り払いながら、険しい山野を逃げ回る2人。途中、崖を踏み外し、落下するおりは。その体を手鎖で支える出雲。おりはは崖から宙吊りになる。支えるのは手鎖だけ。2人の手は血まみれになる。迫る追手。出雲はおりはを救えるのか?
女優松坂慶子
松坂慶子とは助監督時代の「宮本武蔵」「お命頂戴」以来の3回目だった。彼女は大女優でありながら、撮影現場では駆け出し監督の私の指示にまったく異論を挟まなかった。私の指示通りに、いや指示以上の芝居を演じてくれた。「宮本武蔵」の時に感じた、セリフを言う前の耳障りな息吸いの欠点は、その時は克服していてまったく気にならなかった。
私は「目がキレイなひとだな」と思った。目が常に潤んでいて魅力的だった。従って、目を魅力的に撮ることを心掛けた記憶がある。着物姿で、かなり高低差のある野山での長時間の撮影にも、崖に宙吊りという無理な体勢でのしんどい撮影にも、イヤな顔ひとつせずに真摯に演じてくれた。「素敵な女優さんだな」と思った。
松坂慶子の潤んだ瞳がグッと目の前に
余談だが、松坂慶子とは数年後に東京の松竹本社のエレベーターで、偶然一緒になった。彼女は私に気付かない。狭いエレベーターの中で挨拶しないのも失礼かなと思い、「お久しぶりです」と声を掛けた。彼女はこちらを見たが反応がない。忘れたのだろうと思い、「京都映画でお世話になった。皆元です」と名乗った。いきなり彼女がグッと顔を近づけてきた。びっくりした。彼女は潤んだ瞳でジッと私の顔を見た。ドキドキした。彼女は目を細める。「エッ、エエッ、まさか!?」。彼女はパッと目を見開き、ニッコリ笑って言った。「ああ、どうもその節は」。彼女は強い近視だったのだ。すべてがそのための振る舞いだったのだ。すぐにエレベーターの扉が開いたのでそれっきりだったが、私には強烈な経験だった。
松坂慶子魔性伝説
昔のことわざに「目病み女に風邪ひき男」というのがある。「目が病気の女(近視も含む)は目が潤んで色っぽいし、風邪をひいた男は声が鼻に掛かって魅力的だ」と、いうことだ。昔から目が潤んでいる女性は、めっぽう色っぽいと思われていたのだ。松坂慶子の目は常に潤んでいた。その原因が近視だったということだが、そんなことはどうでもいい。松坂慶子の目は常に潤んでいて魅力的だった。断固として「イイ女」だった。
後で知ったのだが、「松坂慶子魔性伝説」という言葉があったらしい。私のように間近で彼女の潤んだ瞳でジッと見つめられ、「オレに気があるのか!?」と勘違いした男が多数いるとのことだ。私の場合は、撮影期間が短くて2人っきりになるという機会がなく、また見つめられるという経験をしたのもエレベーターの中での1度だけだったので、そういう誤解をしなかったが(ホンマに?)、長時間の撮影期間で何度もあんな表情をされたら、誤解するのも当然かもしれない。非常に遺憾ながら(まったく)、これ以降彼女と一緒に仕事をする機会はなかった。残念!無念!
「斬り捨て御免!Ⅲ」第5話
続いて撮ったのは第5話だった。サブタイトルは「やわ肌が乱れる地獄島潜入」。テレビ東京らしくやや色気を強調し過ぎたサブタイトルだが、まさしく文字通り潜入捜査編だった。脚本は鈴木生朗。
江戸近く大川河口の中州に、あぶれ者や犯罪者が住み着き、無法の島となった。その名も地獄島。その地獄島が「翁の御前」一味の支配のもとに抜け荷を繰り返し、そこで得た莫大な利益が、幕閣など要路への賄賂に使われていた。地獄島の翁一味の殲滅を白河楽翁から命じられた花房出雲は、片目の浪人者に身をやつして潜入する。ゲストは酔いどれ乞食坊主=地獄島謎の頭領に小松方正、出雲に惚れる遊女屋の女将お駒に赤座美代子などだ。
全編霧のシーンに
地獄島船着き場のロケ地は琵琶湖東岸琵琶湖大橋北側の砂浜だった。撮影初日はその琵琶湖東岸ロケからだった。その日の朝、近畿一帯は深い霧に覆われた。取り敢えず現場に向かったが、一向に霧は晴れない。現場に着いても視界は20mほどしかなかった。天気予報はその日一杯霧は晴れないというものだった。常識的には中止の状況だった。ここでの数シーンを霧の中で撮ると、それぞれの前後の地獄島シーンを、スモークを焚いたりして霧を作って撮らなければならない。非常に手間が掛かるわけだ。
だが私は考えた。「この作品は地獄島のシーンが80%以上だ。この霧を利用すれば地獄島をいかにも怪しく謎めいた雰囲気にできる。ここは手間が掛かるとしても、天与の霧を生かすべきではないか」。キャメラマン藤井哲也(てっちゃん)と照明技師南所登(南ちゃん)、それに美術の太田さんに了解を取って、スタッフに言った。「この霧を利用して撮ります。他のロケ場所やオープンセットに霧が繋がりますが、宜しくお願いします」。こうして、江戸のシーン以外は全編霧の作品に挑戦することになった。
一面が泥に変わった広沢の池
琵琶湖以外のロケ地は、嵯峨野の広沢の池だった。広沢の池は京都にある3つの撮影所のオープンセットと言っていいほど、撮影によく使われる場所だった。いつもは満々と水をたたえた風光明媚な観光地でもある。だがその時の広沢の池は、一年に一度行う水抜きの時期だった。水を抜かれた広沢の池は、ほぼ全面に渡って底が見えていた。そしてその底は、一面に泥で覆われていた。
いつもなら使うのをあきらめるその無残な光景を、私は利用できないかと思った。北側の雑木林から見ると、一面の泥が逆光で鈍く光って異様な景色になった。手前の雑木林側を地獄島に設定すれば、ぴったしの雰囲気だった。そしてその泥の上に、一筋の細い木橋を掛けた。地獄島からの唯一の出口という設定にした。この島を脱出する一筋の頼りない橋というわけだ。水抜きという特別な時期を利用することで、あの名勝広沢の池も地獄島の雰囲気作りに一役かった。
後は、オープンセット(OS)の長屋周辺と池の端を、地獄島の中の集落として飾って貰った。メインの舞台となる遊女屋兼居酒屋は、いつもは商家の中として使うOSの中を、猥雑な雰囲気に飾り変えて貰った。階段を掛けて、二階はヤクザのたまり場やお駒の部屋の設定にした。二階の部屋はセットに作った。これらのプランは美術の太田さんがアイデアを出してくれて、いい雰囲気で撮れた。広沢の池、OSのシーンでもスモークを焚いたことは言うまでもない。
長回しで撮る
この第5話は雰囲気を重視した作品だったので、長回しを心掛けてみた。例を挙げれば、女郎屋の女将お駒(赤座美代子)が年季明けの女郎に心付けを渡して、自分の身の上を語るシーンだ。
長回しその1
まずは遊女屋兼居酒屋のグループショット。階段下の板の間で、数人の女郎たちが年季明けで島を出る女郎と別れの宴を催している。まずはゆったりした画角で、地獄島の遊女屋というけだるい雰囲気、そして女郎たちの別れの宴の侘しさを表現するわけだ。そこにお駒が階段を降りてきて、年季が明けた女郎にヤクザの親分からせしめた心付けを渡す。その芝居とリアクションで、お駒が女郎たちに慕われているという人間関係が明らかになる。お駒に対する女郎たちの態度や表情で、それぞれの置かれている立場も見えてくる。そんなサイズの映像だ。「どうして女将さんは、こんなところにいるんだい?」という女郎の問いをきっかけに、お駒が自分の過去を語り始める。お駒は自分の思いに浸るように、女郎たちから離れてキャメラ前の飯台まで歩いて来て腰を下ろす。キャメラはそのお駒の動きと思いに合わせて、ゆっくり左前に移動してお駒の1ショットに詰めていく。そのお駒の芝居とキャメラワークが一致して、お駒の思いに入って行くのだ。最後はお駒のクローズアップとなり、完全にお駒の内面世界に入り込むというわけだ。
長回しその2
二人の登場人物を同じ方向を向かせて、長回ししたシーンもある。出雲とお駒の出会いの場面だ。出雲は潜入捜査の身だ。2人がまともに向き合って話すシチュエ―ションは避けたかった。居酒屋の飯台に向かって腰を下ろす出雲を画面の右側に置き、その前右半分にすだれを掛けてやや見難くしておいた。画面左奥からお駒が近付いてくる。出雲に声を掛け、やがて出雲の右に回り込み並んで腰を下ろす。そのお駒の動きに合わせて、キャメラは左前方にゆっくり回り込み、左手前に出雲右奥にお駒というタイト2ショットの構図になる。奥のお駒は出雲の素性に関心があるので、出雲の方を向いた芝居が多くなる。それに対し、手前の出雲はお駒の顔をまともには見ないので、右正面向きの演技が主流になる。従って、カットバックをしなくても二人の表情が良く見えるので、長回しが成立するわけだ。もちろん2人の演技力が、この長回しに耐えると判断してのことだが。
長回しその3
出雲と酔いどれ和尚(小松方正)の出会いも1カットで撮った。酔いどれ和尚の正体は後に明らかになるが地獄島の謎の頭領だ。カットを割って、酔いどれ和尚をワンショットで撮るのは避けたかったからだ。舞台は地獄島の飲み屋街の裏手。まずは手前に小舟を浮かべた池越しのルーズショットだ。出雲が右奥の居酒屋から出て来て、小舟で寝ている酔いどれ坊主に声を掛ける。「そんなところで寝ていると風邪をひくぞ」。起き上がった酔いどれ坊主が、船を降りて出雲に近寄りながら、酒代をねだる。その動きでカメラは右前方に移動しながら、もっと近くで見たいという視聴者の気持ちに合わせてサイズを詰めていく。出雲から銭を受け取った坊主は、銭を数えながらキャメラ前にくる。これで、左手前に坊主右奥に出雲というタイト2ショットの構図が成立する。坊主は銭に執着している設定なので、出雲の方は向かない。従って、奥の出雲は手前の坊主の方を向き、手前の坊主はキャメラのやや右方向を向いて、2人の演技がしっかり見えるわけだ。出雲は謎の頭領の正体を坊主に尋ねる。和尚は「知らない。この島で頭領の正体を知ろうとするものは早死にする」と、言い捨てて手前にフレームアウトする。それを見送る出雲のアップでそのカットは終わる。
長回しの狙い
なぜ長回しをするのか?一つには、カットを割るとどうしてもドラマが説明的になるからだ。別のカットからそのカットに変わるということは、「いまこのカットに写っている事物や人物に意味があるんですよ。この人物の表情や感情をよく見て下さい」という演出家の意図が出てしまうわけだ。もちろん、そうは視聴者に感じさせないように、アクションカットにしたり、言葉の強弱を工夫したり、目線や顔の動きを利用したりしてカットを切り替えるのだが、カットを割るとは基本的にはそういうことだ。
二つ目は、カットを割るとその場面の雰囲気や俳優の芝居が途切れそうな場合だ。同じ台本で別の演出家だと、そうでもないのかもしれない。だが私がそのシーンのコンテを作る時に、芝居の流れや組み立てを考えてみてそう判断すれば、カットを割らずに長回しで撮ることになる。
三つ目は、例えばAB2人の芝居の場合、常に2人の姿や表情を見せていたいと思うシーンがあるからだ。カットバックにすると、当然Aが写っているときはBの表情は見えないわけだ。私の場合、Aが重要なセリフを喋っている間のBの表情も見せたと思う場合が多い。だから、できるだけ二人の表情やリアクションが分かる2ショットの構図に持って行き、長回しで見せるということになる。そういう意味では基本的には2人にピントが合っているのが望ましい。必然的に2人がグッと接近するということになる。
四つ目は、「このシーンは、1カットで撮った方が俳優さんやスタッフのテンションが上がるんだろうな」と判断した場合。活動屋という人種は「このシーンは丼(1カット)で」と監督が言うと、一気にテンションが上がるものだ。重要な芝居処のシーンほどそういう傾向がある。俳優は「芝居をしている」という実感が湧き、スタッフは「撮影をしている」という気持ちになるものらしい。
五つ目はカットの割りようがないシーンの場合。どう考えてもカットの割りようがないシーンというのもあるものだ。そういう場合は「えい!やー!」と1カットで撮ってしまう。
六つ目。京都映画には「カットを割りたがる監督はアホや」という理不尽ともいえる価値観があった。特に必殺チームの技術陣に色濃くあった。俳優やキャメラを動かして長回しするのが良い演出で、俳優を動かさずにカットをたくさん割って撮る演出法は、無能な監督のやることだという考え方だ。必殺の成功がこういった極端な価値観を生んだと思われる。私はカットバックにはカットバックなりの良さがあると思っていた。どういった手法で撮るかは、その作品の狙いやテイストしだいなのだ。だが、私も京都映画のその価値観から、完全に自由ではなかったと思う。正直どこかで、長回しをするシーンはないかと探していたような気がする。そういった不純な動機もあったかもしれない。懺悔!
【Episode22】To Be Continued
※次回は来週水曜日(2025年3月26日)に投稿予定
お知らせ
スマホではこの後に、私が関知していない広告が掲載されるようです。目障りだと思われる方もおられると思います。お目にふれないようにスペースを作るため、般若心経を入れておきます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
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